「唯脳論」では、目的意識の発生について、視覚系と聴覚系、それに運動系を対比させて、以下のように説明しています(242ページ)。
私たちは普段、“通常は”何か行動する際は目的意識というものを持って行動しているわけです。でもそうじゃない場合もあると思います。あとで「お前、なんであんなことしたんだ?」と言われて全くデタラメな説明しかできないということがよくあります。目的がない、あるいは意味不明な行動を人前で行うと、ものすごく馬鹿馬鹿しく見えるか、あるいは逆に超クールに見えるものです。
上の「唯脳論」の一節は、「目的」というものが神経の発達段階のどの時点で発生したのかということを論じているわけです。
まあ、当然のことなんですけれども、何かを企ててから実際にそれが視覚入力や聴覚入力、あるいは「感触」の形で返ってくるまでにはタイムラグが発生しますね。例えば、何か物体を「動かそう」という場合、動かそうとしているのは自分の「手」ではなく物体なのですから、当然のことながら、予想以上に重かったとか、何か絡みついていたとかで、ひょいっと動かすことができないこともあるわけです。そうなると自分の予測が間違っていた、エラーだったというふうに返ってくるはずです。そしてそのエラーメッセージに従って、自分の行動を調整するわけです。「もっと力を入れろ」とか「もっと右だ」とかいうふうに。
これがプリミティブな意味での、「試行錯誤」の働きなのでしょう。
例えばハエの幼虫が側に置かれたチーズを食べるという場合、このような「試行錯誤」を繰り返すことで漸近的にチーズに辿り着くことができます。単純に直近と比べてチーズの匂い信号が増大すればそのまま進み、減少すれば向きを変えるというふうに、です。常に行動を修正しながら進んでいくことができるわけです。つまり、ハエの幼虫は「チーズのあるところまで行こう」という意識を持つ必要はなく、単に「チーズの匂いのする方へ近付いていこう」とする単純な知能を持つだけで済むわけです。
ところが先日の空中を漂っている虫を捕えるヤマメのように、ワンランク難易度レベルの高い摂食行動だと、「虫の方に近付いていこう」という基本行動だけでは永遠に餌にありつけないことになり、そこには何か別な手段なり能力なりが要求されることになるわけです。
当然のことながら、食べようとしている獲物に対しての明確なターゲット像を持つ必要がありますし、それに伴って獲物を獲るために自分がどう行動するかという「企て」と言うか行動計画のようなものも必要です。また、相手も動いているし自分も動いている、さらに獲物が空中にあるということになると、どうしても「予測する」という能力が必要不可欠になります。
さらに、レベルの高い行動が予測の必要な行動だということは、常に何%かの確率で失敗するという「不確実性」があるということでもあります。動いている餌、それも空中にあるとなると、地に着いた餌とは違い、全然確実ではないわけです。
そして、やはり魚がそうした難易度の高い行動を身に付けるためには、それに見合った「報酬」がなくてはそうした能力は育たないと思うのです。「予測」という能力は、その中でも最も典型的に、「育てる」「開発する」という要素が要求される能力だと思われます。「予測する」というからには、その「予測」の精度を高めなくては、実用的なレベルには達しないわけですけれども、最初から「実用レベルにある、精度の高い予測」というのは、そもそも進化論的に見て、生物体が獲得できるわけがない、つまり自然淘汰原理の範疇を越えているように見えます。生き物は基本的に、報酬のより多く得られる行動とより少なく得られる行動があれば、より多い行動をとることになり、より少ない行動は忘れ去られるはずです。試行錯誤という仕組みが徐々に進化して、ついに「予測する」という行動になったという説明は、そのために支払われるコストの面から見て、どうみても見合わないと思うのです。
また「飛んでる虫を捕まえるための予測の簡易版」みたいなものがあったとしても、やはり、それが実際に役に立たなければ、淘汰されることになるはず。けれども、比較的簡単な予測を伴う摂食行動を繰り返すことで予測精度を高め、やがてそれを空中を飛ぶ虫をとるときのように高度なものに応用するというふうに考えれば、とりあえず説明がつきます。そうすると、例えば「遊び」のような高等な脊椎動物だけに特有な現象も解明できる可能性が出てきます。
