(入門講座)テレビドキュメンタリーの巨匠(3)大島渚~戦争と革命~
体験者の真実の声に肉薄 浜崎好治
2012/12/20 日本経済新聞
1960年代に入ると、テレビは急速に普及する。62年、NHKのテレビ受信契約数は1千万台を超え、反比例するように映画の興行収益は減少。映画業界は、会社専属の役者のテレビ出演を禁じるなど対策を取るが、観客数の減少を止めることはできなかった。
同時に「松竹ヌーベルバーグ」が象徴するように、新しい表現、主題を追い求める監督が次々と登場するが、映画会社に企画が受け入れられず、独立する動きが広がる。そうした中から、新たな活躍の場をテレビに求める監督も現れた。
松竹を辞め独立
その先駆者とも言えるのが大島渚だ。54年に松竹に入社した大島は、強烈な自己主張を持って、政治色の強い映画を生み出していく。しかし、その姿勢は会社との間に軋轢(あつれき)を生む。60年安保を総括した「日本の夜と霧」(60年)は、封切りから4日後、上映中止となる。会社側は理由を「不入り」としたが、左翼的な政治闘争の映画として危険視したからではないかと考えた大島は猛抗議し、61年、29歳で松竹を辞め、創造社を結成する。
同じころ、日本テレビの牛山純一はドラマ性のある人間中心のドキュメンタリー作品を模索していた。大島の強い作家性にひかれた牛山は、フリーになった大島に制作を依頼した。企画、撮影方法、編集などすべてを任せた。
完成したのが大島のテレビドキュメンタリー第1作となる「映画詩 氷の中の青春」(62年)だ。「ノンフィクション劇場」の枠で制作された約25分の番組。舞台は白鳥で有名な厳冬の北海道、根室半島、風連湖(ふうれんこ)。現代における労働とは何かを問う意図から、電話も電報も通じない極寒の地で、コマイという魚を捕る若者の姿をありのまま撮影した。
作品に筋はなく、遠景に働く若者たちを眺めるショットに音楽だけがつけられた。そして最後に大島自身の短いナレーションが入る。「人間には翼がない。ここに留まって生きねばならない」「労働とは何か。生活とは何か。若者たちは氷を砕く。氷の中の若者たちは氷を砕く」。画で状況を語らせる手法は、過剰に説明をつけるテレビ番組とは異質のものだった。
これまで20本余りのドキュメンタリーを作った大島。その多くは、62年~77年の牛山とのコンビから生まれた。主なテーマは戦争だ。敗戦を13歳で経験した大島は、「なぜ日本は戦争をしたのか」という問いを持ち続けた。過去や現在の戦争を記録し、残すことが映画監督の使命だとの思いがあった。
「忘れられた皇軍」(63年)は、元日本軍の韓国傷病軍人の姿を通し「手足なし、職なし、補償なし」を、日本国に訴える姿と苦悩をとらえる。「私たちは、この人たちに何もしていない。日本人たちよ。私たちよ。これでよいのだろうか」と問いただした。
永久に残る記録
64年の「青春の碑」では、韓国を訪れ、独裁政権打倒のため、民衆デモに参加し、片腕を失って売春婦になった少女を取材。奴隷的な屈従と虚勢の姿を映しだした。地理的、政治的に日本と関係の深いアジアを通し、日本人に過去の戦争について問いかけた。
72年には牛山の「すばらしい世界旅行」に協力し、パキスタンから独立1年後のバングラデシュ人民共和国に行く。「ジョイ!バングラ」は、独立記念祭の一方で政府軍の制圧で犠牲となった人々や難民の暮らしぶり、未来をになう子どもを凝視し、疎外されてきた民族の歴史を憂う。
大島は当事者を主人公に置くことを重視し、まるで対決するかのように、取材対象に迫った。熊本県阿蘇郡小国町の松原・下筌(しもうけ)ダム建設に反対する住民の記録「反骨の砦(とりで)」(64年)では、国を相手に頑固に抵抗する老人を撮影。老人は大島が向けたカメラに叫ぶ。「ドキュメンタリーとして記録に残るんだよ。永久に記録に残るんだよ」
あえてカメラで撮ることを相手に意識させ、内面から絞りだされる声にじっくり耳を傾ける。大島の作品には隠されていた真実が記録されている。
