当時、国立療養所長島愛生園の運営は、木工、金工、製材、製菓、図書館、売店、清掃等、五十業種を超える作業によって支えられていた。私はそのうちの精米所を選んだ。少年寮時代の仲間がいたからである。当時太平洋戦争の食料不足は、こうした療養所も例外ではなく、患者の主食は麦飯で、精米所とは名ばかり、入園者二千人の食事として一日中裸麦だけを搗いていた。
患者作業の中に、病棟あるいは、不自由者棟の付き添い作業と言うのがあった。時々、付き添い繰り出し伝票が配られて来て、一回に一週間、その病棟または不自由舎に勤めさせられた。
太平洋戦争が終って、その年の秋風が吹き染める九月の下旬、十九歳の私の手にその病棟付き添い繰り出し伝票が配られて来た。
赤痢病棟へ出向くようにとの指示があり不吉な予感を抱いたが、当日私は指示通り、その病棟に出向いた。長い戦時下の資材不足で補修されていない病棟は荒れ放題、雨が降れば雨漏り、リノリウムは破れて床はガタガタ、窓ガラスは半分が板張りまたは新聞紙で、見る影も無い無残なあばら屋であった。そんな中で病友たちは高熱と下痢に悩まされていた。十台のベッドを三人の同僚と共に交代で受け持つのだが、その一日目は当直二十四時間勤務、二日目は休み、三日目当直の補助、これらを二回繰り返して勤めは終る。
当直の夜、十二時ごろであったろうか、サインがあって目を覚ました。急いで身支度をして行ってみると、部屋の中央あたり、それは少年時代の幼馴染のS君であった。便器をお尻の下に差し込んでやり、目で会釈すると、彼は、ふと、瘦せ細った手を差し出して握手を求めて来た。握り返してやると、かすかに震えて、うつろな目がじっと私を見ていた。
朝の五時、行って見ると彼は死んでいた。痩せ細った遺体は枯れ木のように棺に納められ、弔いのお経もなく、線香一本供えられるでもなく、そのまま芥を捨てるように火葬場へ運ばれていった。
寮に帰ってから、まもなく私は、激しい下痢に襲われた。診察を受けると、不吉な予感が当たって、医者は赤痢に感染していると診断した。昨日まで元気で働いていた職場は、今日は自分の命を横たえるベッドに変わってしまった。排泄する便は、間違いも無く、赤痢の末期患者のそれと同じであって、絶食による衰弱と下腹部の激痛にさいなまれて、私も皆のように、死んで行くのだと思った。I 婦長が飛んで来て、申し訳ないと言って泣き崩れたが、後にも先にも看護をして感染発病したのは私一人だったからでもある。
私は耐えた。六十二キロの体重が四十キロ台にまでやせ衰え、死の恐怖が私を暗闇の淵に落し入れたが、水だけを飲み命をつないだ。当時、赤痢の特効薬はなく、ただ、ひたすらに耐え忍ぶ事だけが、唯一の治療法であった。
約1ヶ月に近い闘病生活を終えて寮に帰ると体力を失った私の体はまるで空中を泳いでいるように絶えずゆらゆらとゆれていた。
しばらくして、職場の精米所に行って見た。元気な友人たちの姿をみると、急に勇気が湧いてきて、私は一日も早く皆と一緒に働きたいと思った。
ある日、私は太腿の辺りに軽い痛みを覚えた。日がたつにつれて、それが下半身全体に広がり、不快な悪寒をさえ感じるようになった。思い切って診察を受けてみると医者は「本病が動き始めたようだ」と言って、新しい治らい薬、プロミン注射を受けるようにと、すすめてくれた。この頃全国のハンセン病療養所では、新薬プロミンという名の治らい薬が効果を表していて、入園者の深い関心を呼んでいたから、私はためらうことなく、その治療を受けることにしたのだが、これがその後の私の生涯を根底から覆すことになろうとは予想も出来ないことであった。