はてなの住人は「頭がいい」ネタが大層お好きらしい(笑)。
前にも記事に書いたが、多くの人々が「一発解答」を求めているように見受けられる。結論的には、「誰にも判らない」としか言いようがないのが現状なのではないだろうか。「コレをやれば…」というのが本当に確立されるとしたら、もっと人間について色々なことが判ってからだろうと思うのだが。世の中、こうして何かにすがりたい気分が充満しているのであろうか?
あるあるの納豆騒動も同じようなものかと思う。
「手軽に簡単に痩せられる方法を教えて下さい」
→「毎日納豆を50g食べれば痩せられます」
みたいに解答が得られたとして、この答えには何か意味があるのだろうか?(笑)
実体験として「私が痩せられたんだから、いいじゃない」とか、「現実に痩せたのだから効果があったのよ」とか、そういう主張をするでしょうか?こういう解答を見たら、かなり多くの人が「これはひどい」とか「トンデモ」とか「頭がわるい」といった意見に集中しそうなんですけどね。ところが「頭がよくなる」という話題に振り替えられただけで、どうしてこうも人々の反応が変化するのか興味深いですね。
例えば、暗算とか算盤ネタは丁度先日書いたばかりだが、これを挙げている人も複数いるね。算盤十段の彼でも、難関校には行かない学業成績だったけど、すると彼は「頭がよいとは言えない」とか言われちゃうんだろうか?
だいいち、「頭がよくなる」ということの評価は、どう考えているのであろうか?「入試(テスト)の点数がアップする」とか?それとも、「大学の評定が向上する」とか?「読んだ本を百冊暗記できるようになる」とか?「一分間に何万字読めるようになる」とか?
なんだかよく判りませんけれども、基本的に「頭がよくなった」って思ったところで現実にそうなのかどうやって判るのかな、とは思いますね。最も普通に考えられるのは、「元々の能力に依存するんじゃないの?」という問いに答えられないと思うのですよね。要するに「生まれつき頭がよかったんじゃないですか」ということなんですよ。これに答えられるかどうか訊いてから、解答をもらった方がいいと思うね。もしも「遺伝的要因」であった場合、”来世”で優秀な両親の元にでも生まれ変われないと何をやっても無理ですから(笑、冗談ですよ)。
もし質問するなら、求めたいものをもう少し限定するべきでしょうね、きっと。
「自転車に乗れるようになる為のトレーニング方法で有効だったもの」みたいな。仮に勉強の範囲で言えば、「数学のテストで点数アップが期待できる勉強方法・トレーニング法」とか。
もうちょっと書いてみる。
水泳とかゴルフとかテニスとかを小学生入学後から始めた場合、あるトレーニング方法を子ども100人が実践した時に、みんな「同じレベル」に到達していると思うか?
たぶん多くの人たちが「ある程度開きがあるんじゃないだろうか」と考えるのではないか。まさか同じトレーニングをしていれば「みんなゴジラ松井と同じようになれる」とか、「タイガー・ウッズと同じくなれる」と思ったりするわけでもあるまい?これが勉強とか「頭がよくなる」みたいな話になると、「みんな同じようになれる」という発想をするのは何故なのだろうか、というのが根本的疑問なのである。同じトレーニング方法を選択したとしても「違うレベルにしか到達しない」と考えているのであれば、「急激に頭がよくなる方法」という一発解答を聞いてみたところで「大した意味はない」という風に考えるんじゃないだろうか。
別な例で考えてみよう。ゴルフのトレーニング法でAとBという方法があり、これをそれぞれ同じ年齢で平均的体格の子ども100人(たとえば人種や平均身長、体重等で違いのない集団ということ)が実践するものとする。ドライバーの飛距離とフェアウェイキープ率で評価した場合に、Aの方がBよりも成績が良かったとする。この場合には、Aというトレーニング法はBに比べると、「ドライバーショットの能力向上に効果がある、有効であろう」ということは言えるかもしれない。通常、優れたコーチなんかだと、そういう「有効な方法」を商売の種として「知っている、持っている」というようなことなのではないかと思う。でも、Aという方法だけを実践しているトレーニングスクールと、Bという方法だけを実践するスクールがあって、全く同じ人数が存在していても、「プロテストに合格する割合」なんかで見ると、あまり違いがないかもしれないし、年度毎でかなりばらつきがあったりするかもしれない。それとも、Aを同じように選択していたのに、「優秀な子」と、「パッとしない子」のような違いを生じるであろう。或いは、Aの方法でトレーニングしたのに、Bの方法を選んだ子より成績が悪いこともあるかもしれない。
