「鼠退治」 近藤宏一
終戦間もない頃、私はI君、A君と共に精米所で作業をしていたが、一粒の米麦が宝石のように尊ばれる時節でもあり、少しでも無駄をはぶく意味から、ある日作業場に巣食っている鼠どもを退治することになった。鼠の巣は作業場の片隅に古くから積み上げている叺(かます)の中であるが、親方のBさんが推定するところによると、少なくとも二~三十匹はいるだろうという。血気にはやる私たちはこれを一挙にせん滅し、鼠一族を絶滅しようとその作戦をたてた。まず敵の陣地には手をふれず、そのあたりにおいてある機械や道具類、麦俵などを外へ運び出して、我々の行動範囲を少しでも広くすることに努めた。次に敵を一匹でも逃してはならぬというので適当な場所に精麦を入れる箱などを並べて万里の長城を築いた。準備万端整ったところで私たち三人、親方の命令一下、手に手にデッキブラシやこん棒を握りしめておもむろに敵陣を包囲。さすが胸がおどった。背の高いI君が深呼吸を一番、さっと一枚の叺(かます)をはね上げた。しかし敵の気配は全くない。おかしいぞと思う間もなくI君の手が次の叺(かます)にふれたかと思うと黒いかたまりがぱっと空にとんで出た。瞬間「えい!」と耳をつんざく気合いをかけた。A君の一撃は見事にこれを叩き落としていた。まぐれ当たりとはいいながら、その武者ぶりは正に宮本武蔵なみであった。この物音におどろいたのか壁ぎわの隙間から数匹のネズ公がとび出してきた。「それっ」とばかり私たちは一せいに打って出た。戦闘開始だ。チュウチュウと可憐な悲鳴をあげてすばしこく逃げまどう奴をめがけて叩く、突く、けとばす、踏みつぶす。もうこうなれば無慈悲もなにもあったものではない。それにすきをみてはI君が敵陣を取り崩していくので、狭い場所に敵の数がふえるばかり。「それ、ここだ、あそこだ、右だ、左だ」とけん命に声援する親方の声も耳に入らない。手当り次第、めったやたらとこん棒をふり下すだけ。足許には敵の死がいが転がり、草履はぬげ、眼鏡はふっとび、それはまさに修羅の巷であった。数時間後、いやほんの数分だったかも知れない。戦いを終えて私たち、戦果の数をかぞえてみた。全部で二十七匹であった。
翌る日私たちは、その鼠は園長先生の命令で重病棟の病友の二号食になったことを知った。鼠を食わせる園長・・・。病人に・・・。しかし私たち三人はおどろかなかった。
毎日のように栄養失調で倒れてゆく病友のことを考えあわせたからではない。実は五、六日前、私たち三人はひそかにネズ公を食べていたのである。いや食べずにはおれなかったのである。だから光田園長に食糧対策の不備を追求するのならともかく、「病人に鼠を食わすとは何事だ」という非難の声があるとしても、私はちょっとそれは的が外れているのではないかと思っている。八十数年の生涯のうち、やはり光田園長はこのことが一番苦しかったにちがいない・・・。
(「点字愛生」第34号 1964年8月)