竹心の魚族に乾杯

Have you ever seen mythos?
登場する団体名、河川名は実在のものとは一切関係ございません。

ときめきとわくわく

2011年05月11日 21時43分38秒 | 竹田家博物誌
前の記事の続きです。

学習システムが個体の内部において完成する、発達を完了するというのはどういうことなのでしょう。

それは日常の些細な行動、たとえば家具や電化製品を購入するとか、車で目的地に行くといったことにまで、「うまくやれたのか、それとも不成功に終わったのか」学習システムが逐一チェックを入れてくるということです。

水中の生物は陸上の生物に比べると原始的です。また「眼」を発達させた動物ほど、そうでない動物より高等だと言えます。そして学習システムが単純な生き物ほど脳の容積が小さく、学習システムが複雑な生き物ほど脳の容積が大きいということは、一般的な傾向として言えると思います。ですから、学習システムは眼や手や他の感覚器官、あるいは脳の他の領域に命令を出して、どんどん拡大させよう、そして自分自身も拡大していこうという傾向を持つことは明らかです。

こんなことは生物学的に見れば不自然であって、不合理です。というのは「必要に応じて発達する」というのがどんな生物、どんな生体組織にも共通したドグマだからです。そんな驚異的な傾向を持つものがあるということ自体、今の科学では単純には説明がつきません。見方によっては学習システムというのは完全に自己目的化した器官のようにさえ見えます。遺伝子がそうだという人もいるかも知れませんが、遺伝子は自分の乗り物をあやつったり傷つけたりはしません。

そこにはあるべきはずの生物共通のドグマが見えません。けれどもそれは「報酬」と「処罰」という大変よくできた仕組みによって、ものすごく巧みに構築されています。そういう驚異的なことが(ある条件では)実際に可能だということです。

もし誰かが自分の才能をできるだけ速く拡大したい、上達したいと望んでいるなら、この学習システムを「上手に利用する」のがおそらく一番の方法でしょう。学習システムを上手にコントロールしてあげるわけです。目的を達した時点で、さっと降りられるように、目の前の餌に自分が釣られないように注意しておかなくてはならないでしょう。本当のごほうびだけ頂いて、「いつわりの目標」をさっと諦めるわけです。馬鹿とハサミは使いようです。ところが努力や忍耐を必要としない状況、たとえば食事の時などにこれをやってしまうとペケ。それはそうですね。がっかりしてしまっておいしいはずの料理も台無しになるでしょう(笑)。だから食事の時はなるべく思い描かない。これこそが茶の心(?)。

願望を抱くことも、何か困難に挑もうとするときや長期に亘って継続する際には必要なことだと思います。何もマスターする必要がないものに対していちいち思い描いたりするから「茶がまずくなる」ようになるのだと思います。


さて、だいぶ脱線しましたが、ところで、私たち人間の学習システムが肥大化してくると、日常の諸行為にまで関心の幅を広げてきます。それが人間に本能的に備わっている無意識的なバランス感覚と結びつきます。いつでもどこでも「アッ!」と思うようになってきます。

これがエスカレートしていくと、たとえば風呂に入るとか、ドアのノブを掴むといったことでもドキドキし、大変な困難を覚えます。あらゆる行為に先立って「予測」を行い、アウトとセーフの判定基準を設定しようと試みます。そして明確な基準のないもの、たとえばお茶や料理、ダンスのような勝ち負けのない文化には「やろう」という意欲が湧いてこないようにしてしまうのです。

究極的に、女性ならあらゆる男性的なものを何か「不吉なもの」と感じ、男性なら女性的なものをことごとく「間違っている」と感じるでしょう。人間は成人して骨格の成長が止まっても内的には成長を続けますが、これによって容易に克服できない成長の停滞が生じるはずです。

「頭に思い描き」、「願望を抱く」ということが、この段階ですでに生きるための原動力となっており、何も願望のない状態など恐ろしくて想像などできません。恐いのです。学習システムによって「恐い」と思わされているのです。