ドライバーショットの方法だけに限らず、「プロテストに合格するのに効果的方法」を見ても似たようなもんかな、と。もしこれが「トレーニング法」の選択に関係ない結果であるとすれば、元々持ってる個性と言いますか、個人的資質と言いますか、所謂「センス」ってやつですか、それに大きく影響を受ける、という結論になってしまうのであれば、トレーニング方法の選択自体には殆ど意味はないかもしれないですよね。ただ、平均的にはAの方がBよりも有効で、あるレベルに到達するまでの時間短縮には繋がるかもね、といったことはあるかもしれないが。
みんなの体験に基づく「急激にゴルフがうまくなる方法」というのを実際にやってみると、自分には合わない方法(先の例で言えば、AよりBの方法で優秀だった子のような)であったりするかもしれないし、胡散臭いだけの「オレ流トレーニング方法」かもしれませんよね。これは「私はコレで痩せました!毎日スイカ1玉完食ですよ」みたいなものと、区別がつかないのではないかとしか思えません。「私はこれで急激に頭がよくなりました!毎日サンマを食べました」というのと、「毎日暗算を1000問やりました!」というのは、大した違いなどなさそうです、ということです。
ある子どもが「ゴルフに出会って」メキメキ上達し、元々センス抜群であったので普通に練習していてもプロになったかもしれないが、「5円玉をパッティングするという練習方法に出会って継続したら、凄く上達しプロになれましたー!」とかいうのを聞いて、「なるほどな」と思ってみんなが同じことをやってみたところでプロにはなれない連中が圧倒的大多数ということなんですよ。この子が5円玉パッティング法に出会って、それ以降急激にうまくなったように感じたのはただの偶然で、別な片手ハンガー素振り法(笑、そんなのないと思うけど、漫画っぽく表現してみました)であったとしても結果はあまり違わないかもしれませんよ、ということです。
そういうようなわけで、「急激に頭がよくなった」方法とか体験談がこれほど関心を集めるのは、不思議です。そんなに頭がよくなりたいという願望が強いのでしょうか。頭が悪いのは誰のせいだい?―「アタシだよ」じゃなかった、私の場合には自分の親を見れば大体想像がつくので、「その程度だわな」と思っています。年寄りのせいというのもあるか。40過ぎだしね。でも、多くの人々は「個々の持っている脳の基本的性能」みたいなのは、ある時点で「頭打ち」(脳みそだけに、笑)になっていると思いますね。
そもそも、「頭が急激によくなる」ことで、何をどうしたいのでしょうか?何を達成したいのでしょうか?そういうところが一番重要なのであって、それを自分で考えたり見つけたりできない限り、他人の「こうすれば頭が急激によくなる方法ベスト20」(笑)みたいなのを実践してみたところで、クソの効果も得られないということが圧倒的に多いだろうと思いますね。しょうがないんじゃないかな、自分は自分なんだから。もっと自分を愛せよ、と言いたい。
この前の逮捕されたエリートの成れの果てみたいな場合だと、超難関の慶応医学部出て官僚になっても、結局「頭が悪い」んですから、そんなもんなんですよ。そういう人間よりも、人生でたった一度だけでも「誰かを救ってあげられる」とかの方が「頭がいい」んじゃないかと思う。落ち込んでるヤツにかけた言葉とか、挫けそうな人を励ましてあげたとか、誰かの不安な気持ちを判ってあげたとか、そういう方が「頭がいい」と思うよ。
そういうわけで、「頭がよくなる方法を全てマスターして実践するオレ」になることよりも、「今より頭が使えるようになった自分」だったら、こうする・こう言ってみたい・こんな生き方をしたい、というようなことを「自分の頭で考えられるオレ」になってもらった方が何倍もいいと思うのだが。それを考えるだけじゃなくて実行していくと、いつの間にか「今より頭が使えるようになった自分」になっているんじゃないのかな。
前にも記事に書いたが、多くの人々が「一発解答」を求めているように見受けられる。結論的には、「誰にも判らない」としか言いようがないのが現状なのではないだろうか。「コレをやれば…」というのが本当に確立されるとしたら、もっと人間について色々なことが判ってからだろうと思うのだが。世の中、こうして何かにすがりたい気分が充満しているのであろうか?
