『日日是好日』 森下典子
第十二章 自分の内側に耳をすますこと
そして再び、「松風」が息を吹き返し始めた。
「し、し、し、し――――」
その、わずか数秒の空白。あんなに快く深い「間」を、私は他に知らない……。
その時、二十年も前に先生から聞いたあの「刀掛け」のことを思い出した。
武士たちは、丸腰になって、茶室のあの小さなにじり口をくぐった。長い刀を持ったままでは入れないように、茶室は設計されていたのだ。
それは、武士が重い役割から解放されて、一人の人間に戻るということでもあった。
食うか食われるか、一国の命運を担った戦国武将たちの巨大なプレッシャーは、私には想像さえつかない。どれほど豪胆な武将でも、常に押し寄せてくる悩み、迷い、不安から、自由になることはできなかっただろう。
(だからこそ、戦国武将は、切実に「無」を求めたんじゃないだろうか……)
この世では「無」になどなれない武将たちが、命の次にだいじな刀をはずし、ちいさな「にじり口」をくぐり、一個人になって、ひたすらつかの間の深い「安息」を求めたのかもしれない。この、「松風」が止んだ数秒に訪れたような、息をつめ、ただ空白の中で自分を解き放す、深い安らぎの瞬間を……。
「し――――――――――――――」
低く、静かに、松風が鳴っている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます