竹心の魚族に乾杯

Have you ever seen mythos?
登場する団体名、河川名は実在のものとは一切関係ございません。

予測・目的から競争へ

2010年04月08日 22時25分16秒 | 竹田家博物誌
生物学的に「目的」について説明するという、ユニークな説が書かれていた先日の「唯脳論」ですけれども、その前節(242ページ)に次のような一節があります。


運動ないし行動には、始めから「間違い」が許されている。〔中略〕知覚系にも同じようなことがある。しかし、視覚とくに擬態について述べたように、感覚系が自身の判断を訂正するためには、異質の感覚(1)にしばしば頼らざるをえない。少なくとも感覚器の末端は、間違うことはほとんどできない。〔中略〕知覚系の原理は、したがって、試行錯誤ではない。それは「濾過」である。現にあるものの中で、どれを取り、どれを捨てるか。眼は可視光しか感知しない。同様に耳は可聴域の音しか聞かない。そこではすでに、自然に存在するものは適当に「濾過」されている。



視覚・聴覚系は訂正するということがつきまとうが、運動系は試行錯誤しかないと言っています。これは一瞬何を言わんとしているのか見当が付きかねるのですけれども、私たちが対象物をまず目で見て予測を立て、それから手を伸ばしてつかむと言うことを思い浮かべれば、この種のエラーが何に対してのエラーなのかはっきりすると思います。

視覚系について言えば、霊長類が物体の輪郭を鋭敏に捉えられる視野角はたったの2°だと言われています。私たちは止まっているものを見ているときでも、実はこの中心視野角を上下左右に動かして1枚の視覚イメージを得ている、というわけです。しかもその動画にはもともと大量のノイズが含まれています。視野を動かしながら物体を走査している間に、画像の前と後とで矛盾した領域があればそれはノイズとして捨てるわけです。
聴覚系はもっともっと顕著で、人間が聴く音の情報のほとんどがノイズというか無駄な情報です。耳から入ってくる音情報の全てを前頭前野に送り込んでいては脳がパンクしてしまいます。だからかどうか分かりませんけど、それらの音の中から有意と思われる情報や心地よい和音だけを無意識に抽出しているわけです。

こんなふうに視覚系・聴覚系は必要な情報を残して残りはどんどん捨てるという仕組みをシステムの中に持っています(2)。これが養老先生の言う「濾過」の意味だと思うのです。
それに対して触覚系(運動系)は「情報を捨てる」という作用が確かに弱いような気がします。触覚系の刺激というものは、無駄なものは全然なくて、朝起きてから寝るまでに体感するもの全てが神経の維持のために必要なのかも知れません。視覚系や聴覚系が心地よい体験を容易に思い起こし夢想できるのに対して、「心地よい感触」というものはどんなに印象に残ったものでも想起することが比較的に難しいからでしょうか。湯上がりの風、洗い立てのジーンズといったような感触はありありとリアルに思い出すことは難しいですよね。
まあ、逆に、そうした皮膚感覚によって過去の記憶が蘇ってくるということは日常よく経験するのですけれども。


ですから触覚系(運動系)というのは、「もう冷めているだろうと手を伸ばした鍋がまだ熱かった」というふうに、通常は触覚系のシステム自身がミステイクをするのではなくて、その前の判断(3)の間違いが「意図していない結果」として返ってくるわけです。

ようするに触覚系の「しまった!」は“イベント”に先立つ判断ミスがその主な原因なのに対し、視覚系の「!?」は「見る」というイベントの後の情報処理に関するエラーだということです。ノイズのない画像や音など自然界にないわけだから、少なくとも「見る」とか「聞く」という行為そのものに過失責任はない…。


当たり前すぎるほど当たり前のことですけれども、これらのことは裏を返せば、前もって目標を定めるタイプの行動は、もちろん成功もしますけど、本質的に「ミステイクをする」、つまり「目的を達成できない」ケースが不可避であるということを意味しています。これは手探りで何かを探すような行動とはまるっきり正反対だということがわかります。何も予測・目標設定していなければそもそも「意図していない結果」が起こるはずがありませんから。



それじゃあいったい、動物というのは進化のどの時点で「予測」するようになったのか?ということになると思うんですけど、それではひとまず原始的な生命体を思い浮かべてみましょう。

その原始生命体は水中で生活していて、原始的な運動機能を持っていて泳いで移動することができるとします。そして、餌となる資源を見つけるのにアミノ酸の濃度勾配を関知することを利用しています。例えば頭部の左右に一対のアミノ酸受容体があり、左右で受信したアミノ酸濃度を比較して、濃度の高い方に進行方向を変えて進み、左右が同等の場合は停止、つまり能動的な移動を行わないとします。
この原始生物は(環境が充分に豊かであれば)、ものすごく単純なアルゴリズムだけで自己充足でき、生き延びることができます。「予測」することも、そもそも餌資源にありつこうという「欲」を持つ必要すらないわけです。必要な手続きに従って機械的に行動していれば生きていけてしまうというわけです。もちろんこれでは神経系が発達した生物が現れてくるはずはありません。

ところが何かのきっかけで「眼」を持った生き物が現れます。

ダーウィン自身が気にした弱点がある。それは目である。なぜ目は進化してきたのか。三葉虫のレンズには、デカルト型とホイヘンス型の収差抜きレンズが存在する。なぜ三葉虫は収差の存在を知ったのか。第一、ダーウィンの言うところにしたがえば、どうやって「ゆっくりと、わずかずつ」収差を除いていったのか。収差を「除きかけ」の半端なレンズを持った三葉虫はないのか(「唯脳論」244ページ)。