願望を抱いているとき、胸がときめき、「わくわく」します。この間、元気になり、積極的に行動しようという意欲が湧いてきます。もともと「うつ」の傾向のある人はここで「治った」と感じるでしょう。※1けれどもこれがエスカレートすると、その間じゅう「これから先どうなるのか」ということに関心を持ちすぎます。そして「結果がどっちなのか」ということに必要以上に深刻になり、最後の最後まで「見届けようと」します。不安になるからです。

こういうのを「予期不安」と呼ぶそうですが、改めて考えてみると「パニック障害」というのは昔は「神経質」とかいって片付けられてきたわけですけれども、単に「予測機能」の発達し過ぎともいえるわけです。ですが学習システムがあまりにも完璧すぎたために、自滅するチャンスを逃してしまったのが不幸の始まりです。

何事も完璧すぎるのはよくない(笑)。

現代社会ではいちいちマニュアルを覚えていない、セリフを間違えた、応対の仕方を間違えた、と駄目出しの嵐です。あれも御法度、これも御法度、なんでもかんでも法度法度で、これじゃあパニック障害が増えても仕方ないなあと思います。

日本人は世界でも稀に見るくらい几帳面な人種なのですからなおさらです。どう見たって神経質は男の方が多いのに、実際パニック障害まで行くのは、意外と女性が多い。これなどもなんとなく分かるような気がするのですよね。


さて、そういう状況が永く続くとどういうことになるかというと、「何か起こりそうだぞ」という本当の「ときめき」を体験しないままに時を過ごすということになります。子供の頃の純粋な「ときめき」をすっかり忘れてしまうのです。その代わりに学習システムによって与えられた二次的な「ときめき」の中に過ごします。「何か起こりそうだぞ」という感覚がやって来たときに、即座に「こうなるだろう」とか「こうなって欲しい」という「予測」と「期待」がわーっと飛び出してくるのです。

子供というのは自分の大事なおもちゃを壊してしまったり、大切なペットを殺してしまったりしても、その直前まではときめきの中にいるわけです。これが大人の忘れてしまったホンモノの「ときめき」です。

こうして大人たちは、自分なりに何らかの意味付けを与えられないような文化が、あたかも自分にとってはゴミのように思えてきます。本当に、今の自分には関係がなさそうな文化には近づくこともできなくなります。心にゆとりがないからそうなるのではなくて、明確な理由があってそうなるというわけです。


「人間の価値観の変化」といってしまえば単純そうな話ですが、実際にはこんなふうに生理的なものが原因になっていて、雁字搦めになってしまっています。これは全然シンプルな話ではありません。「学習システム」、つまり「手足」の使い方や「眼」の使い方などという一見関係なさそうなものが、意外にもこんなところに作用しています。だから別に誰かの陰謀だとか、敵国の流言飛語だとかそういうことじゃなしに、自分たちの日常に一番の原因があるということです。

もし誰かが唐突に、呪術めいた摩訶不思議な方法で今の日本を救済すると言い出しても、たぶん誰も耳を傾けてはくれないでしょう。たぶんそういう方法はあるにはあるとは思いますが、そこには何の脈絡もないからです。みんな、心の奥底では「どうしてこうなってしまったのか」納得できる答えを求めていると思います。


必要なことは一見無関係そうに見える事柄の中からその本質を見抜くということです。「見る」ことから「読む」そして「見抜く」への転換です。

それを可能にするのは「間違う」ことを「気にしない」というおおらかさでしょう。



※1 脳の快楽中枢は、実際に報酬を得た瞬間よりも期待を抱いている時の方が活性化しているという。
参考:
ケリー・ランバート『うつは手仕事で治る!』飛鳥新社(絶版、原著:Kelly Lambert, Lifting Depression 2010, BASIC BOOKS、日経サイエンス別冊no.184『成功と失敗の脳科学』に抜粋記事)

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