あるあるの納豆騒動も同じようなものかと思う。
「手軽に簡単に痩せられる方法を教えて下さい」
→「毎日納豆を50g食べれば痩せられます」
みたいに解答が得られたとして、この答えには何か意味があるのだろうか?(笑)
実体験として「私が痩せられたんだから、いいじゃない」とか、「現実に痩せたのだから効果があったのよ」とか、そういう主張をするでしょうか?こういう解答を見たら、かなり多くの人が「これはひどい」とか「トンデモ」とか「頭がわるい」といった意見に集中しそうなんですけどね。ところが「頭がよくなる」という話題に振り替えられただけで、どうしてこうも人々の反応が変化するのか興味深いですね。
例えば、暗算とか算盤ネタは丁度先日書いたばかりだが、これを挙げている人も複数いるね。算盤十段の彼でも、難関校には行かない学業成績だったけど、すると彼は「頭がよいとは言えない」とか言われちゃうんだろうか?
だいいち、「頭がよくなる」ということの評価は、どう考えているのであろうか?「入試(テスト)の点数がアップする」とか?それとも、「大学の評定が向上する」とか?「読んだ本を百冊暗記できるようになる」とか?「一分間に何万字読めるようになる」とか?
なんだかよく判りませんけれども、基本的に「頭がよくなった」って思ったところで現実にそうなのかどうやって判るのかな、とは思いますね。最も普通に考えられるのは、「元々の能力に依存するんじゃないの?」という問いに答えられないと思うのですよね。要するに「生まれつき頭がよかったんじゃないですか」ということなんですよ。これに答えられるかどうか訊いてから、解答をもらった方がいいと思うね。もしも「遺伝的要因」であった場合、”来世”で優秀な両親の元にでも生まれ変われないと何をやっても無理ですから(笑、冗談ですよ)。
もし質問するなら、求めたいものをもう少し限定するべきでしょうね、きっと。
「自転車に乗れるようになる為のトレーニング方法で有効だったもの」みたいな。仮に勉強の範囲で言えば、「数学のテストで点数アップが期待できる勉強方法・トレーニング法」とか。
もうちょっと書いてみる。
水泳とかゴルフとかテニスとかを小学生入学後から始めた場合、あるトレーニング方法を子ども100人が実践した時に、みんな「同じレベル」に到達していると思うか?
たぶん多くの人たちが「ある程度開きがあるんじゃないだろうか」と考えるのではないか。まさか同じトレーニングをしていれば「みんなゴジラ松井と同じようになれる」とか、「タイガー・ウッズと同じくなれる」と思ったりするわけでもあるまい?これが勉強とか「頭がよくなる」みたいな話になると、「みんな同じようになれる」という発想をするのは何故なのだろうか、というのが根本的疑問なのである。同じトレーニング方法を選択したとしても「違うレベルにしか到達しない」と考えているのであれば、「急激に頭がよくなる方法」という一発解答を聞いてみたところで「大した意味はない」という風に考えるんじゃないだろうか。
別な例で考えてみよう。ゴルフのトレーニング法でAとBという方法があり、これをそれぞれ同じ年齢で平均的体格の子ども100人(たとえば人種や平均身長、体重等で違いのない集団ということ)が実践するものとする。ドライバーの飛距離とフェアウェイキープ率で評価した場合に、Aの方がBよりも成績が良かったとする。この場合には、Aというトレーニング法はBに比べると、「ドライバーショットの能力向上に効果がある、有効であろう」ということは言えるかもしれない。通常、優れたコーチなんかだと、そういう「有効な方法」を商売の種として「知っている、持っている」というようなことなのではないかと思う。でも、Aという方法だけを実践しているトレーニングスクールと、Bという方法だけを実践するスクールがあって、全く同じ人数が存在していても、「プロテストに合格する割合」なんかで見ると、あまり違いがないかもしれないし、年度毎でかなりばらつきがあったりするかもしれない。それとも、Aを同じように選択していたのに、「優秀な子」と、「パッとしない子」のような違いを生じるであろう。或いは、Aの方法でトレーニングしたのに、Bの方法を選んだ子より成績が悪いこともあるかもしれない。