そしてまた、こうした摂食行動が高度になればなるほど、ターゲットを定め行動計画してから実際にその行動を完遂するまでの間に、かなりの時間経過が必要になってくるという点も見逃せません。行動を開始してから実際に「報酬」を得るまでの間にタイムラグが存在するわけです。もちろんヤマメが空中の虫を捕えるときのように「不確実性」が顕著な行動もあれば、反対に、ナマズが水面でカエルをじっと待つときのように、タイムラグの方が非常に大きい行動もあります。
こうした「不確実な行動」と「タイムラグのある行動」との間には「何かをやろうとしているがまだ成し遂げられていない状況」というひとつの共通項が存在します。もちろんこの状況下で生物体は「報酬」(ドーパミン神経のバースト発火)を得ていませんからモチベーションはどんどん低下していくはずです。筋力も低下するでしょう。行動の不確実性が増せば増すほど、タイムラグが長くなればなるほど、モチベーションを維持する仕組みが必要になってきます。それが、言うなればオレキシン神経の役割なのではないか、つまり「意欲」だとか「希望」ということになるのではないでしょうか。
もちろん「モチベーションを維持する仕組み」などというものを新たに持ち出さなくても、従来の「学習」と「快楽原則」だけでこれを説明することはできます。例えば誰かに「ここをもうちょっと凌げば、もう少しでゴールだぞ」というふうに「教わる」ということ。あるいはまた、別な誰かが実際に成功しているのを見て、「じゃあ、もう少し頑張ってみようか」と考えるということ。さらにまた、「もうだめだ」と絶望的になったときに、別な誰かから励ましてもらうということ、などです。
ですがこれらは全て、「他者」の存在が必要条件となっているという点が共通しています。群れの中にいないとこの種のモチベーションは成立しないということです。実際の動物の世界では、たった1匹で、不確実で忍耐の必要な行動をやり遂げるという例はいくらでもあると思うのです。
心理学で言う快楽原則で「何かをやろうとしているがまだ成し遂げられていない状況」というものを考えてみますと、それは明確に「不快」や「不満」のカテゴリーに属することになり、すると「生き物はそうした状況を意図的に避けるはずだ」という結論になってしまう。全然「行動をそのまま続けよう」という状況ではないわけです。そうすると長い距離を歩くカモシカのような「粘り強くやり抜く、やり遂げる」という行動が全く説明できなくなります。
そこで「そうした一見不合理な行動は、その萌芽がDNAにインプットされているのだ」という説明が出てくるわけですけれども、今まで何らかの行動のプログラムがDNAから発見された例というのはありません。やはりDNAでは無理があると考えた方が無難な気がします。
哺乳類のような高等な脊椎動物は神経系が完成された状態で生まれてくるわけではなくて、胎内で緒器官が形成されて徐々に神経系も複雑になっていく、それも外界からの刺激を受け、また自分のとった行動がさらなる刺激として戻ってくることによって発達していくと考えられます。ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」じゃないですが、神経の発達面だけ見れば、人間だってある意味ムシやサカナの状態を経過して成長するんではないかと。
してみると、当然最初は専ら「欲望」に従って生きることになり、次の段階として、「自制心」を発達させて困難なことに挑むことに喜びを見出すことになり、忍耐心が生まれます。ですがその頃になると同時に理性や価値観も芽生えてきますから、次の段階として「何かをやろうとしているがまだ成し遂げられていない」期間をできるだけ短くしようというバイアスが掛かってくるであろうことはほぼ決定的だと思われます。その方が間違いなく賢いですし、うまくいけば報酬を最大化できるからです。
そうすると、次の段階は目標を達成する期間を最短化しようという動機(もちろんこれは説明不可能なものでしょうが)が生じて来るでしょうし、そうなれば無意識的に、急ぐ、時間を節約する、あるいは部下や下請け業者を急がせることに心の安らぎを感じてしまうということも充分ありうると思います。中高年の方で、時間ギリギリ、予算ギリギリで何かをやり遂げることが楽しそうで、それをいつもいつも繰り返している人をよく見かけます。この人間という生き物にはその次の段階はないのかなあとマジで思います。
まあ、おそらくこうしたことも人体に潜むセキュリティホールの一つなのでしょうが、「何かをやろうとしているがまだ成し遂げられていない」期間を短くしようとすることに理性を用いるのではなく、別な方向に切り替えることができれば、こうした困難から抜け出せるんじゃないかと思います。
