これを読んだら、うむむとなったので、自分のメモがてら。
>はてなブックマーク - 僕を困惑させるラインハート=ロゴフ - Irregular Economist ~hicksianの経済学学習帳~
政府債務と低成長の関連は必ずしも因果関係が特定できているわけではない、というクルーグマンの見方に賛同できる。例えば、輸血しているケースを集めてくると、かなりの出血量となっていることが殆どである。それは、輸血したので出血が膨大になった、ということを必ずしも意味しない(部分的には凝固因子の相対的減少によって出血し易くなる、という危険性は存在しうる)。通常であれば、出血が多かったので輸血した、という結論になるであろう。原因を探るのは、容易ではないということなのではないか。
さて、政府債務が増大するのは何故なのだろうか。これについて考えてみたい。
今、森があるとする。ここには、おいしい実があって、人々はこの実を獲りに行きたい、ということであるとしよう。我先に実を獲りたい、と。
だが、この森には古くから「人喰い熊」がいる。長老たちは、代々の言い伝えで森に入る戒めとしてきた。しかし、ある時、大勢の人が森に入ってはおいしい実を獲得することに成功した。誰も人喰い熊には出会わないし、見た者もいない。そうすると、かつてあった戒めは軽んじられ、安易に森に入っては多くの実を得るようになってしまった、と。以前には、慎重で熊の気配を読むことに長けた者だけが森に入ることを許されたのに、今では誰でも彼でも入って獲るようになっていた。
すると、遂に人喰い熊が大暴れする時がやってきた。森に入っていったものが次々と帰ってこなくなり、命からがら逃げ帰った者が「熊に襲われたっー!」と食いちぎられた腕から血を流しながら、みんなに訴えた。大勢が被害に遭った。命を失った者ばかりではなく、足を食いちぎられた者、目をえぐられた者、恐怖のあまり気がふれた者、…。もう以前のように、森に入っておいしい実を獲ってこようという人間は、殆どいなかった。けれど、おいしい実を食べなければ生きて行けない。誰かが実を獲ってこなくちゃならないのだ。
なのに、みんなは口ぐちにこう言った。もう二度とあの森には入りたくない、と。誰も、自分が被害には遭いたくないからだ。それに、手足を失ったり、重傷を負った者たちは傷が癒えてなければ動くに動けない。だから、おいしい実を獲りに行ける人間の数が激減してしまったのだ。
こういう時に役立つのが「からくり人形」だ。この人形はガバメントといい、遠隔操作できる人形だから、人間みたいに痛みを感じない。熊に出会ってもへっちゃらだ。熊の一撃を食らえばダメージを受ける可能性はあるけれど、生身の人間の比ではない。からくり人形の部品は各個人が共同で負担するから、責任はみんなに分散し均等化できるというメリットもある。弱点といえば、生身の人間に比べて機敏に動けないとか、鈍くさいとか、時にはおいしい実ではなく無関係な木の枝や葉っぱを獲ってきてしまって、「使えねーな」と罵られたりすることがあることだ。けれど、熊に喰われるよりはいい。そうして、多くの人々は「からくり人形が行って獲ってこい」ということを求めることになるわけだ。
つまり、人喰い熊に大打撃を受けた後では、多くの人々が森に入るのを回避しようとすること、痛みや恐怖を感じない「からくり人形」に多く獲りに行かせようとすること、人形の責任はみんなに分担されているので各個人の負うリスクは自分が獲りに行く場合に比べて小さくできること、といったことがあるだろう。
経済危機で大打撃を受けた後に、投資主体が政府に傾くようになるのは、これと似たようなものではないだろうか。大勢の人々が懲りすぎてしまって、自らリスクを回避しようとしてしまう、それも過剰なまでに、ということかな、と。
これこそが、「羹に懲りて膾を吹く」症候群(今、適当につけただけだけど)なのではないか、と。
ただし、若干の気になる点というのもある。
一つは、打撃を受ける以前から政府負債がある程度大きい場合、経済危機に陥ったからといって発動可能な政府投資の制約ができてしまうかもしれない、ということである。同じ年収の人であっても、1000万円の住宅ローンしか抱えていない人と、その他に銀行借入3000万円と消費者金融に500万円の借金がある人を比べると、どちらに融資したいか、ということである。
いくら「今は株式相場が底値なのできっと儲かるはずだから、3000万円貸して下さい」と言っても、もとから膨大な借金がある人には貸せる余地が小さくなるのではないかな、ということ。1000万円の住宅ローンしかない人には「3000万円貸すよ」ということが可能でも、更に3500万円の借金を抱えている人には「3000万円は無理だから300万円にしておいて下さい」ってことになってしまいかねないのではないか、ということだ。財政支出の発動余地が狭まる、というのは、3000万円が300万円と小さくなってしまうんじゃないか、というようなことである。発動余地が小さければ、その効果もそれなりに小さなものしか期待できないかもしれない、と。そうすると、結果的に打撃を受けた後の低成長ということが起こってしまうかもしれない。
