[第1話特別編] 円谷さんの自死、悔しかった 盟友・君原健二の回想
06/09 北海道新聞
君原健二さん(79)は五輪マラソンで3大会連続出場を果たした。1964年東京は8位。68年メキシコで銀メダルに輝き、72年ミュンヘンは5位。東京大会で代表仲間だった円谷幸吉は同い年の友人で、直前の夏には札幌市で合宿している。若くして亡くなった友人と過ごした北の夏が忘れられない。=3月5日取材
――1964年東京五輪の2カ月前の8月に札幌市で代表合宿をしました。
「私と円谷幸吉さん、寺沢徹さんと一緒に。8月23日には北海タイムスマラソンに出場して私は1位。2時間17分12秒でした。円谷さんが2位で2時間19分50秒。それから4日後に円山競技場で1万メートルの記録会を走りました。そのとき円谷さんは28分52秒。私は29分1秒でどちらも日本記録でした。前日に42キロを走り込んでいたのに、自分でもびっくりする記録が出ました。そのことがとてもうれしくて。自衛隊の円谷さんには畠野洋夫さんという立派なコーチがいて、宮地道雄さん、南三男さんという2人の練習パートナーもいて、円谷さんと4人でいつも行動していました。素晴らしいチームワークで、東京五輪の銅メダルもこのチームワークのたまものであると思っています」
「(記録会の1万メートルで)日本記録をつくったとき、円谷チームの4人と私の5人で近くの売店の縁台で喜び合ってビールを飲みました。(会話は)全然、覚えていないんです。私は会話が苦手で、黙っていたほうが楽だから。円谷さんともいろいろご一緒しているけど、あまり会話を交わした記憶がないんです。円谷チームの4人が和やかに過ごしているし、そのときは私が4人の中に入り込んだという感じでした。4人はいつも和やかな雰囲気で過ごしていました。翌日の日誌には『昨日の記録会で1万メートルで日本記録をつくった。2位であったが近年にない喜びだ。久しぶりに酔って札幌のまちを遊んだ』と書いてあります」
――自国開催の五輪。プレッシャーはありましたか。
「それはありました。まず私自身、日本代表として良い成績を上げなければいないという責任感を強く受け止めていました。一方、五輪は世紀の祭典という言葉があるでしょう。『お祭りなんだから、そんなに責任感を感じなくても良いんじゃないか、気楽でもいいじゃないか』と思ったり『いや、頑張らなければいけない』と思ったり、気持ちが安定していなくて。一日の中で、何度も『頑張らなくてはいけない』『気楽にやればいい』という気持ちが繰り返されるようなこともありました」
――「かけがえのない友人」だった円谷幸吉さんが自死したと知ったときは。
「とても悔しいと感じました。ともに東京五輪を戦った。東京五輪のために競い合った友人だったのに」