湊かなえさんの『告白』を読んだ後に、桜庭一樹さんの『私の男』(文藝春秋社)を読んだら、いや~、読みやすかったです。勿論、意識してそういう文体で書いているかもしれないので、目下湊さんの二作目『少女』を予約中なんですが、作家さんとしての力量の差なのか、スタイルの違いなのか、とにかく『私の男』は読みやすかったです。
”衝撃の問題作”と謳われた直木賞受賞作の『私の男』を、面白かったと大声で言うのは世間的に良くないかもしれませんが(苦笑)目も眩むような、脳が真っ白になるような「飢え」をこれでもかと書ききった作品は、やはり面白いとしか言えません。
このお話を読んでいて、三浦しをんさんの作品と比べずにはいられませんでした。三浦さんの作品のキャラたちは、どんな絶望的な状況にあっても救いが見えるんですよ。でも、桜庭さんの作品のキャラたちは、絶望の底に居ついちゃう、そこで生きていっちゃうんです。私はお二人の作品もエッセイも大好きですけど、その違いがとても面白いと思いました。
引き続き、同じく桜庭さんの『ファミリーポートレイト』(講談社)を読んで、あァ、このお話を男性の方が読まれたら、気持ち悪いかもと思いました。それくらい女の内面というか、毎月血を流して生きなきゃいけない生きものだから紡がれる言葉があふれてました。
正直、最初は読みづらくて(笑)最後まで読めるのかしら?と弱気になったんですが、どんどんコマコの生きた日々と、駒子となってからの日々に呑み込まれてしまいました。駒子(にしか聴こえない)母の声や、他人からすれば地獄の様な子ども時代の描写は、ふとS・キングの作品を思い出させるものでした。
たぶん桜庭さんは、ひとつ、作家さんとしての階段を登ったんだと感じるお話でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>『ファミリーポートレイト』より引用
ようやくあたしは、自分のつくったものが、鍛冶野さんが語ったとおり、誰かの孤独な夜に滑りこんでいるかもしれない、と信じはじめた。
作り手が死んだ後も、本だけが残って未来の誰かを救うことがあるかもしれない。よくもわるくもなにかを変化させてしまうかもしれない。愛についてたどたどしく語る言葉も。破壊を求める暗い叫び声も。誰かの夜で、鈴の音のように、震える。
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>講談社BOOK倶楽部 「セルフポートレイト 最新作『ファミリーポートレイト』について 桜庭一樹」より引用
( http://shop.kodansha.jp/bc/books/topics/portrait/hon.html )
わたしは小説家として、日本の風土で、昔から現代まで通用する“神さまに代わるもの”はなにかと考え続けていた。
たとえば欧米の映画では、裁判シーンで、証言台についた人物が聖書の上に手をのせて宣誓する。神に誓ったからと、嘘をつきにくくなるらしい。子どものころから、観るたびに、日本でこれはないよなぁと思っていた。だって神さまなんていないもん。大人になってくると、では代わりになにに宣誓させれば神に誓ったのと同じ効力を発揮するのかなと考え始めた。恋人?いやいや、いくらなんでも恋愛はそこまで宗教化してないだろう。で、ある日……もう三十代になってからだけど、どこからか水が流れてきたように閃いた。
家族だ。
家族の写真(フアミリーポートレイト)に誓わせれば、神と同じか限りなくそれに近い効力を発揮するかもしれない。
おおきなお話を書いて、個人的な出来事をみんなの物語に変換するためには、そして日本の風土にはなかなか溶けこませることのできない“罪”という底なし沼に主人公を突き落とすためには、神さまの位置に、血の繋がりそのものを持ってくればよい。
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「家族の名に誓って」
私なら、私の内にある全てのモノの最上の誓いです。
”衝撃の問題作”と謳われた直木賞受賞作の『私の男』を、面白かったと大声で言うのは世間的に良くないかもしれませんが(苦笑)目も眩むような、脳が真っ白になるような「飢え」をこれでもかと書ききった作品は、やはり面白いとしか言えません。
このお話を読んでいて、三浦しをんさんの作品と比べずにはいられませんでした。三浦さんの作品のキャラたちは、どんな絶望的な状況にあっても救いが見えるんですよ。でも、桜庭さんの作品のキャラたちは、絶望の底に居ついちゃう、そこで生きていっちゃうんです。私はお二人の作品もエッセイも大好きですけど、その違いがとても面白いと思いました。
引き続き、同じく桜庭さんの『ファミリーポートレイト』(講談社)を読んで、あァ、このお話を男性の方が読まれたら、気持ち悪いかもと思いました。それくらい女の内面というか、毎月血を流して生きなきゃいけない生きものだから紡がれる言葉があふれてました。
正直、最初は読みづらくて(笑)最後まで読めるのかしら?と弱気になったんですが、どんどんコマコの生きた日々と、駒子となってからの日々に呑み込まれてしまいました。駒子(にしか聴こえない)母の声や、他人からすれば地獄の様な子ども時代の描写は、ふとS・キングの作品を思い出させるものでした。
たぶん桜庭さんは、ひとつ、作家さんとしての階段を登ったんだと感じるお話でした。
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>『ファミリーポートレイト』より引用
ようやくあたしは、自分のつくったものが、鍛冶野さんが語ったとおり、誰かの孤独な夜に滑りこんでいるかもしれない、と信じはじめた。
作り手が死んだ後も、本だけが残って未来の誰かを救うことがあるかもしれない。よくもわるくもなにかを変化させてしまうかもしれない。愛についてたどたどしく語る言葉も。破壊を求める暗い叫び声も。誰かの夜で、鈴の音のように、震える。
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>講談社BOOK倶楽部 「セルフポートレイト 最新作『ファミリーポートレイト』について 桜庭一樹」より引用
( http://shop.kodansha.jp/bc/books/topics/portrait/hon.html )
わたしは小説家として、日本の風土で、昔から現代まで通用する“神さまに代わるもの”はなにかと考え続けていた。
たとえば欧米の映画では、裁判シーンで、証言台についた人物が聖書の上に手をのせて宣誓する。神に誓ったからと、嘘をつきにくくなるらしい。子どものころから、観るたびに、日本でこれはないよなぁと思っていた。だって神さまなんていないもん。大人になってくると、では代わりになにに宣誓させれば神に誓ったのと同じ効力を発揮するのかなと考え始めた。恋人?いやいや、いくらなんでも恋愛はそこまで宗教化してないだろう。で、ある日……もう三十代になってからだけど、どこからか水が流れてきたように閃いた。
家族だ。
家族の写真(フアミリーポートレイト)に誓わせれば、神と同じか限りなくそれに近い効力を発揮するかもしれない。
おおきなお話を書いて、個人的な出来事をみんなの物語に変換するためには、そして日本の風土にはなかなか溶けこませることのできない“罪”という底なし沼に主人公を突き落とすためには、神さまの位置に、血の繋がりそのものを持ってくればよい。
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「家族の名に誓って」
私なら、私の内にある全てのモノの最上の誓いです。