昨日書いた記事の中で、意図的にタブーとも言える領域に触れた。それはどのように考えたらよいのか、私自身が明快な答えを持たないからだ。全ての例で、善い、悪いの両方の意見があるだろうな、と思う。そして、どれも現実に似たようなことが起こっているはずなのだ。それに目を向けて、そこから議論とか考えをスタートさせるといいのではないかと思った。だから、書いた。
立場が異なれば、考え方も捉え方も違うだろう。自分が全ての他人の心の中に入ることはできないし、全部を理解することは難しい。「その立場になったことがないのに、判ったことを言うな」とか思うことは多いかもしれないが、それを全肯定してしまえば誰とも議論が成り立たなくなる。他の人の置かれた状況や立場に理解を示して、気持ちを判ろうと努力してみて、それでも成り代われるわけではないから正確に判らないけれど、議論を始めるしかないのである。法律を考えるとか、政策を考えるという場合には、何か制度を作れば必ず弊害が表面化するであろう。制度がなければ、たとえ問題が存在していたとしても、はっきりとそれが認識されないか、覆い隠されているであろう。だから、制度化するということは、衝突を必ず生み出すということを前提として考えねばならないのだと思う。賛成する人がいれば、反対する人がいるという、極めて単純なことなのである。
もしも私が「自殺したい」という人を目の前にした時、それが自分の知らない他人であったとしても、止めるであろうと思う。まず100%近くは「待て、早まるんじゃない!」と制止すると思う。では、100%ではないのか?と問われると、自信が持てないのである。どんな場合であっても絶対に止める、とは断言するほど現実世界の全てを知らないのである。「あるがままの死を迎えさせてくれ」と懇願された時、自殺志願者の場合と同じくそれを阻止するべきなのか?この問いに、私は答えられないのである。生と死に関しては、三者三様の立場や意見があるのが普通であり、それを絶対基準で考えることはそもそも不可能としか思えないのである。あくまで、相対的な選択という結論を導くことくらいしかできないのではないだろうか。
1人の女性が、独力で自然に分娩することがもっとも自然に近く、人間本来の生き方なのだ、だから自分は病院なんかには行かずに1人で出産する、と言ったとしよう。1人で出産すれば恐らく母体死亡や新生児死亡のリスクは増大するであろう。しかし、この女性に対して、「1人で分娩するのは絶対に止めろ」と命ずる権利は誰かにあるであろうか?この女性が1人で分娩することを知りながら、それを阻止しなかった場合、自分の責任はどうなるであろうか。万が一、生まれた子が死亡してしまったりすれば、自分はその子の死を幇助したことになるのだろうか。運が悪ければ「死ぬかもしれない」と思っていたのに、彼女の意見を否定しないことは、死を助長したのと同じなのだろうか。彼女の考え方を尊重し、自然な形を選択することが、本当は悪いということなのか。出生児には、自己決定権はない。本人の意思も確認のしようがない。その子の生に対する意思とは無関係に、何らかの決定を下さねばならないのである。
死刑を認めるべきか、人工授精や体外受精を認めるべきか、尊厳死を認めるべきか、…生と死に関するさまざまな問題があって、それぞれに色んな考え方ができるのではないかと思う。そうしたテーマでは、他の意見―通常は主に自分の反対意見―への嫌悪感や反感などよりも、対立する側の人の立場になってみようとする共感性?というか感情移入?のようなことが最初に必要で、それでも自分の意見選択が変わらなければ、そこから先はどこまで行っても平行線を辿るように思える。どれほど当事者たちから「気持ちを理解してくれ」とか「なぜわからないんだ」という疑問を投げかけられても、問題の当人にはなれない。実際になってみるまでは、わかりっこないのである。死ぬ直前には走馬灯のように記憶が蘇るかどうかなんて、その時を迎えるまでは誰にも判らないのである。あくまで架空の世界というか、頭の中で想像してみるしかないのである。できるだけそこに近づけるように、「自己への投影」のようなことをやってみるくらいしかないのだ。
法律を作ったり、何かの制度として政策を決めるのであれば、作るか作らないかという選択は必要になる。その時、活用できる資源は無限ではないので、人もお金も現実的な有限範囲でどうにか配分する以外にないのである。比較そのものが可能かどうか判らないのであるが、1人に大金をかけた方法を考えるか、1人当たりは少なくして多くの人に広く配分できるような方法を考えるのか、それはどこかの水準で線引きをして決めねばならないのである。
全員が心の強い人たちばかりではないので、戦い続けられない人たちが出てくることを阻止することは難しいであろう。どんなに「一緒に戦おう!諦めずに立ち向かおう!」と言ってあげたとしても、脱落しないでついてこれる人たちばかりではないのである。果たしてそれを責めることができるであろうか?私には、脱落していく人たちに「どうして戦おうとしないんだ」という言葉を向けることができないのである。そこまで自分自身強くない。そういう人たちが出てくることを止めることはできないし、彼らの選択が誤りなのかどうかさえ判らないのである。ならば、自然に任せて、戦いから脱落してゆく人たちの意思を尊重する制度を考えることがあってもいいのではないかと思えるのである。制度が存在しないが故に救済されない人々が多くなってしまうなら、制度をつくるべきではないかという発想を否定できないと思う。
とても難しい問題であることは確かなので、安易に結論を出すことには反対ではあるけれども、慎重にであっても議論を行うことには意味があると思うし、意見表明すら否定するべきとは思えないのである。ある選択を「誤りである」と断定できる根拠というものが元々存在し得ないくらい難しい問題なのだ、ということに自覚的であるべきではないかな、と思う。私自身、未だに答えが判らず、迷い続けるしかないのですけれども。
