いったい言葉が何物であろうか、何ほどの値打があるのだろうか、人間の愛情すらもそれだけが真実のものだという何のあかしもあり得ない、生の情熱を託するに足る真実なものが果してどこに有り得るのか、すべては虚妄の影だけだ。女の髪の毛をなでていると、慟哭したい思いがこみあげ、さだまる影すらもないこの捉えがたい小さな愛情が自分の一生の宿命であるような、その宿命の髪の毛を無心になでているような切ない思いになるのであった。
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白痴の女よりもあのアパートの淫売婦が、そしてどこかの貴婦人がより人間的だという何か本質的な掟が在るのだろうか。けれどもまるでその掟が厳として存在している馬鹿馬鹿しい有様なのであった。
俺は何を怖れているのだろうか。まるであの二百円の悪霊が――俺は今この女によってその悪霊と絶縁しようとしているのに、そのくせ矢張り悪霊の咒文によって縛りつけられているではないか。怖れているのはただ世間の見栄だけだ。その世間とはアパートの淫売婦だの妾だの姙娠した挺身隊だの家鴨のような鼻にかかった声をだして喚いているオカミサン達の行列会議だけのことだ。そのほかに世間などはどこにもありはしないのに、そのくせこの分りきった事実を俺は全然信じていない。不思議な掟に怯えているのだ。
それは驚くほど短い(同時にそれは無限に長い)一夜であった。長い夜のまるで無限の続きだと思っていたのに、いつかしら夜が白み、夜明けの寒気が彼の全身を感覚のない石のようにかたまらせていた。彼は女の枕元で、ただ髪の毛をなでつづけていたのであった。
(坂口安吾『白痴』)