喜びは幼年期に置いてきた タチャーナ・クラコフスカヤ(女・17歳)
第一中等学校十年生 バラーノビチ町
セシウムが崩壊(※)すると
厳しい不幸に追い立てる運命が!
太陽の下には居場所を
僕らは見つけられない
ミコラ・メトリッツキー
※セシウムが崩壊
セシウム137は崩壊して余分なエネルギー(放射線)を放出して、安定したバリウム137に変化する。
大地は眠っていた。暗く、暖かい夜がすべてを包みこんでいた。木々のつぼみの香りでいっぱいになる春の盛りは、すぐそこまでやってきていた。
その日、私は8歳の誕生日を迎えていた。あたりが暗くなって庭からもどってきた母は、手に白樺の枝を持っていた。その枝についた茶色の丸い実は、美しく輝き、心地よい春の香りをただよわせていた。母は、私の誕生日を祝って喜びに満ちあふれた顔をし、白樺の枝をそっとプレゼントしてくれたのである。
だが、この毎年きまってやってきた美しく輝く自然の躍動は、4月26日の夜、巨大な目に見えない恐ろしいものによって、奪われてしまった。それまでは、緑の豊かな自然が、人々に喜びと幸せをもたらすと教えられてきた。しかし、今では花や枝を手で摘むのもいけないと注意されるようになってしまった。母はもう、私に誕生日のプレゼントもできなくなってしまったのだ。こんなになってしまった世界に親しみを感じることはできない。私たちはこれからどうやって生きていけばよいのだろうか。
事故のあった前の日の夕方、私と弟のワーニャは父に連れられて、おばあちゃんの住むオラビッチ村へ、車で向かった。農園のじゃがいも植えを手伝いに行ったのだった。その村はホイニキの南側にあった。私は、その日のことをよく覚えている。陽が沈む前、まわりの景色はとても美しく、私と弟は、はしゃいでいた。父が遠くまでドライブに連れていってくれることがうれしかったのだ。私たちは、後ろの座席で笑い声をあげて喜び騒いでいた。父は、運転をしながら静かで楽しそうなメロディを口ずさんでいる。それは父のいつものくせだった。おばあちゃんの家に着いたのは、すっかり遅くなってからだった。首を長くして待っていてくれた彼女は、絞りたての牛乳を温めて飲ませてくれた。私たちは、暖かな喜びを感じながら、眠りについた。しかし、その眠りの間に、幸せは、永遠に私たちの心から逃げてしまうことになったのである。
あの恐ろしい夕方から8年間が過ぎた。私はもう17歳になった。私の心は空っぽのままである。幸せは4月26日から、無限の荒野をさまよったまま元に戻っては来ない。私の心が、現実を受け入れることはできないからだ。
いつだったか、クラスノボーリエ村から遠くない所で釣りをしていた漁師が、その恐ろしい夜の話をしてくれたことがある。彼らは、火の柱を見た。それは、天まで届きそうに垂直に立ち、黄色、白、茜色の光が同時に鮮やかに光っていたそうである。その後、火の柱は、大地を照らしながら、ブラーギンの東の方向に消えて行った。その火の柱は、大地に肉体的な痛みは与えなかったが、健康を害し、命を奪う種をばらまいてしまったのである。この大地がうずいている間は、私の心に幸せはやってこないだろう。大地のうずきはいつ消えるのか、私は知らない。私が生きている間、いつまでもこのままなのだろうか。
祖母の村オラビッチは、いや正確に言えば、過去にあったその村は、ウクライナのヤノフ村から27キロの地点にあった。ヤノフ村の向こう側に原発職員の町プリピャチと原発が建設された。そこから15キロ離れたところにあった小さな集落チェルノブイリの名を使うことになったのである。誰が名付けたのか。それは、ウクライナのヨモギ草の名前(※)ではなく、昔、そこに人々を苦しめる痛みがあったからそういう地名になったのだと思う。最近まで緑に埋もれていたチェルノブイリの町は死んでしまった。祖母のオラビッチ村も死んでしまった。人間の生活が豊かに花開いていた土地に、いまいましい原発を建設しようと考えついた人が、今、生きていれば、呪いたい。
※ヨモギ草の名前
『チェルノブイリ』には、「ニガヨモギ」と「チェルノ(痛い)ブイリ(できごと)」という意味がある。
朝とは何だろうか。それは、昇ってくる太陽に向かって、自然が背伸びをし、鳥のよろこぶさえずりが空に満ちる時である。しかし、その日の朝はひっそりとしていた。不自然な静けさが、危険を知らせた。人々も自然も、それに聞き入った。放射能という名の怪物が村の遠くに現れた。その忌まわしい翼は、目に見えない毒とふるさとの消失、それに苦しみと涙を運んできた。その朝はまだ、プリピャチ川近くの草原に緑のビロードが敷き詰められているようだった。ライ麦畑は、宝石のように輝いて見えた。でももう、この美しさが、私たちに喜びをもたらすことはなかった。
