chuo1976

心のたねを言の葉として

『花嫁』 石垣りん

2012-06-30 04:57:16 | 文学
『花嫁』 石垣りん



私がゆく公衆浴場は、湯の出るカランが十六しかない。
そのうちのひとつぐらいはよくこわれているような、小ぶりで貧弱なお風呂だ。

その晩もおそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。
手をとめてそちらを向くと「これで私の衿を剃って下さい」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断ると
「いいんです、スッとやってくれれば」
「大丈夫かしら」
「ええ、簡単でいいんです」と言う。
ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。
「明日、私はオヨメに行くんです」
私は二度びっくりしてしまった。
知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突なら、そんな大事を人に言うことにも驚かされた。 でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。

私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。
明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじにたれている、と思った。

剃られながら、私より年若い彼女は、自分が病気をしたこと、三十歳をすぎて、親類の娘たちより婚期がおくれてしまったこと、今度縁あって神奈川県の農家へ行く、というようなことを話してくれた。  私は想像した、彼女は東京で一人住まいなんだナ、つい昨日くらいまで働いていたのかも知れない。 

そしてお嫁にゆく、そのうれしさと不安のようなものを今夜分けあう相手がいないのだ、それで・・・。 私はお礼を言いたいような気持ちでお祝いをのべ、名も聞かずハダカで別れた。

あれから幾月たったろう。
初々しい花嫁さんの衿足を、私の指がときどき思い出す。
彼女いま、しあわせかしらん?
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