ここには大変な飛躍があり、それは昔から進化の謎として何度も取り上げられてきた生物史上の大事件なのですね。
ホヤという動物は面白い生き物で、幼生の時は泳いで動き回ることができるのですが、成体になるとイソギンチャクのように岩に貼り付きます。で、その幼生には「眼」に似た感覚器官があるのです(4)。このホヤが、われわれ脊椎動物の起源になったと言われております。ホヤの幼生みたいなものが発展して、軟骨魚類→硬骨魚類と進化したわけですね。そう考えるとホヤにもものすごく愛着が沸いてきます。

「眼」という感覚器官を獲得した生物は、その「眼」という器官があまりにも高度なために、眼を持っていない生物よりも、それに見合っただけのものを外界から取り入れて維持しなくてはならないわけです。必然的に眼を、持っていない生物よりも有利に、生存のために利用できなければ、それは生物史上淘汰されずに生き残ることは不可能だっただろうということです。先ほどのホヤの例で言えば、成体が遊泳生活をやめてしまうのは「眼」とそれに付随した神経系の維持コストが馬鹿高いために、それを放棄してしまうというふうに考えることができるでしょう。

そうすると、「眼」の優位点、つまり光を利用して対象をとらえる長所を生存のために利用できた生物が今日まで「眼」を失わずに生存できたのだと考えることができると思います。例えば、両生類のカエルは飛んでいるハエを捕まえるすばやい舌を持っています。動きが緩慢と言われるカメですら、危険を感じたときにはすばやく手足を縮めます。ここに、眼を持った生き物がそうでない生き物に比べて運動能力が高いという傾向の、根源的な分岐点がありそうです。

「眼」を持った生物は、その「眼」を維持するために、より“質の高い”(4)餌を常食しなくてはならないし、そのためには、より高度な採餌行動を営まなければならない。その高度な採餌行動とは「予測」を伴ったものではないのか? 「眼」を持った生き物がそうでない生き物に対してその優位性を発揮できるのは、予測ができなければ捕獲できないような餌生物に恵まれたときではないのか?
予測システムは下等生物との競争の都合上、そしてそのシステムの性質上、どうしても予測が成功裏に果たされたときの「報酬」というものが必要不可欠。なんだか競馬みたいですが、その「予測への報酬」というものが存在することによって、報酬への期待、そして「目標」「目的」というものが生じてくる。そしてより高度な採餌行動を成功させるためには、一度失敗しても再度挑戦する、忍耐強さというものがどうしても必要です。「予測への報酬」がドーパミンだとすれば、忍耐強さの方はセロトニンと見てだいたい合っているんではないか。

「予測への報酬」というものが生じることによって、ここでさらに新たなものが現れてきます。1つの餌生物に対して、複数の動物が同時に目標設定を行った場合どうなるでしょうか。
その中の1匹が首尾よく成功裏にレッスンを完結する一方、他の個体は目標物を「奪われる」という経験をすることになるのではないでしょうか。予測そのものは間違っていなくても、結果的に「意図しない結果」つまり予測―報酬系のエラーとして返ってくるわけです。予測―報酬系はおそらく混乱させられるでしょう。勝った方は成功裏に予測―報酬系の回路を強化させる一方、負けた方は予測―報酬系の発達がその分だけ遅れることにならないでしょうか? そうだとすればこのような競争を繰り返すうちに、より有利な個体とそうでない個体との間に神経系の発達に差が生じてくることが予想されます。

「競争」にこのような神経面での作用があるとすれば、ここに何らかの費用を投じても「勝つ」ことにメリットが見出されることになります。「餌生物を捕獲する」という行為に掛かる費用の他に、「勝つ」ための費用を追加して投じることが明らかに理にかなっています。なぜならそうしなければ予測―報酬系を健全に発達させられないわけですから。それが競争に伴うある種の活気、興奮作用(アドレナリン)だと思うのです。アドレナリンは必要なときだけ放出され、貯めていたエネルギーを燃やす働きがあります。


また、目標物となりうる対象を目にしたときに、ある種の期待が沸き起こってくるという反応も次第に生じてくるでしょう。当然のことながらそうしたものを目にしたときに興奮あるいは欲情、今風の言葉で言えば「萌える」ということがちょうどそれに当てはまると思います。確かに「萌える」ようなものは入手しにくいものが多いですね。




1 例えば、視覚系なら聴覚系、聴覚系なら視覚系、…ということだと思います。
2 もちろん、意識的な判断と習慣化された判断とがあります。
3 高等動物の脳には輪郭先鋭化やノイズリダクション、圧縮技術など、今日のデジタルカメラと同様な情報処理機能があると言われています。その中心になっているのが「海馬」だそうです。
4 西原克成「生物は重力が進化させた」http://www.nishihara-world.jp/books/book03.htm(1997、講談社ブルーバックス)が面白いです。グーグルで「ホヤ 幼生」と検索しても面白い図が出てきます。
5 栄養価の高い、カロリーが高いということではなくて、エントロピー的な意味でクオリティが高いということです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 予測する能力の獲得と「目的... | トップ | ストレスと欲求不満について »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

竹田家博物誌」カテゴリの最新記事