日曜日の夕方になって、ホイニキの家に帰り着くと、街の通りは死んだように人の気配がなかった。家のそばの白樺の木の下に、隣の人が放心したようにたたずんでいるのが見えた。2日あとにメーデーがやってきた。とても暑い日だった。多くの人々が子どもたちと一緒に、行進を待って昼まで外で立ち続けていた。その間でさえも、小さな子どもの体に、幾レム(※)の放射能が蓄積するかなど、誰も考えつかなかった。翌5月2日は、南の風が気味悪い雨雲を運んで来た。どしゃ降りの雨だった。雨粒はとても大きく、インゲンマメほどの大きさほどもあった。私たち子どもは、母が呼びに来るまでアンズの木の下で遊んでいて、ずぶ濡れになっていた。
※レム
どれだけの量の放射線を生物が吸収したかを表す単位。
その後私はどうなったのか。放射能を逃れ治療を求めて、まさに放浪の旅だった。
ホイニキ、モロジェーチコ、ゴメリ、オルシャ、ベルグラード、ドネルトロフスク、ドウボサールイ、ボリソフ、ビレイカ、ソリゴールスク、スベトロゴールスク、ミンスクなどの土地を転々とした。放射能の悪魔が、私たちを引き回したのである。
そして最後に、1990年、私たちは家族全員で、バラノビッチに引っ越した。今では、母の顔に悲しげな、今にも泣き出しそうな表情しか見ることはできない。引っ越しの日、荷造りを終えて、私は表に出た。あの白樺の木の下に行った。人間にとってもっとも大切な場所、私が幼年期を過ごした場所をよく覚えておくためだった。あの頃が、もう二度と帰って来ないと思うと、胸がしめつけられるようだった。
生活は今でも続いている。夜になると、幸せだった子どもの頃を思い出してしまう。あの時は、すべてが輝いていた。しかし、それはもう遠い昔のことになってしまった。悲しみで、心がうずく。それでも生きていかなければならない。これからの私の人生で、満足や喜びを充分に感じることはできないだろう。それは、幼い頃の楽しい思い出が途切れたあの恐ろしい日に、置いてきてしまったのだから。
第一中等学校十年生 バラーノビチ町
セシウムが崩壊(※)すると
厳しい不幸に追い立てる運命が!
太陽の下には居場所を
僕らは見つけられない
ミコラ・メトリッツキー
※セシウムが崩壊
セシウム137は崩壊して余分なエネルギー(放射線)を放出して、安定したバリウム137に変化する。
大地は眠っていた。暗く、暖かい夜がすべてを包みこんでいた。木々のつぼみの香りでいっぱいになる春の盛りは、すぐそこまでやってきていた。
その日、私は8歳の誕生日を迎えていた。あたりが暗くなって庭からもどってきた母は、手に白樺の枝を持っていた。その枝についた茶色の丸い実は、美しく輝き、心地よい春の香りをただよわせていた。母は、私の誕生日を祝って喜びに満ちあふれた顔をし、白樺の枝をそっとプレゼントしてくれたのである。
だが、この毎年きまってやってきた美しく輝く自然の躍動は、4月26日の夜、巨大な目に見えない恐ろしいものによって、奪われてしまった。それまでは、緑の豊かな自然が、人々に喜びと幸せをもたらすと教えられてきた。しかし、今では花や枝を手で摘むのもいけないと注意されるようになってしまった。母はもう、私に誕生日のプレゼントもできなくなってしまったのだ。こんなになってしまった世界に親しみを感じることはできない。私たちはこれからどうやって生きていけばよいのだろうか。
事故のあった前の日の夕方、私と弟のワーニャは父に連れられて、おばあちゃんの住むオラビッチ村へ、車で向かった。農園のじゃがいも植えを手伝いに行ったのだった。その村はホイニキの南側にあった。私は、その日のことをよく覚えている。陽が沈む前、まわりの景色はとても美しく、私と弟は、はしゃいでいた。父が遠くまでドライブに連れていってくれることがうれしかったのだ。私たちは、後ろの座席で笑い声をあげて喜び騒いでいた。父は、運転をしながら静かで楽しそうなメロディを口ずさんでいる。それは父のいつものくせだった。おばあちゃんの家に着いたのは、すっかり遅くなってからだった。首を長くして待っていてくれた彼女は、絞りたての牛乳を温めて飲ませてくれた。私たちは、暖かな喜びを感じながら、眠りについた。しかし、その眠りの間に、幸せは、永遠に私たちの心から逃げてしまうことになったのである。