「運動系は別である。間違った行動をして、餌をとり損なった動物なら、行動を訂正する必要がある。しかし、たとえば行動全体は間違っていても、筋肉は言われたとおり動いている。その点で筋肉を叱るわけにいかないとすれば、運動系はその都度の運動全体の適否の判断を、どこかに預けざるを得ない。そこから目的意識が生じる」
私たちは普段、“通常は”何か行動する際は目的意識というものを持って行動しているわけです。でもそうじゃない場合もあると思います。あとで「お前、なんであんなことしたんだ?」と言われて全くデタラメな説明しかできないということがよくあります。目的がない、あるいは意味不明な行動を人前で行うと、ものすごく馬鹿馬鹿しく見えるか、あるいは逆に超クールに見えるものです。
上の「唯脳論」の一節は、「目的」というものが神経の発達段階のどの時点で発生したのかということを論じているわけです。
まあ、当然のことなんですけれども、何かを企ててから実際にそれが視覚入力や聴覚入力、あるいは「感触」の形で返ってくるまでにはタイムラグが発生しますね。例えば、何か物体を「動かそう」という場合、動かそうとしているのは自分の「手」ではなく物体なのですから、当然のことながら、予想以上に重かったとか、何か絡みついていたとかで、ひょいっと動かすことができないこともあるわけです。そうなると自分の予測が間違っていた、エラーだったというふうに返ってくるはずです。そしてそのエラーメッセージに従って、自分の行動を調整するわけです。「もっと力を入れろ」とか「もっと右だ」とかいうふうに。
これがプリミティブな意味での、「試行錯誤」の働きなのでしょう。
例えばハエの幼虫が側に置かれたチーズを食べるという場合、このような「試行錯誤」を繰り返すことで漸近的にチーズに辿り着くことができます。単純に直近と比べてチーズの匂い信号が増大すればそのまま進み、減少すれば向きを変えるというふうに、です。常に行動を修正しながら進んでいくことができるわけです。つまり、ハエの幼虫は「チーズのあるところまで行こう」という意識を持つ必要はなく、単に「チーズの匂いのする方へ近付いていこう」とする単純な知能を持つだけで済むわけです。
ところが先日の空中を漂っている虫を捕えるヤマメのように、ワンランク難易度レベルの高い摂食行動だと、「虫の方に近付いていこう」という基本行動だけでは永遠に餌にありつけないことになり、そこには何か別な手段なり能力なりが要求されることになるわけです。
当然のことながら、食べようとしている獲物に対しての明確なターゲット像を持つ必要がありますし、それに伴って獲物を獲るために自分がどう行動するかという「企て」と言うか行動計画のようなものも必要です。また、相手も動いているし自分も動いている、さらに獲物が空中にあるということになると、どうしても「予測する」という能力が必要不可欠になります。
さらに、レベルの高い行動が予測の必要な行動だということは、常に何%かの確率で失敗するという「不確実性」があるということでもあります。動いている餌、それも空中にあるとなると、地に着いた餌とは違い、全然確実ではないわけです。
そして、やはり魚がそうした難易度の高い行動を身に付けるためには、それに見合った「報酬」がなくてはそうした能力は育たないと思うのです。「予測」という能力は、その中でも最も典型的に、「育てる」「開発する」という要素が要求される能力だと思われます。「予測する」というからには、その「予測」の精度を高めなくては、実用的なレベルには達しないわけですけれども、最初から「実用レベルにある、精度の高い予測」というのは、そもそも進化論的に見て、生物体が獲得できるわけがない、つまり自然淘汰原理の範疇を越えているように見えます。生き物は基本的に、報酬のより多く得られる行動とより少なく得られる行動があれば、より多い行動をとることになり、より少ない行動は忘れ去られるはずです。試行錯誤という仕組みが徐々に進化して、ついに「予測する」という行動になったという説明は、そのために支払われるコストの面から見て、どうみても見合わないと思うのです。
また「飛んでる虫を捕まえるための予測の簡易版」みたいなものがあったとしても、やはり、それが実際に役に立たなければ、淘汰されることになるはず。けれども、比較的簡単な予測を伴う摂食行動を繰り返すことで予測精度を高め、やがてそれを空中を飛ぶ虫をとるときのように高度なものに応用するというふうに考えれば、とりあえず説明がつきます。そうすると、例えば「遊び」のような高等な脊椎動物だけに特有な現象も解明できる可能性が出てきます。
