chuo1976

心のたねを言の葉として

よき精神看護を望む   近藤宏一

2017-03-05 05:25:51 | 文学



点字愛生50号に掲載された「盲人会によせて」という楊井総婦長の一文を読んで私はひどく胸をうたれた。長い間重病棟に入室していて、暗い心の窓を閉ざしたままだんまり抵抗を続けているというAさん、味噌汁に卵が入っていないといって助手さんを困らせたというBさん、それは決して他人事ではなく、まるで私の心の中を覗き見られたような気がしたからである。Aさんのだんまり抵抗、それはいつから始まったのか、どうして生まれたのか。誰がそのようなことを教えたのか。私はAさんなるその人を知らない。しかし私の体験してきた長い療養生活30年の過去をふり返るとき、そのだんまり抵抗なるものの本質が、ほぼ分かるような気がするのである。それは口先だけの言葉や、形式的な、事務的な看護だけでは決していやすことの出来ない古く深い傷跡なのである。私は次にCさんの場合の実例をあげてこのだんまり抵抗なるものの本質を解剖し、今後みんなのために、よき看護が行われるよう要求したいと思う。

Cさんは文字通り戦前の強制収容にによって長島愛生園に入園した。もう二、三日待ってほしい、その間に妻や子供たちを親戚に預ける話をするから、と平身低頭頼みに頼んだのだが、係官はこれを許さず、おろおろと見守る妻子を後に彼は無理矢理トラックに乗せられたのであった。その後、彼が使用していた衣服や、道具類は忽ちにして火に焼かれ、家は消毒液に満たされ、それまで平和だった彼の家庭は瞬時にして地獄へと化したのであった。あくる日、近所の人々の冷たい目をのがれて妻子が鉄道に身を投じた事を知らされたのは、彼が島に来てすでに半年を経過してからであったという。Cさんのだんまり抵抗は実はこの時から始まっているのである。

私は彼の場合の話を更に続けねばならない。昭和21年の夏の頃、彼の掌に一枚の伝票が届いた。それは当時ものすごい勢いで園内に蔓延していた赤痢病棟への臨時付添6日間の繰出し伝票だったのである。彼は拒否しようとした。しかし当時の付添作業というのは患者間の最高の美徳であり、最高の義務とされていたので、作業場が忙しいということを理由にすれば、作業部長の証明書を持って来いといわれ、健康状態が悪いといえば医者の診断書を出せとつっぱなされて、彼はすごすごとこれに従わざるを得なかったのである。終戦後の混乱していた時代に瀬戸内海の小さな島のらい療養所、しかも急性伝染病の赤痢病棟がどんな悲惨な有様であったかは、想像に難くないであろう。医薬品の欠如、栄養源の不足は勿論、昼間でもうす暗い病棟からは毎日のように死亡者が運び出され、停電や断水がくり返される中では室内の掃除や給食の状態、或いは一人の患者が一日に何十回とくり返す用便の後始末など、患者の看護業務が適正であろう筈はない。彼は忽ちにして感染した。赤痢病棟における闘病生活は悲惨で苦しかったが彼は奇跡的に退室することが出来た。しかし退室後健康が快復するに従って彼の本病は騒ぎはじめた。神経痛や熱コブによって手足が侵されるのみならず彼の瞳に光が届かなくなるのに数年を要しなかったのである。後日医者が彼に対してやはり赤痢という大病を患ったことが病気を騒がせた原因になっている、と述懐したのをきいたとき、彼の心は一層かたくなとなり、だんまり抵抗は一層深くなったのであった。

強制収容によって妻子を失い、看護体制の不備によって赤痢が感染して遂に手足のみならず瞳まで犯された彼は、一体何によってその生涯を報われるというのであろうか。彼が療養所へ来たのは誰のためか。何のためか。固く暗く閉ざした心の窓、だんまり抵抗の冷たい表情はこうした歴史のしこりを深く深く内在しているのである。

Aさんの場合もBさんの場合も、このCさんとそして私と一体どこが違うのであろうか。私は思う。現在の看護体制が完全に職員の手によって行われ、医薬品も充実し設備もある程度充実している中で、今まで報われなかった古い傷跡を一体どうすれば癒すことが出来るのか。