もう一つは、フローの政府支出という話ではなく、ストックとして見た場合にどうなんだろうか、ということである。ある社会では、順調に成長を積み重ねてきたので、不況の回数が少なくて済んだとしよう。そうすると、政府が財政出動する機会がそんなに多くはないので、政府債務の積み上がりが小さくて済む、ということである。別な社会では成長が不安定で、度々不況に突入してしまった、としよう。そうであれば、不況期には投資主体が減少してしまうので、代りに政府が投資を増やしたりすることになるわけである。これの回数や規模が大きいのであれば、結果として政府債務の積み上がりが多くなってしまい、借金の多い政府ということになってしまうわけである。
すると、この2つの社会を比較してみた時に、前者は相対的に高成長の社会、後者は低成長社会となっているであろう、と。単純化して言えば、給料が順調に上がってきた人は借金をする機会が少なく済むので債務残高は小さく、給料が上がったり下がったりと不安定で給料の額がさほど高くなってきていないのであれば、ついつい借金する機会は多くなりがちで債務残高は大きいのではないだろうか、という話と似ているかもしれない。
しかし、現在持っている借金が他の人よりも多額だからといって、必ずしも将来の給料が他の人たちより低いのか、というと、それは言えないかもしれない。けれど、既に借金が多い人であると、何か新規事業をやる為に投資をしたいと思っても、借入額に制約がついてしまうかもしれないので、そうすると第一の点に戻って借入して投資可能な余地というのが限られるかもしれない。
政府支出は個人とは違うので、こういった通常の金銭感覚みたいなものが当てはまるかどうか、というのは定かではない。金の出し手(通常は国民や国債を購入する投資家)がそうした感覚を持たないのであれば、投資対象と金額だけを評価して金を出すかどうかを決めてくれるかもしれない。過去の債務残高には目を瞑ってくれる、ということだ。というか、そちらを見ないで評価してくれないと、政府支出の殆どはダメってことになりかねない、ということもあるかも。
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政府債務と低成長の関連は必ずしも因果関係が特定できているわけではない、というクルーグマンの見方に賛同できる。例えば、輸血しているケースを集めてくると、かなりの出血量となっていることが殆どである。それは、輸血したので出血が膨大になった、ということを必ずしも意味しない(部分的には凝固因子の相対的減少によって出血し易くなる、という危険性は存在しうる)。通常であれば、出血が多かったので輸血した、という結論になるであろう。原因を探るのは、容易ではないということなのではないか。
さて、政府債務が増大するのは何故なのだろうか。これについて考えてみたい。
今、森があるとする。ここには、おいしい実があって、人々はこの実を獲りに行きたい、ということであるとしよう。我先に実を獲りたい、と。
だが、この森には古くから「人喰い熊」がいる。長老たちは、代々の言い伝えで森に入る戒めとしてきた。しかし、ある時、大勢の人が森に入ってはおいしい実を獲得することに成功した。誰も人喰い熊には出会わないし、見た者もいない。そうすると、かつてあった戒めは軽んじられ、安易に森に入っては多くの実を得るようになってしまった、と。以前には、慎重で熊の気配を読むことに長けた者だけが森に入ることを許されたのに、今では誰でも彼でも入って獲るようになっていた。
すると、遂に人喰い熊が大暴れする時がやってきた。森に入っていったものが次々と帰ってこなくなり、命からがら逃げ帰った者が「熊に襲われたっー!」と食いちぎられた腕から血を流しながら、みんなに訴えた。大勢が被害に遭った。命を失った者ばかりではなく、足を食いちぎられた者、目をえぐられた者、恐怖のあまり気がふれた者、…。もう以前のように、森に入っておいしい実を獲ってこようという人間は、殆どいなかった。けれど、おいしい実を食べなければ生きて行けない。誰かが実を獲ってこなくちゃならないのだ。
なのに、みんなは口ぐちにこう言った。もう二度とあの森には入りたくない、と。誰も、自分が被害には遭いたくないからだ。それに、手足を失ったり、重傷を負った者たちは傷が癒えてなければ動くに動けない。だから、おいしい実を獲りに行ける人間の数が激減してしまったのだ。