立場が異なれば、考え方も捉え方も違うだろう。自分が全ての他人の心の中に入ることはできないし、全部を理解することは難しい。「その立場になったことがないのに、判ったことを言うな」とか思うことは多いかもしれないが、それを全肯定してしまえば誰とも議論が成り立たなくなる。他の人の置かれた状況や立場に理解を示して、気持ちを判ろうと努力してみて、それでも成り代われるわけではないから正確に判らないけれど、議論を始めるしかないのである。法律を考えるとか、政策を考えるという場合には、何か制度を作れば必ず弊害が表面化するであろう。制度がなければ、たとえ問題が存在していたとしても、はっきりとそれが認識されないか、覆い隠されているであろう。だから、制度化するということは、衝突を必ず生み出すということを前提として考えねばならないのだと思う。賛成する人がいれば、反対する人がいるという、極めて単純なことなのである。
もしも私が「自殺したい」という人を目の前にした時、それが自分の知らない他人であったとしても、止めるであろうと思う。まず100%近くは「待て、早まるんじゃない!」と制止すると思う。では、100%ではないのか?と問われると、自信が持てないのである。どんな場合であっても絶対に止める、とは断言するほど現実世界の全てを知らないのである。「あるがままの死を迎えさせてくれ」と懇願された時、自殺志願者の場合と同じくそれを阻止するべきなのか?この問いに、私は答えられないのである。生と死に関しては、三者三様の立場や意見があるのが普通であり、それを絶対基準で考えることはそもそも不可能としか思えないのである。あくまで、相対的な選択という結論を導くことくらいしかできないのではないだろうか。
1人の女性が、独力で自然に分娩することがもっとも自然に近く、人間本来の生き方なのだ、だから自分は病院なんかには行かずに1人で出産する、と言ったとしよう。1人で出産すれば恐らく母体死亡や新生児死亡のリスクは増大するであろう。しかし、この女性に対して、「1人で分娩するのは絶対に止めろ」と命ずる権利は誰かにあるであろうか?この女性が1人で分娩することを知りながら、それを阻止しなかった場合、自分の責任はどうなるであろうか。万が一、生まれた子が死亡してしまったりすれば、自分はその子の死を幇助したことになるのだろうか。運が悪ければ「死ぬかもしれない」と思っていたのに、彼女の意見を否定しないことは、死を助長したのと同じなのだろうか。彼女の考え方を尊重し、自然な形を選択することが、本当は悪いということなのか。出生児には、自己決定権はない。本人の意思も確認のしようがない。その子の生に対する意思とは無関係に、何らかの決定を下さねばならないのである。
死刑を認めるべきか、人工授精や体外受精を認めるべきか、尊厳死を認めるべきか、…生と死に関するさまざまな問題があって、それぞれに色んな考え方ができるのではないかと思う。そうしたテーマでは、他の意見―通常は主に自分の反対意見―への嫌悪感や反感などよりも、対立する側の人の立場になってみようとする共感性?というか感情移入?のようなことが最初に必要で、それでも自分の意見選択が変わらなければ、そこから先はどこまで行っても平行線を辿るように思える。どれほど当事者たちから「気持ちを理解してくれ」とか「なぜわからないんだ」という疑問を投げかけられても、問題の当人にはなれない。実際になってみるまでは、わかりっこないのである。死ぬ直前には走馬灯のように記憶が蘇るかどうかなんて、その時を迎えるまでは誰にも判らないのである。あくまで架空の世界というか、頭の中で想像してみるしかないのである。できるだけそこに近づけるように、「自己への投影」のようなことをやってみるくらいしかないのだ。
法律を作ったり、何かの制度として政策を決めるのであれば、作るか作らないかという選択は必要になる。その時、活用できる資源は無限ではないので、人もお金も現実的な有限範囲でどうにか配分する以外にないのである。比較そのものが可能かどうか判らないのであるが、1人に大金をかけた方法を考えるか、1人当たりは少なくして多くの人に広く配分できるような方法を考えるのか、それはどこかの水準で線引きをして決めねばならないのである。
全員が心の強い人たちばかりではないので、戦い続けられない人たちが出てくることを阻止することは難しいであろう。どんなに「一緒に戦おう!諦めずに立ち向かおう!」と言ってあげたとしても、脱落しないでついてこれる人たちばかりではないのである。果たしてそれを責めることができるであろうか?私には、脱落していく人たちに「どうして戦おうとしないんだ」という言葉を向けることができないのである。そこまで自分自身強くない。そういう人たちが出てくることを止めることはできないし、彼らの選択が誤りなのかどうかさえ判らないのである。ならば、自然に任せて、戦いから脱落してゆく人たちの意思を尊重する制度を考えることがあってもいいのではないかと思えるのである。制度が存在しないが故に救済されない人々が多くなってしまうなら、制度をつくるべきではないかという発想を否定できないと思う。
とても難しい問題であることは確かなので、安易に結論を出すことには反対ではあるけれども、慎重にであっても議論を行うことには意味があると思うし、意見表明すら否定するべきとは思えないのである。ある選択を「誤りである」と断定できる根拠というものが元々存在し得ないくらい難しい問題なのだ、ということに自覚的であるべきではないかな、と思う。私自身、未だに答えが判らず、迷い続けるしかないのですけれども。