あの恐ろしい夕方から8年間が過ぎた。私はもう17歳になった。私の心は空っぽのままである。幸せは4月26日から、無限の荒野をさまよったまま元に戻っては来ない。私の心が、現実を受け入れることはできないからだ。
いつだったか、クラスノボーリエ村から遠くない所で釣りをしていた漁師が、その恐ろしい夜の話をしてくれたことがある。彼らは、火の柱を見た。それは、天まで届きそうに垂直に立ち、黄色、白、茜色の光が同時に鮮やかに光っていたそうである。その後、火の柱は、大地を照らしながら、ブラーギンの東の方向に消えて行った。その火の柱は、大地に肉体的な痛みは与えなかったが、健康を害し、命を奪う種をばらまいてしまったのである。この大地がうずいている間は、私の心に幸せはやってこないだろう。大地のうずきはいつ消えるのか、私は知らない。私が生きている間、いつまでもこのままなのだろうか。
祖母の村オラビッチは、いや正確に言えば、過去にあったその村は、ウクライナのヤノフ村から27キロの地点にあった。ヤノフ村の向こう側に原発職員の町プリピャチと原発が建設された。そこから15キロ離れたところにあった小さな集落チェルノブイリの名を使うことになったのである。誰が名付けたのか。それは、ウクライナのヨモギ草の名前(※)ではなく、昔、そこに人々を苦しめる痛みがあったからそういう地名になったのだと思う。最近まで緑に埋もれていたチェルノブイリの町は死んでしまった。祖母のオラビッチ村も死んでしまった。人間の生活が豊かに花開いていた土地に、いまいましい原発を建設しようと考えついた人が、今、生きていれば、呪いたい。
※ヨモギ草の名前
『チェルノブイリ』には、「ニガヨモギ」と「チェルノ(痛い)ブイリ(できごと)」という意味がある。
朝とは何だろうか。それは、昇ってくる太陽に向かって、自然が背伸びをし、鳥のよろこぶさえずりが空に満ちる時である。しかし、その日の朝はひっそりとしていた。不自然な静けさが、危険を知らせた。人々も自然も、それに聞き入った。放射能という名の怪物が村の遠くに現れた。その忌まわしい翼は、目に見えない毒とふるさとの消失、それに苦しみと涙を運んできた。その朝はまだ、プリピャチ川近くの草原に緑のビロードが敷き詰められているようだった。ライ麦畑は、宝石のように輝いて見えた。でももう、この美しさが、私たちに喜びをもたらすことはなかった。
日曜日の夕方になって、ホイニキの家に帰り着くと、街の通りは死んだように人の気配がなかった。家のそばの白樺の木の下に、隣の人が放心したようにたたずんでいるのが見えた。2日あとにメーデーがやってきた。とても暑い日だった。多くの人々が子どもたちと一緒に、行進を待って昼まで外で立ち続けていた。その間でさえも、小さな子どもの体に、幾レム(※)の放射能が蓄積するかなど、誰も考えつかなかった。翌5月2日は、南の風が気味悪い雨雲を運んで来た。どしゃ降りの雨だった。雨粒はとても大きく、インゲンマメほどの大きさほどもあった。私たち子どもは、母が呼びに来るまでアンズの木の下で遊んでいて、ずぶ濡れになっていた。
※レム
どれだけの量の放射線を生物が吸収したかを表す単位。
その後私はどうなったのか。放射能を逃れ治療を求めて、まさに放浪の旅だった。
ホイニキ、モロジェーチコ、ゴメリ、オルシャ、ベルグラード、ドネルトロフスク、ドウボサールイ、ボリソフ、ビレイカ、ソリゴールスク、スベトロゴールスク、ミンスクなどの土地を転々とした。放射能の悪魔が、私たちを引き回したのである。
そして最後に、1990年、私たちは家族全員で、バラノビッチに引っ越した。今では、母の顔に悲しげな、今にも泣き出しそうな表情しか見ることはできない。引っ越しの日、荷造りを終えて、私は表に出た。あの白樺の木の下に行った。人間にとってもっとも大切な場所、私が幼年期を過ごした場所をよく覚えておくためだった。あの頃が、もう二度と帰って来ないと思うと、胸がしめつけられるようだった。
生活は今でも続いている。夜になると、幸せだった子どもの頃を思い出してしまう。あの時は、すべてが輝いていた。しかし、それはもう遠い昔のことになってしまった。悲しみで、心がうずく。それでも生きていかなければならない。これからの私の人生で、満足や喜びを充分に感じることはできないだろう。それは、幼い頃の楽しい思い出が途切れたあの恐ろしい日に、置いてきてしまったのだから。