「失明」 近藤宏一
プロミン注射で足の痛みは一時取れたが、その注射の反応によって全身が高熱にさいなまれ、それが6年間も続いた。その間、両手の麻痺状態が進み骨膜炎を併発して手の指を損ない、視力も衰えて典型的な重症患者の道へ落ちていった。
失明は私を苦しみのどん底に落とし入れた。混濁した闇と向かい合い、命を絶つ方法を模索し、絶望の谷間で悩み続け、自分自身を嫌悪する歳月が続いた。
一人の友が居た。午後の安静時間が終わると、きまったように病室の廊下に靴音がして、枕元に彼がくる。一言二言何気ない会話の後に、彼はベッドの傍らに腰を掛け、私が不機嫌であろうとなかろうと、ごく自然に本を読み始める。放送部のアナウンサーでもある彼の声は静かな病室に響いて、眠気を誘うほどの快さがあった。約1時間の読書の後、二人はお喋りを始める。話し好きでもある私達は、その読後感を披露し合い時間を忘れた。明治・大正・昭和文学全集を紐解きトルストイやドストエフスキーを論じ太宰治の「人間失格」を語り合った。
そんな中で、ある日、彼は思いもよらない朗読をはじめた。新約聖書であった。はじめて聞く聖書、はじめて読む神の言葉、二人はしどろもどろであったが、不思議に止めようとしなかった。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝へと、それは次から次へと私を未知の世界へ誘いこんで行った。やがてヨハネ伝の第九章へと進んだ時、私は思わず彼に声をかけ、その部分をもう一度読んでほしいと促した。
「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですが。本人ですか、それとも、その両親ですか」。イエスは答えられた。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである・・・」
私は全身を貫き通す一つの力を意識した。
人の一生を決めるもの、運命を決めるもの、人間として生きることの基本的な疑問を、ここでは明らかな答えとして、示しているように思えたからである。
その後、私達は園内のキリスト教会へ足を運んだ。重病棟専用の病衣の上から外套をまとい、衰えた視力を頼りに、彼の手に引かれて教会の扉を叩いた。台湾の療養所「楽生院」から、お帰りになって間もない小倉先生が、私達を快く迎えて下さって、夜遅くまで聖堂の片隅で聖書を説き聞かせて下さった。説明されればされるほど、疑問もわいて、私と彼とが先生に向かって質問を繰り返し、毎晩のように議論を重ねながら、日曜礼拝に出席するほどにまで、導かれて行った。
昭和23年のクリスマス礼拝に私達は、他の人々と一緒に洗礼を受けた。同年輩の若者たちも五、六人いてやがて青年会を組織し、聖書を勉強し信仰の道を開いていった。
そのころ、亀井勝一郎という評論家がいて、太平洋戦争後のわが国の青年たちには、文学青年と、政治青年と、宗教青年の三つのスタイルがあると、ある評論雑誌で論じていたが、当時のハンセン病療養所内の青年達も例外ではなく、療養の傍ら、それぞれの道を求めたのだった。そのうち宗教の場合には、キリスト教活動が、目だって盛んとなり、年毎に求道者が増えて行った。
昭和28年、園内に盲人会が結成された。読書会や放送劇や、短歌、俳句などの文芸活動が盛んになると同時に衣食住の充実を求めて、政府に対する請願活動が活発となった。そんな中で、点字講習会が始まった。指先を犯されていない仲間たちに混じって私もそれに参加し、点字を読むことに挑戦した。
私は聖書をどうしても自分で読みたいと思った。しかしハンセンで病んだ私の手は指先の感覚がなく、点字の細かい点を探り当てる事は到底無理な事であったから、知覚の残っている唇と、舌先で探り読むことを思いついた。これは群馬県の栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)の病友が始めたことで、私にも出来るに違いないという一縷の望みがあったからである。