弱者を抑圧する社会に終止符を打つ 関川宗英
「自由と平等を求めてよりよい社会をつくろうとすること 『実録・連合赤軍』をめぐって」4
映画『実録・連合赤軍』のあさま山荘のシーン
1972年2月19日、連合赤軍の若者5人(坂口弘・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤倫教の弟:事件当時未成年)が、一人の女性を人質に取り、あさま山荘に立て籠もった。
若者たちが籠城する「あさま山荘事件」は、2月28日まで10日間続いた。
警官隊に囲まれ、籠城してから三日目の2月21日、アメリカ合衆国ニクソン大統領が中国を電撃訪問する。ベトナム戦争が長引き、世界中でベトナム反戦運動が起きていた最中の、アメリカの突然の外交ショーだった。山荘内のテレビでこのニュースを見た連合赤軍の若者たちは衝撃を受ける。
ニクソンの中国電撃訪問について、坂口弘は事件後、獄中で次のような短歌を詠んでいる。
山荘でニクソン訪中のテレビ観き時代に遅れ銃を撃ちたり 坂口弘
聞きかじった社会情勢や偏っているかもしれない歴史認識しかない、たかが大学生の頭で、社会を変えようと考えることなど思い上がったことかもしれない。
「これではあんたのいっていた救世主どころじゃないじゃないの。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの」
あさま山荘事件の渦中、犯人グループの母親は、拡声器を使い、このように説得を試みたというが、若者たちは自分たちの未熟さを思い知らされていたかもしれない。
ある時、人質の女性は、「どうしてそんなに生命を粗末に扱うの?」と尋ねた。すると、坂口は「最後まで闘い抜いて死ぬことは意義あることだ」と答えたという。
この勇ましい言葉も、死を讃美するナルシストの甘さに包まれているのを感じるのは私だけではないだろう。
また、映画『実録・連合赤軍』には、あさま山荘の中で、「あなたが食べた“クッキー“は、反革命の象徴なんだよ」と、吉野雅邦が坂東國男を責める場面がある。腹が減った坂東國男がこっそりとクッキーを食べたことを、自己批判しろと迫るのだ。
「革命」も「クッキー」もこの映画に描かれる若者たちは真剣だが、連合赤軍が山岳ベースで12人もの仲間を殺していることを知っている私たちにとって、若者が革命を叫ぶシーンは興ざめするばかりだ。
連合赤軍の若者たちの想いを受け取ることは難しいことだ。
革命の名の下、12名もの仲間を殺した、史上稀に見る凄惨な事件、残虐な人殺し集団、連合赤軍はそんなイメージでまず語られる。
連合赤軍の戦士たちは、自分たちの理想とする共産主義、世界同時革命、反米主義を実現しようとしたが、その理想を支える理論は妄想に近かった。本来、総括とは闘争の最終的結論として用いられていたが、連合赤軍では処刑を意味していた。総括は革命の名前を借りた森、永田の独裁的ヒステリーによる処刑で、連合赤軍は山岳アジトでの3カ月間、ささいなことで殺し合う凄惨な集団となっていた。
恋愛が反革命とされ、女性が化粧をしただけで拷問を受け、処罰に反対する者も凍死あるいは撲殺された。同志の半数が殺戮され、身元が分からないように髪を切られ全裸で埋められた。これは主義や思想によるものではない。同志への愛のかけらもなく、狂った指導者による処刑であった。彼らが尊敬する毛沢東の文化大革命における虐殺、毛沢東主義の継承者たるポル・ポトの虐殺を思い起こさせた。
(ブログ https://www.cool-susan.com/2015/10/28/)
連合赤軍の裁判一審判決でも、連合赤軍の「思想」は問われず、森や永田の「資質」が陰惨な事件の理由とされた。
しかし、彼らのことを狂気の集団と切り捨て、平成のこの飽食の時代に生きる私たちは笑うことが出来るだろうか。
1972年2月28日の朝10時、機動隊は最後の警告の後、あさま山荘に突入する。山荘内から若者たちは発砲、銃撃戦となる。警察は、犯人たちの生け捕りを目標としており、警察の発砲は専ら威嚇射撃だったという。この日の銃撃戦で警官が二人死亡。夕方6時過ぎ、犯人逮捕。人質の女性は無事に保護された。逮捕され山荘を出てきた犯人たちは、報道陣から罵声を浴びる。
山荘への機動隊突入はテレビ中継され、NHK・民放を合わせたテレビの総世帯の最高視聴率は89.7%に達した。日本国民のほとんどがあさま山荘を見ていたことになる。
加藤倫教は、あさま山荘事件で連行された時の気持ちを以下のように記している。
のちに全員が連行される際の写真を見る機会があったが、私以外の四人は顔を歪めていた。私はただ前を真っ直ぐ見つめて歩くことを心に決めていた。