今私が望むのは、そのよき精神看護の面である。表面的な言葉のやりとりではなく、或いは形式的な事務的な看護でもない。救らい事業という美名の陰で犠牲となった幾多の生命や心の古傷に対して人々は今こそ等しく心からの理解とねぎらいを送るべきではなかろうか。一服の薬を与えるとき一本の注射をうつとき、こうした長い歴史の中で傷つき傷ついてきた心を思いやることによって固い固いだんまり抵抗の表情は少しずつほぐれてくる事を私は信じて疑わない。それは一日や二日では駄目だ。何日も何年もかかってくり返しくり返し行うべきであろう。味噌汁の中に卵が入っていた入っていないという問題を起こしたBさんの場合も単に卵一個の問題ではない。それは看護る者とみとられる者の信頼の問題である。信頼は理屈では生まれない。通り一ぺんの説法では勿論駄目だ。不自由者看護の問題にしてもそうだ。補導員は女中ではない。最初園当局が計画した肉体的なリハビリテーション、精神的なリハビリテーションを、その侵された条件の中において少しでも実施してほしいものと思う。

十数年前、吾々の組織である全盲連が、不自由者看護切替を要求した時に夢見た理想は今、目の前に迫っているともいえる。本省や園当局がその考えをいま一歩前進させることによって、それは実現するのである。私はAさんやBさんが一日も早く病室を退室することを祈り、また今は亡きCさんの冥福を祈りながらこのペンをおきたいと思う。
(「点字愛生」第56号 1969年12月)

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「患者作業」   近藤宏一

2017-03-04 03:52:38 | 文学

「患者作業」   近藤宏一

 

 

 当時、国立療養所長島愛生園の運営は、木工、金工、製材、製菓、図書館、売店、清掃等、五十業種を超える作業によって支えられていた。私はそのうちの精米所を選んだ。少年寮時代の仲間がいたからである。当時太平洋戦争の食料不足は、こうした療養所も例外ではなく、患者の主食は麦飯で、精米所とは名ばかり、入園者二千人の食事として一日中裸麦だけを搗いていた。

 患者作業の中に、病棟あるいは、不自由者棟の付き添い作業と言うのがあった。時々、付き添い繰り出し伝票が配られて来て、一回に一週間、その病棟または不自由舎に勤めさせられた。
 太平洋戦争が終って、その年の秋風が吹き染める九月の下旬、十九歳の私の手にその病棟付き添い繰り出し伝票が配られて来た。
 赤痢病棟へ出向くようにとの指示があり不吉な予感を抱いたが、当日私は指示通り、その病棟に出向いた。長い戦時下の資材不足で補修されていない病棟は荒れ放題、雨が降れば雨漏り、リノリウムは破れて床はガタガタ、窓ガラスは半分が板張りまたは新聞紙で、見る影も無い無残なあばら屋であった。そんな中で病友たちは高熱と下痢に悩まされていた。十台のベッドを三人の同僚と共に交代で受け持つのだが、その一日目は当直二十四時間勤務、二日目は休み、三日目当直の補助、これらを二回繰り返して勤めは終る。

 当直の夜、十二時ごろであったろうか、サインがあって目を覚ました。急いで身支度をして行ってみると、部屋の中央あたり、それは少年時代の幼馴染のS君であった。便器をお尻の下に差し込んでやり、目で会釈すると、彼は、ふと、瘦せ細った手を差し出して握手を求めて来た。握り返してやると、かすかに震えて、うつろな目がじっと私を見ていた。
 朝の五時、行って見ると彼は死んでいた。痩せ細った遺体は枯れ木のように棺に納められ、弔いのお経もなく、線香一本供えられるでもなく、そのまま芥を捨てるように火葬場へ運ばれていった。
 寮に帰ってから、まもなく私は、激しい下痢に襲われた。診察を受けると、不吉な予感が当たって、医者は赤痢に感染していると診断した。昨日まで元気で働いていた職場は、今日は自分の命を横たえるベッドに変わってしまった。排泄する便は、間違いも無く、赤痢の末期患者のそれと同じであって、絶食による衰弱と下腹部の激痛にさいなまれて、私も皆のように、死んで行くのだと思った。I 婦長が飛んで来て、申し訳ないと言って泣き崩れたが、後にも先にも看護をして感染発病したのは私一人だったからでもある。