(川崎市市民ミュージアム学芸員)
体験者の真実の声に肉薄 浜崎好治
2012/12/20 日本経済新聞
1960年代に入ると、テレビは急速に普及する。62年、NHKのテレビ受信契約数は1千万台を超え、反比例するように映画の興行収益は減少。映画業界は、会社専属の役者のテレビ出演を禁じるなど対策を取るが、観客数の減少を止めることはできなかった。
同時に「松竹ヌーベルバーグ」が象徴するように、新しい表現、主題を追い求める監督が次々と登場するが、映画会社に企画が受け入れられず、独立する動きが広がる。そうした中から、新たな活躍の場をテレビに求める監督も現れた。
松竹を辞め独立
その先駆者とも言えるのが大島渚だ。54年に松竹に入社した大島は、強烈な自己主張を持って、政治色の強い映画を生み出していく。しかし、その姿勢は会社との間に軋轢(あつれき)を生む。60年安保を総括した「日本の夜と霧」(60年)は、封切りから4日後、上映中止となる。会社側は理由を「不入り」としたが、左翼的な政治闘争の映画として危険視したからではないかと考えた大島は猛抗議し、61年、29歳で松竹を辞め、創造社を結成する。
同じころ、日本テレビの牛山純一はドラマ性のある人間中心のドキュメンタリー作品を模索していた。大島の強い作家性にひかれた牛山は、フリーになった大島に制作を依頼した。企画、撮影方法、編集などすべてを任せた。
完成したのが大島のテレビドキュメンタリー第1作となる「映画詩 氷の中の青春」(62年)だ。「ノンフィクション劇場」の枠で制作された約25分の番組。舞台は白鳥で有名な厳冬の北海道、根室半島、風連湖(ふうれんこ)。現代における労働とは何かを問う意図から、電話も電報も通じない極寒の地で、コマイという魚を捕る若者の姿をありのまま撮影した。
作品に筋はなく、遠景に働く若者たちを眺めるショットに音楽だけがつけられた。そして最後に大島自身の短いナレーションが入る。「人間には翼がない。ここに留まって生きねばならない」「労働とは何か。生活とは何か。若者たちは氷を砕く。氷の中の若者たちは氷を砕く」。画で状況を語らせる手法は、過剰に説明をつけるテレビ番組とは異質のものだった。
これまで20本余りのドキュメンタリーを作った大島。その多くは、62年~77年の牛山とのコンビから生まれた。主なテーマは戦争だ。敗戦を13歳で経験した大島は、「なぜ日本は戦争をしたのか」という問いを持ち続けた。過去や現在の戦争を記録し、残すことが映画監督の使命だとの思いがあった。
「忘れられた皇軍」(63年)は、元日本軍の韓国傷病軍人の姿を通し「手足なし、職なし、補償なし」を、日本国に訴える姿と苦悩をとらえる。「私たちは、この人たちに何もしていない。日本人たちよ。私たちよ。これでよいのだろうか」と問いただした。
永久に残る記録
64年の「青春の碑」では、韓国を訪れ、独裁政権打倒のため、民衆デモに参加し、片腕を失って売春婦になった少女を取材。奴隷的な屈従と虚勢の姿を映しだした。地理的、政治的に日本と関係の深いアジアを通し、日本人に過去の戦争について問いかけた。
72年には牛山の「すばらしい世界旅行」に協力し、パキスタンから独立1年後のバングラデシュ人民共和国に行く。「ジョイ!バングラ」は、独立記念祭の一方で政府軍の制圧で犠牲となった人々や難民の暮らしぶり、未来をになう子どもを凝視し、疎外されてきた民族の歴史を憂う。
大島は当事者を主人公に置くことを重視し、まるで対決するかのように、取材対象に迫った。熊本県阿蘇郡小国町の松原・下筌(しもうけ)ダム建設に反対する住民の記録「反骨の砦(とりで)」(64年)では、国を相手に頑固に抵抗する老人を撮影。老人は大島が向けたカメラに叫ぶ。「ドキュメンタリーとして記録に残るんだよ。永久に記録に残るんだよ」
あえてカメラで撮ることを相手に意識させ、内面から絞りだされる声にじっくり耳を傾ける。大島の作品には隠されていた真実が記録されている。
(川崎市市民ミュージアム学芸員)