クリスマス馬小屋ありて馬が住む 西東三鬼
酒がからだに合わない、と思っていた。それにはわけがあって、わたしが腸が丈夫ではないせいだろう。わたしは、三歳の頃腸チフスを患って伝染病棟に入れられ、動くと腸壁が破れて死ぬといってベッドにしばりつけられたことがある。また一九四五年の冬から数年間、栄養失調気味の下痢がとまらなかった。
今でも沢山飲むことは出来ない。ウイスキーだったら、一本を四回ぐらいにわけて飲むことになる。しかし、だんだん酒に親しみをおぼえはじめている。若い頃だったらウイスキーの銘柄による味のちがいなど、どうでもよかった。今は、ちがうものはずいぶんちがう、などと思うようになりはじめている。
しかし深まってくる秋とともに飲みたくなるのはやはり日本の酒である。一人で部屋で仕事から解放されたあと、魚のひらきなど焼いて飲む。この時のものさびしさは、やはり捨てがたい。心もからだもつかれきっている時、その酒がうまいほど、魚がうまいほど自分が死ぬべき存在として生きているという強烈な実感にとらえられる。とくに闇夜で外がまっくらだったりすると、胸がつまってくる。
わたしの父親は四十二で死んだ。酒を好まなかったが四十を過ぎて飲みはじめた。あの人も、そんな思いをしただろうか。
過酷な生、悲痛な歴史…表現の先端切り開く記録映画 山形国際ドキュメンタリー映画祭 王兵「死霊魂」に大賞 2019/10/19 日本経済新聞 電子版
過酷な生、悲痛な歴史…表現の先端切り開く記録映画
山形国際ドキュメンタリー映画祭 王兵「死霊魂」に大賞
2019/10/19 日本経済新聞 電子版
ロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)の王兵監督「死霊魂」
人間は悲痛な歴史や過酷な現実とどう向き合い、映画はそれをどう表現するのか――。山形国際ドキュメンタリー映画祭2019は王兵(ワン・ビン)監督「死霊魂」を大賞に選び、17日閉幕した。30年目を迎えた山形は今年も映画表現の最先端を示した。
8時間15分、全く退屈しなかった。「死霊魂」に登場するのは1957年からの中国の反右派闘争で粛清され、ゴビ砂漠にある再教育収容所に送られた人々。収容者3200人の多くが餓死し、500人しか生き残らなかったという過酷な生活をそれぞれに語る。
理不尽な摘発、虐待と飢え、狂気と死。高齢の生存者が次々と登場し、それぞれの壮絶な体験を数十分ずつ語っていく。事件の時系列に沿って証言を再構成しないし、歴史の解釈もしない。ただ証言する人の姿だけをカメラは延々ととらえる。
とつとつと言葉を選ぶ人、猛烈な勢いでしゃべり続ける人、穏やかに超常現象を語る人、怒って口をつぐむ人……。証言者はみな個性的だ。体験したことがそれぞれ違うように、語り方も、過去との向き合い方もそれぞれ違う。その違いによって悲痛な歴史が、より立体的に浮かび上がる。いわばポリフォニーだ。
王が反右派闘争を描くのはこれが3本目。「鳳鳴(フォンミン)――中国の記憶」(07年)は一人の老女のモノローグとして、「無言歌」(10年)は劇映画として撮った。今回はまた違うスタイルで歴史を呼び覚ました。審査員の諏訪敦彦(のぶひろ)監督は「人間の本質に分け入って行く稀有(けう)な叙事詩であり、映画の本質に分け入って行く稀有な叙事詩である」と授賞理由を読み上げた。
ビクトリア湖に1980年代に放流された淡水魚ナイル・パーチは、200種を超える在来種の魚を食べつくし、タンザニアに一大産業をもたらした。パーチを捕る漁民、魚加工工場で働く人々は幾ばくかの経済的な潤いにあずかるが、それは世界経済の搾取の一端であり、新たな貧富の差をタンザニアに生むことに他ならない。
パーチは低賃金の労働力によって食べ物に加工され、ヨーロッパの何百万人かの胃袋に入る。ヨーロッパに輸出されるのは三枚におろした身の部分だ。頭のついた骨の部分は、トラックに山積みされ、さらに貧困の地域に運ばれる。ウジ虫のついたパーチの骨は、天日に干され、養殖用の水槽のような巨大な鍋で揚げられる。その揚げ物は日本にも輸出される。タンザニアには1日1ドルで生活している人が半分以上いるという。
一方、魚を運ぶのはロシアの航空会社だ。ロシアのパイロットたちは、一日10ドルでタンザニアの娼婦を買い、夜は家族の写真を見ながら酒を飲む。
ヨーロッパからタンザニアに来る飛行機は、何も積んでいないと誰もが話していたが、国連の援助物資や武器も運ぶことが暴かれる。援助物資や武器輸出に群がる商人たち。タンザニアの空港は、管理体制がずさんで、密輸にはもってこいの場所になっているという。
漁師たちはエイズにかかっている。貧しい村で、エイズのために死ぬ男たち。一家の主を失った女は、金のために体を売る。それを買うのは、貧しい村の漁師たちだ。そうやってエイズが広がっていく。そして街には、ストリートチルドレンが増えていく。
満足な靴もないような貧しい人たち。ウジ虫の這いまわる泥の中から、腐りかけたパーチの頭をつかみ上げ、天日に干す作業をする女、子供。それで生活の糧を得る。揚げた魚で金儲けする会社。日本の魚の冷凍食品や、ファミレスの魚フライは、ウジ虫がついていたパーチかもしれない。
鯨やメダカなど絶滅危惧種に騒ぐ先進国の人のなかには、パーチの自然体系破壊を大きく取り上げる人がいるのだろうか。パーチのことは知らず、鯨やイルカをガイアと神聖化し、ムニエルを食べながら、テレビを見ている人がほとんどだろう。
南北格差の問題も同じだ。人々は搾取はよくないという。植民地政策に賛成する人もいないだろう。金持ちは募金をし、UNの援助物資や助成金がアフリカに行くことに反対する人はいないだろう。しかし、援助物資の中身は欧米の商品だ。回りまわって金は金持ちの国に戻ってくる。貧困の本質について知らず、家族を愛し、悪意もなく、ほとんどの人は生きている。
『ダーウィンの悪夢』。この映画をタンザニアのほとんどの人は見ることはないだろう。一日1ドルの貧しい生活の者が半分以上いるというタンザニアで、どこで、どうやってこのような映画を観るというのか。「貧困」について、「貧困」を生んでいる金持ちの国の人が映画を作り、金持ちの国の人がその映画を観て、タンザニアの貧しさに涙を流す。
貧困はなくさなければならない…そう思ったとき、さて何ができるのか。とりあえずできることは、金の支配から少しでも離れた生活をすることか。この社会システムの中にいる限り、日本で生きていることが、加害者と同じことになる。そこから抜け出すことはできるのか。せめて加害者にならずにいようと考えること自体が、農的自給自足に憧れるのと同じで、金持ちの国の住人の、独りよがりな甘い戯言か。
2005/10/9 山形国際ドキュメンタリー映画祭にて