ドライバーショットの方法だけに限らず、「プロテストに合格するのに効果的方法」を見ても似たようなもんかな、と。もしこれが「トレーニング法」の選択に関係ない結果であるとすれば、元々持ってる個性と言いますか、個人的資質と言いますか、所謂「センス」ってやつですか、それに大きく影響を受ける、という結論になってしまうのであれば、トレーニング方法の選択自体には殆ど意味はないかもしれないですよね。ただ、平均的にはAの方がBよりも有効で、あるレベルに到達するまでの時間短縮には繋がるかもね、といったことはあるかもしれないが。
みんなの体験に基づく「急激にゴルフがうまくなる方法」というのを実際にやってみると、自分には合わない方法(先の例で言えば、AよりBの方法で優秀だった子のような)であったりするかもしれないし、胡散臭いだけの「オレ流トレーニング方法」かもしれませんよね。これは「私はコレで痩せました!毎日スイカ1玉完食ですよ」みたいなものと、区別がつかないのではないかとしか思えません。「私はこれで急激に頭がよくなりました!毎日サンマを食べました」というのと、「毎日暗算を1000問やりました!」というのは、大した違いなどなさそうです、ということです。
ある子どもが「ゴルフに出会って」メキメキ上達し、元々センス抜群であったので普通に練習していてもプロになったかもしれないが、「5円玉をパッティングするという練習方法に出会って継続したら、凄く上達しプロになれましたー!」とかいうのを聞いて、「なるほどな」と思ってみんなが同じことをやってみたところでプロにはなれない連中が圧倒的大多数ということなんですよ。この子が5円玉パッティング法に出会って、それ以降急激にうまくなったように感じたのはただの偶然で、別な片手ハンガー素振り法(笑、そんなのないと思うけど、漫画っぽく表現してみました)であったとしても結果はあまり違わないかもしれませんよ、ということです。
そういうようなわけで、「急激に頭がよくなった」方法とか体験談がこれほど関心を集めるのは、不思議です。そんなに頭がよくなりたいという願望が強いのでしょうか。頭が悪いのは誰のせいだい?―「アタシだよ」じゃなかった、私の場合には自分の親を見れば大体想像がつくので、「その程度だわな」と思っています。年寄りのせいというのもあるか。40過ぎだしね。でも、多くの人々は「個々の持っている脳の基本的性能」みたいなのは、ある時点で「頭打ち」(脳みそだけに、笑)になっていると思いますね。
そもそも、「頭が急激によくなる」ことで、何をどうしたいのでしょうか?何を達成したいのでしょうか?そういうところが一番重要なのであって、それを自分で考えたり見つけたりできない限り、他人の「こうすれば頭が急激によくなる方法ベスト20」(笑)みたいなのを実践してみたところで、クソの効果も得られないということが圧倒的に多いだろうと思いますね。しょうがないんじゃないかな、自分は自分なんだから。もっと自分を愛せよ、と言いたい。
この前の逮捕されたエリートの成れの果てみたいな場合だと、超難関の慶応医学部出て官僚になっても、結局「頭が悪い」んですから、そんなもんなんですよ。そういう人間よりも、人生でたった一度だけでも「誰かを救ってあげられる」とかの方が「頭がいい」んじゃないかと思う。落ち込んでるヤツにかけた言葉とか、挫けそうな人を励ましてあげたとか、誰かの不安な気持ちを判ってあげたとか、そういう方が「頭がいい」と思うよ。
そういうわけで、「頭がよくなる方法を全てマスターして実践するオレ」になることよりも、「今より頭が使えるようになった自分」だったら、こうする・こう言ってみたい・こんな生き方をしたい、というようなことを「自分の頭で考えられるオレ」になってもらった方が何倍もいいと思うのだが。それを考えるだけじゃなくて実行していくと、いつの間にか「今より頭が使えるようになった自分」になっているんじゃないのかな。