 私は耐えた。六十二キロの体重が四十キロ台にまでやせ衰え、死の恐怖が私を暗闇の淵に落し入れたが、水だけを飲み命をつないだ。当時、赤痢の特効薬はなく、ただ、ひたすらに耐え忍ぶ事だけが、唯一の治療法であった。

 約1ヶ月に近い闘病生活を終えて寮に帰ると体力を失った私の体はまるで空中を泳いでいるように絶えずゆらゆらとゆれていた。

 しばらくして、職場の精米所に行って見た。元気な友人たちの姿をみると、急に勇気が湧いてきて、私は一日も早く皆と一緒に働きたいと思った。

 ある日、私は太腿の辺りに軽い痛みを覚えた。日がたつにつれて、それが下半身全体に広がり、不快な悪寒をさえ感じるようになった。思い切って診察を受けてみると医者は「本病が動き始めたようだ」と言って、新しい治らい薬、プロミン注射を受けるようにと、すすめてくれた。この頃全国のハンセン病療養所では、新薬プロミンという名の治らい薬が効果を表していて、入園者の深い関心を呼んでいたから、私はためらうことなく、その治療を受けることにしたのだが、これがその後の私の生涯を根底から覆すことになろうとは予想も出来ないことであった。

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「失明」        近藤宏一

2017-03-03 04:22:49 | 文学

 「失明」        近藤宏一

 

プロミン注射で足の痛みは一時取れたが、その注射の反応によって全身が高熱にさいなまれ、それが6年間も続いた。その間、両手の麻痺状態が進み骨膜炎を併発して手の指を損ない、視力も衰えて典型的な重症患者の道へ落ちていった。

失明は私を苦しみのどん底に落とし入れた。混濁した闇と向かい合い、命を絶つ方法を模索し、絶望の谷間で悩み続け、自分自身を嫌悪する歳月が続いた。

一人の友が居た。午後の安静時間が終わると、きまったように病室の廊下に靴音がして、枕元に彼がくる。一言二言何気ない会話の後に、彼はベッドの傍らに腰を掛け、私が不機嫌であろうとなかろうと、ごく自然に本を読み始める。放送部のアナウンサーでもある彼の声は静かな病室に響いて、眠気を誘うほどの快さがあった。約1時間の読書の後、二人はお喋りを始める。話し好きでもある私達は、その読後感を披露し合い時間を忘れた。明治・大正・昭和文学全集を紐解きトルストイやドストエフスキーを論じ太宰治の「人間失格」を語り合った。

そんな中で、ある日、彼は思いもよらない朗読をはじめた。新約聖書であった。はじめて聞く聖書、はじめて読む神の言葉、二人はしどろもどろであったが、不思議に止めようとしなかった。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝へと、それは次から次へと私を未知の世界へ誘いこんで行った。やがてヨハネ伝の第九章へと進んだ時、私は思わず彼に声をかけ、その部分をもう一度読んでほしいと促した。

「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですが。本人ですか、それとも、その両親ですか」。イエスは答えられた。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである・・・」

私は全身を貫き通す一つの力を意識した。

人の一生を決めるもの、運命を決めるもの、人間として生きることの基本的な疑問を、ここでは明らかな答えとして、示しているように思えたからである。

その後、私達は園内のキリスト教会へ足を運んだ。重病棟専用の病衣の上から外套をまとい、衰えた視力を頼りに、彼の手に引かれて教会の扉を叩いた。台湾の療養所「楽生院」から、お帰りになって間もない小倉先生が、私達を快く迎えて下さって、夜遅くまで聖堂の片隅で聖書を説き聞かせて下さった。説明されればされるほど、疑問もわいて、私と彼とが先生に向かって質問を繰り返し、毎晩のように議論を重ねながら、日曜礼拝に出席するほどにまで、導かれて行った。

昭和23年のクリスマス礼拝に私達は、他の人々と一緒に洗礼を受けた。同年輩の若者たちも五、六人いてやがて青年会を組織し、聖書を勉強し信仰の道を開いていった。

そのころ、亀井勝一郎という評論家がいて、太平洋戦争後のわが国の青年たちには、文学青年と、政治青年と、宗教青年の三つのスタイルがあると、ある評論雑誌で論じていたが、当時のハンセン病療養所内の青年達も例外ではなく、療養の傍ら、それぞれの道を求めたのだった。そのうち宗教の場合には、キリスト教活動が、目だって盛んとなり、年毎に求道者が増えて行った。