こういう時に役立つのが「からくり人形」だ。この人形はガバメントといい、遠隔操作できる人形だから、人間みたいに痛みを感じない。熊に出会ってもへっちゃらだ。熊の一撃を食らえばダメージを受ける可能性はあるけれど、生身の人間の比ではない。からくり人形の部品は各個人が共同で負担するから、責任はみんなに分散し均等化できるというメリットもある。弱点といえば、生身の人間に比べて機敏に動けないとか、鈍くさいとか、時にはおいしい実ではなく無関係な木の枝や葉っぱを獲ってきてしまって、「使えねーな」と罵られたりすることがあることだ。けれど、熊に喰われるよりはいい。そうして、多くの人々は「からくり人形が行って獲ってこい」ということを求めることになるわけだ。
つまり、人喰い熊に大打撃を受けた後では、多くの人々が森に入るのを回避しようとすること、痛みや恐怖を感じない「からくり人形」に多く獲りに行かせようとすること、人形の責任はみんなに分担されているので各個人の負うリスクは自分が獲りに行く場合に比べて小さくできること、といったことがあるだろう。
経済危機で大打撃を受けた後に、投資主体が政府に傾くようになるのは、これと似たようなものではないだろうか。大勢の人々が懲りすぎてしまって、自らリスクを回避しようとしてしまう、それも過剰なまでに、ということかな、と。
これこそが、「羹に懲りて膾を吹く」症候群(今、適当につけただけだけど)なのではないか、と。
ただし、若干の気になる点というのもある。
一つは、打撃を受ける以前から政府負債がある程度大きい場合、経済危機に陥ったからといって発動可能な政府投資の制約ができてしまうかもしれない、ということである。同じ年収の人であっても、1000万円の住宅ローンしか抱えていない人と、その他に銀行借入3000万円と消費者金融に500万円の借金がある人を比べると、どちらに融資したいか、ということである。
いくら「今は株式相場が底値なのできっと儲かるはずだから、3000万円貸して下さい」と言っても、もとから膨大な借金がある人には貸せる余地が小さくなるのではないかな、ということ。1000万円の住宅ローンしかない人には「3000万円貸すよ」ということが可能でも、更に3500万円の借金を抱えている人には「3000万円は無理だから300万円にしておいて下さい」ってことになってしまいかねないのではないか、ということだ。財政支出の発動余地が狭まる、というのは、3000万円が300万円と小さくなってしまうんじゃないか、というようなことである。発動余地が小さければ、その効果もそれなりに小さなものしか期待できないかもしれない、と。そうすると、結果的に打撃を受けた後の低成長ということが起こってしまうかもしれない。
もう一つは、フローの政府支出という話ではなく、ストックとして見た場合にどうなんだろうか、ということである。ある社会では、順調に成長を積み重ねてきたので、不況の回数が少なくて済んだとしよう。そうすると、政府が財政出動する機会がそんなに多くはないので、政府債務の積み上がりが小さくて済む、ということである。別な社会では成長が不安定で、度々不況に突入してしまった、としよう。そうであれば、不況期には投資主体が減少してしまうので、代りに政府が投資を増やしたりすることになるわけである。これの回数や規模が大きいのであれば、結果として政府債務の積み上がりが多くなってしまい、借金の多い政府ということになってしまうわけである。
すると、この2つの社会を比較してみた時に、前者は相対的に高成長の社会、後者は低成長社会となっているであろう、と。単純化して言えば、給料が順調に上がってきた人は借金をする機会が少なく済むので債務残高は小さく、給料が上がったり下がったりと不安定で給料の額がさほど高くなってきていないのであれば、ついつい借金する機会は多くなりがちで債務残高は大きいのではないだろうか、という話と似ているかもしれない。
しかし、現在持っている借金が他の人よりも多額だからといって、必ずしも将来の給料が他の人たちより低いのか、というと、それは言えないかもしれない。けれど、既に借金が多い人であると、何か新規事業をやる為に投資をしたいと思っても、借入額に制約がついてしまうかもしれないので、そうすると第一の点に戻って借入して投資可能な余地というのが限られるかもしれない。
政府支出は個人とは違うので、こういった通常の金銭感覚みたいなものが当てはまるかどうか、というのは定かではない。金の出し手(通常は国民や国債を購入する投資家)がそうした感覚を持たないのであれば、投資対象と金額だけを評価して金を出すかどうかを決めてくれるかもしれない。過去の債務残高には目を瞑ってくれる、ということだ。というか、そちらを見ないで評価してくれないと、政府支出の殆どはダメってことになりかねない、ということもあるかも。