悔しい思いで、他の四人が顔を歪めていたとすれば、それは私も同じであったが、それは警察との闘いに敗北したことへの悔しさではなかった。
私は、自分が正しい情報分析もできず、主観的な願望で小から大へと人民の軍隊が成長し、自分が立ち上がることで、次から次へと人々が革命に立ち上がり、弱者を抑圧する社会に終止符が打たれることを夢見ていた、その自らの浅はかさを思い知り、自分の幼稚さに悔しさを感じていた。(大泉康雄(著者は実行犯のひとり吉野雅邦の学生時代からの友人)『あさま山荘銃撃戦の深層』小学館、2003年)
加藤倫教の「弱者を抑圧する社会に終止符が打たれることを夢見ていた」という言葉は決して軽くない。
映画『いちご白書』(1970年 スチュアート・ハグマン 103分)の学生たちのプロテストも、ベトナム戦争が端緒となっている。
映画の舞台は、1967年夏のコロンビア大学。公民権運動とベトナム反戦に端を発したカウンター・カルチャーが頂点に達したころの、学園闘争を描いている。
映画の中で大学教授が言う。
「どうせ学生の言うことなんて、Strawberry Statement/ いちご白書だ」。
この言葉は、「大学の運営に対する学生の意見は、学生たちが『いちごの味が好き』と言うのと同じくらいくだらない」といったコロンビア大学の学部長の発言に由来しているという。
映画のヒロインが、主人公のノンポリ学生に言う。
「ただのゲームより闘争こそが真実よ」
映画のラスト、大学に立て籠もる学生たちを、警官隊が取り囲む。学生たちは跪き、床を叩きながら、歌を歌う。催涙弾が学生たちの中に打ち込まれる。煙が立ち込める。その中を、次々に学生が警官に引きはがされていく。学生たちは歌を歌い続ける。ぐるぐる回るカメラ、ストップモーション、ハンディのカメラの激しい揺れ、主人公の映す8ミリカメラの映像、権力の暴力に屈していくその不条理、イチゴのような若者たちの無念がスクリーン一杯に溢れる。
アメリカン・ニューシネマの名作と言われる一本だが、1970年当時の若者の熱く真剣な思いを感じさせてくれる。
連合赤軍の若者たちも、よりよい社会をつくりたい、新しい歴史をつくりたいと理想を夢見たはずだ。
若者たちが真剣に時代や社会と向き合ったこと、その事実は重い。
金子勝は次のように書いている。
その一方で、左派や批判派はイデオロギー原理主義に陥り、組織の分裂と対立を繰り返してきた。もちろん、集団が個人に優先する組織原理を批判する人々もいた。その多くは既成左翼に対する批判者であった。ところが、新左翼運動も、党派間の対立から内ゲバ殺人に帰結していった。少なくとも日本の左派・批判派は、成熟した民主主義を作り出すことはできなかった。
(金子勝 『戦後の終わり』 2006年 筑摩書房)
連合赤軍の哀れな末路は、日本の戦後新左翼運動の崩壊を象徴している。
しかしそれは、思想闘争の敗北ではない。警察や機動隊という国家権力の暴力装置に潰されたのでもない。
「成熟した民主主義を作り出すことができなかった」日本の、一つの側面が表面化した事件だったのではないだろうか。
つまり私たち日本は、新しい歴史を作ろうとする思いを支える、個人の確立した知の体系を持っていなかったということだ。
そして、今も日本は、「成熟した民主主義」など持ち得ていない。
かつて丸山真男は、戦争に突き進んだ日本を、「無責任の体系」として学問的に分析した。
「私の個人的意見は反対でありました」と、日本が戦争に向かった経緯について、A級戦犯の一人が東京裁判で語った。自らの考えを「私情」と排し、ひたすら周囲に従うのをモラルとするような指導者の言動を丸山は「既成事実への屈服」と断じた。
丸山の考察は戦後、戦争責任を追及して正義を叫ぶ、ブームのような浮ついた議論とは違っていた。
戦後の知性を牽引した丸山真男だが、東大全共闘の学生らに、大学の自治を機動隊の導入によって守ろうとしたとして糾弾された。
しかし、柄谷行人は、今も丸山真男に注目している。柄谷は、丸山真男こそ本物の「批評家」だと称賛している(1984年 「ポストモダニズムと批評」)。
また柄谷は、2019年の『世界』7月号に、「丸山真男の永久革命」という一文を発表している。丸山真男が「一貫して追求したのは,「社会主義」であった。ただし,彼はそれを「民主主義」と呼んだ。」(『世界』7月号p.82)と書いている。
コロナ禍、グローバリズムの席巻、貧富の格差はますます広がっている。
そんな中、1960、1970年代により良い社会をつくろうと願った人々の思いが、2021年の「今」問われているように思われる。
当時の人びとの思いは、「特別な時代」と簡単に括れるものだろうか。
私たちは歴史にしっかりと向きあわなければならない。
新たな地平を切り開く、知の体系の出現を持ち望んでいる人は多いだろう。