そしてまた、こうした摂食行動が高度になればなるほど、ターゲットを定め行動計画してから実際にその行動を完遂するまでの間に、かなりの時間経過が必要になってくるという点も見逃せません。行動を開始してから実際に「報酬」を得るまでの間にタイムラグが存在するわけです。もちろんヤマメが空中の虫を捕えるときのように「不確実性」が顕著な行動もあれば、反対に、ナマズが水面でカエルをじっと待つときのように、タイムラグの方が非常に大きい行動もあります。
こうした「不確実な行動」と「タイムラグのある行動」との間には「何かをやろうとしているがまだ成し遂げられていない状況」というひとつの共通項が存在します。もちろんこの状況下で生物体は「報酬」(ドーパミン神経のバースト発火)を得ていませんからモチベーションはどんどん低下していくはずです。筋力も低下するでしょう。行動の不確実性が増せば増すほど、タイムラグが長くなればなるほど、モチベーションを維持する仕組みが必要になってきます。それが、言うなればオレキシン神経の役割なのではないか、つまり「意欲」だとか「希望」ということになるのではないでしょうか。
もちろん「モチベーションを維持する仕組み」などというものを新たに持ち出さなくても、従来の「学習」と「快楽原則」だけでこれを説明することはできます。例えば誰かに「ここをもうちょっと凌げば、もう少しでゴールだぞ」というふうに「教わる」ということ。あるいはまた、別な誰かが実際に成功しているのを見て、「じゃあ、もう少し頑張ってみようか」と考えるということ。さらにまた、「もうだめだ」と絶望的になったときに、別な誰かから励ましてもらうということ、などです。
ですがこれらは全て、「他者」の存在が必要条件となっているという点が共通しています。群れの中にいないとこの種のモチベーションは成立しないということです。実際の動物の世界では、たった1匹で、不確実で忍耐の必要な行動をやり遂げるという例はいくらでもあると思うのです。
心理学で言う快楽原則で「何かをやろうとしているがまだ成し遂げられていない状況」というものを考えてみますと、それは明確に「不快」や「不満」のカテゴリーに属することになり、すると「生き物はそうした状況を意図的に避けるはずだ」という結論になってしまう。全然「行動をそのまま続けよう」という状況ではないわけです。そうすると長い距離を歩くカモシカのような「粘り強くやり抜く、やり遂げる」という行動が全く説明できなくなります。
そこで「そうした一見不合理な行動は、その萌芽がDNAにインプットされているのだ」という説明が出てくるわけですけれども、今まで何らかの行動のプログラムがDNAから発見された例というのはありません。やはりDNAでは無理があると考えた方が無難な気がします。
哺乳類のような高等な脊椎動物は神経系が完成された状態で生まれてくるわけではなくて、胎内で緒器官が形成されて徐々に神経系も複雑になっていく、それも外界からの刺激を受け、また自分のとった行動がさらなる刺激として戻ってくることによって発達していくと考えられます。ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」じゃないですが、神経の発達面だけ見れば、人間だってある意味ムシやサカナの状態を経過して成長するんではないかと。
してみると、当然最初は専ら「欲望」に従って生きることになり、次の段階として、「自制心」を発達させて困難なことに挑むことに喜びを見出すことになり、忍耐心が生まれます。ですがその頃になると同時に理性や価値観も芽生えてきますから、次の段階として「何かをやろうとしているがまだ成し遂げられていない」期間をできるだけ短くしようというバイアスが掛かってくるであろうことはほぼ決定的だと思われます。その方が間違いなく賢いですし、うまくいけば報酬を最大化できるからです。
そうすると、次の段階は目標を達成する期間を最短化しようという動機(もちろんこれは説明不可能なものでしょうが)が生じて来るでしょうし、そうなれば無意識的に、急ぐ、時間を節約する、あるいは部下や下請け業者を急がせることに心の安らぎを感じてしまうということも充分ありうると思います。中高年の方で、時間ギリギリ、予算ギリギリで何かをやり遂げることが楽しそうで、それをいつもいつも繰り返している人をよく見かけます。この人間という生き物にはその次の段階はないのかなあとマジで思います。
まあ、おそらくこうしたことも人体に潜むセキュリティホールの一つなのでしょうが、「何かをやろうとしているがまだ成し遂げられていない」期間を短くしようとすることに理性を用いるのではなく、別な方向に切り替えることができれば、こうした困難から抜け出せるんじゃないかと思います。