大島渚さん死去:体制や権力と戦い続けた映画監督
毎日新聞 2013年01月15日 19時52分(最終更新 01月15日 23時30分)
映画監督の大島渚さん=2000年3月23日撮影
体制と戦い表現の可能性を追求し続けた映画監督、大島渚さんが15日、亡くなった。タブーに確信犯的に挑んでスキャンダルを巻き起こし、存在そのものが事件となる数少ない映画作家だった。【勝田友巳】
京都大在学中には京都府学連委員長などを歴任。松竹にトップ入社してからは、メキメキと頭角を現した。デビュー作「愛と希望の街」から問題作。ホームドラマが伝統の松竹大船撮影所に似つかわしくない、貧しい少年の恋愛悲劇を階級的視点から描いた。学生運動の党派性を討論劇で描いた「日本の夜と霧」は公開4日で上映中止となり、松竹を退社。阿部定事件を題材にした「愛のコリーダ」では、日本で撮影してフランスで現像する方法で直接的な性表現に挑み、芸術かわいせつかを巡る激しい論争を巻き起こした。
在日韓国人の死刑囚を主人公に、日本の権力構造の矛盾を風刺した「絞死刑」、家父長制の中で生きる若者の悲劇を描いた「儀式」。あるいは第二次世界大戦時に捕虜になった英国人と日本兵の愛憎渦巻く関係を描いた「戦場のメリークリスマス」、チンパンジーと人間の女性が恋に落ちる「マックス、モン・アムール」、新選組内での同性愛を扱った「御法度」。題材は常に挑戦的・挑発的で、秩序や常識を問う物語を作り上げた。
評価は海外でも高かった。1970年代から回顧上映が行われ、名声は欧州で先に確立。日本で集まらない資金を獲得するために、いち早く海外に進出。「愛のコリーダ」以降の作品の多くはフランス、英国などとの合作だ。また坂本龍一さんやビートたけしさんら、映画界の外の人材を配し話題を作り、巧みな演技を引き出した。
80年代後半からは「朝まで生テレビ!」などの討論番組などにも数多く出演。討論相手を「バカヤロー」と罵倒するなど歯に衣(きぬ)着せぬ論客として人気だった。01年以降は肺炎などを患い、妻の小山明子さんの看病のもと、闘病生活を続けていた。
強烈なエネルギーは、魅力であると同時に近寄りがたい雰囲気も醸していた。「御法度」で訪ねた京都の撮影所は、車イスの大島監督を中心に緊張感に満ちていた。病からリハビリで復帰し、久しぶりの映画製作とあってか、過去の作品については語ろうとせず、「次回作」も禁句。だがハリウッドに渡った日本人俳優、早川雪洲を素材にした「ハリウッド・ゼン」に最後まで執念を燃やしていた。