昭和28年、園内に盲人会が結成された。読書会や放送劇や、短歌、俳句などの文芸活動が盛んになると同時に衣食住の充実を求めて、政府に対する請願活動が活発となった。そんな中で、点字講習会が始まった。指先を犯されていない仲間たちに混じって私もそれに参加し、点字を読むことに挑戦した。

私は聖書をどうしても自分で読みたいと思った。しかしハンセンで病んだ私の手は指先の感覚がなく、点字の細かい点を探り当てる事は到底無理な事であったから、知覚の残っている唇と、舌先で探り読むことを思いついた。これは群馬県の栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)の病友が始めたことで、私にも出来るに違いないという一縷の望みがあったからである。

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「鼠退治」    近藤宏一

2017-03-02 03:52:27 | 文学

 「鼠退治」     近藤宏一


 終戦間もない頃、私はI君、A君と共に精米所で作業をしていたが、一粒の米麦が宝石のように尊ばれる時節でもあり、少しでも無駄をはぶく意味から、ある日作業場に巣食っている鼠どもを退治することになった。鼠の巣は作業場の片隅に古くから積み上げている叺(かます)の中であるが、親方のBさんが推定するところによると、少なくとも二~三十匹はいるだろうという。血気にはやる私たちはこれを一挙にせん滅し、鼠一族を絶滅しようとその作戦をたてた。まず敵の陣地には手をふれず、そのあたりにおいてある機械や道具類、麦俵などを外へ運び出して、我々の行動範囲を少しでも広くすることに努めた。次に敵を一匹でも逃してはならぬというので適当な場所に精麦を入れる箱などを並べて万里の長城を築いた。準備万端整ったところで私たち三人、親方の命令一下、手に手にデッキブラシやこん棒を握りしめておもむろに敵陣を包囲。さすが胸がおどった。背の高いI君が深呼吸を一番、さっと一枚の叺(かます)をはね上げた。しかし敵の気配は全くない。おかしいぞと思う間もなくI君の手が次の叺(かます)にふれたかと思うと黒いかたまりがぱっと空にとんで出た。瞬間「えい!」と耳をつんざく気合いをかけた。A君の一撃は見事にこれを叩き落としていた。まぐれ当たりとはいいながら、その武者ぶりは正に宮本武蔵なみであった。この物音におどろいたのか壁ぎわの隙間から数匹のネズ公がとび出してきた。「それっ」とばかり私たちは一せいに打って出た。戦闘開始だ。チュウチュウと可憐な悲鳴をあげてすばしこく逃げまどう奴をめがけて叩く、突く、けとばす、踏みつぶす。もうこうなれば無慈悲もなにもあったものではない。それにすきをみてはI君が敵陣を取り崩していくので、狭い場所に敵の数がふえるばかり。「それ、ここだ、あそこだ、右だ、左だ」とけん命に声援する親方の声も耳に入らない。手当り次第、めったやたらとこん棒をふり下すだけ。足許には敵の死がいが転がり、草履はぬげ、眼鏡はふっとび、それはまさに修羅の巷であった。数時間後、いやほんの数分だったかも知れない。戦いを終えて私たち、戦果の数をかぞえてみた。全部で二十七匹であった。
 
 翌る日私たちは、その鼠は園長先生の命令で重病棟の病友の二号食になったことを知った。鼠を食わせる園長・・・。病人に・・・。しかし私たち三人はおどろかなかった。

 毎日のように栄養失調で倒れてゆく病友のことを考えあわせたからではない。実は五、六日前、私たち三人はひそかにネズ公を食べていたのである。いや食べずにはおれなかったのである。だから光田園長に食糧対策の不備を追求するのならともかく、「病人に鼠を食わすとは何事だ」という非難の声があるとしても、私はちょっとそれは的が外れているのではないかと思っている。八十数年の生涯のうち、やはり光田園長はこのことが一番苦しかったにちがいない・・・。

(「点字愛生」第34号 1964年8月) 
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三月の甘納豆のうふふふふ        坪内稔典

2017-03-01 05:36:41 | 文学

三月の甘納豆のうふふふふ        坪内稔典

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札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf