「花までの距離」 政石蒙
コノ線ヨリ許可ナク入ルベカラズ
コノ線ヨリ絶対ニ出ルベカラズ
表裏に書かれた立札が立てられている古煉瓦を並べた線の内側の小屋に、私は生活させられていた。朝、一日分の食糧を持った病院勤務者が、病院から草原の道をやってきて入り口の扉を開き、その扉を閉めるため夕昏どきにやってくるだけで、私はいつも独りだった。
春遅い外蒙古(モンゴル人民共和国)にようやく春が訪れると、凍て固まった雪の下で枯れた根株をかむり息をひそめて、大地の温もる季節を待ちわびていた草々は、雪が融け日の光が強まってくると、いっせいに芽吹いた。私の隔離小屋は忽ち萌えたつ緑に包まれいっそうみすぼらしいたたずまいになった。
長い冬の間を何処にひそんで耐えていたのであろう、家畜が湧くように群れいでて、折角芽吹いた野の草を食らいはじめる。私の小屋から果て霞んで見える緑の野面を幾百もの家畜の群がわがもの顔に彷徨し、牛も馬も山羊も羊も、そして牛とも馬ともつかぬ奇妙な姿のヤクも、駱駝もそれぞれに飽食してめりめりと肥え太り、陽ざしをいっぱいに浴びながらいきいきと馳けめぐり、疲れれば草にまぶれて寝そべる。そんな家畜たちを私はどれだけ羨望したことか。いますぐに牛や馬に生まれ変りたかった。広い草原を馳ける脚、脚、脚、・・・私は小屋を囲繞して行動を極度に制限している線の内側にうずくまり、両手で膝を抱えこみ、来る日も来る日も家畜たちの生の営みを眺めて過ごした。
ときおり、私の心は私の肉体を離れて曠野へさまよい出た。かげろうのようにゆらめきながら私の心は、野にちらばって遊んでいる家畜たちの間を縫いながら、どこまでもさまよってゆく。私は放心してガラス玉のようになった眼で心の行方を眺めた。私の肉体も心を追っかけてゆきたくてうずうずしているのに、重い鎖が私を結えていて身動きができない。私はうずくまったまま、心が肉体へ還ってくるまで待つよりないのだった。
ある日、うずくまっている目の先にほっかりと虹色の花がひらいた。その花は、うずくまっている私の足下の線から一間ほど外側に、輝きながら咲いているのだった。その花がたまらなく欲しかった。それなのに、線に縛られて線を越え得ない私が、欲しい思いを圧し殺してしげしげと眺めていると、その花は、私をからかうように話しかけてくる。
<そんな線が何だっていうの、古煉瓦を並べてあるだけじゃないの、蹴飛ばしてごらんなさい、そしたら勇気が出るわ、そんな線に縛られているなんて、情けないじゃないの、思いきって越えなさいよ。ここまで歩いてきたってどうってことありはしない、草原は広いのよ、何処までもひろいんだから、ここまできたからって誰にも迷惑をかけやしない。いらっしゃいよ、早く出ていらっしゃい。>
しきりに誘いかけながら、いっそう美しく輝やくのだった。それでもなお私がためらっていると、
<どうしてもここまで来られないなら、いいこと教えてあげましょうか。その線をここまで拡げればいいわ、そしたら線を越えなくてもここまで来られるじゃないの、ね、そうなさいよ>やさしく囁くのだった。
たまたま、私の様子を見届けにやってきた若い主治医に肩を叩かれて、びっくりして顔をあげた私は、まるで花との会話のつづきのように、
「先生、あの花が欲しいのですが━━」
指さして言った。<あの花のところまで、線を拡げて欲しい>思いをせいいっぱい込めて言ったのに、医師は
「ああ、あれかね、きれいな花だね、とってあげよう」
気軽く答えて、つかつかと花の方へ歩いてゆこうとする。慌てた私は、
「ちょっと、先生、もういいんです」
と打消した。振返った医師はけげんな面持ちで、
「いいって? どうしたんかね、君、欲しいんだろう━━」
「でも・・・」
と私はもじもじしながらも、こうなったら、じかに本心を告げるよりないと心に決めると、かーっと頭に血がのぼるのを覚えながら言った。
「先生、実は━━あの花のところまで、線を拡げて欲しいのです━━駄目でしょうか」
一瞬、医師は驚いた表情で私を見た。私の言葉の意味が、咄嗟には理解できなくて、とまどっているようだったが、
「なあんだ、そうだったのか、ふーん、そうだったのか━━」
感じ入ったようにつぶやいていたが、
「君、ずるいじゃないか、そうならそうと、はっきり言ってくれればよいのに━━あやうく道化にされるところだった━━」
と、さもおかしそうに笑うのだった。そして、更めて私の訴えを聞きとり、「自分の一存では決めかねるから」
と病室へ帰っていった。
翌日、医師は「吉報だよ」と笑いながら、病院長の許可をもらってきてくれた。私はいそいそと煉瓦を運び、ひとつひとつの間隔をあけて並べることで枠を拡げ終えた。たとえ一尺でもいいから行動範囲をひろげたい私の願いが充たされたのであった。私は心はずませながら、拡がった線に沿って小屋を何度もめぐったり、枠の内側にとりこむことのできた花に身近くしゃがんでじっと眺めていたり、枠をひろげる口実を与えてくれた花に感謝の思いをこめて、食器の洗い水を注いでやったりするのだった。でも、私のものになってしまった花は、なぜか虹色のかがやきを失ってしまい、もう私に話しかけることもしなくなっていった。拡がった枠の外側には、以前と同様に果て霞む緑野がひらけていて、家畜たちは終日、春を満喫しながらいきいきと馳けめぐり、私を羨ましがらせるのだった。私はまた来る日も来る日も憂鬱な気持ちで、枠の内側にうずくまりづづけねばならなかった。
拡がった枠の外側に、新しく咲きいでた花が虹色にかがやきながら、私に誘いかけても、私はもう、「あの花が欲しい」と訴えようとはしなかった。私を繋ぎとめている鎖の、どうにもならぬほどの強靭さに、ようやく気づいたのだった。病気が治って健常者に還るかあるいは、野にさまよい出た心を追って、肉体もさまよい出で歩哨に撃たれて斃れでもしなければ、鎖を断ち切ることはできないだろうと思うのだった。それでもなお、枠の外に新しく咲き出でた花のかがやきを眺めていると、じっとうずくまっていることが次第に耐え難くなってくるのだった。
あれから九年、私は島の療養所で八度目の正月を迎えた。二十四歳だった私も三十三歳になろうとしている。私の生の大半は隔離された生活になりそうだが、あの狭い枠の中で花までの距離を縮めたいと願った心がいまだに心の奥に棲んでいて、奇矯な振舞いをしでかす。そして、いっそう鎖の強靭さを思いしらされるのである。