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防衛大綱の攻防

2004年12月05日 01時06分51秒 | 防衛問題
新防衛大綱は財務省の削減案に対して、防衛庁が激しく抵抗しているようです。今までの記事(防衛関係参照)にも述べてきましたが、私は財務省を支持しています。決着がつかずに閣議決定が延びていますが、次の記事を見つけました。




asahi.com(12/2)の防衛大綱に関する記事を抜粋します。



「新大綱」装備決着へ 戦車と主要火砲は三分の一削減


 今後の防衛力のあり方を示す新しい「防衛計画の大綱」の策定をめぐり、1日までの財務省と防衛庁の調整で(1)戦車と主要火砲の量を現大綱から約3分の1削減する(2)戦闘機についても約50機削減する――など主要装備では一部を除いて決着する方向だ。しかし、財務省が大幅削減を求めている陸上自衛隊の定数については溝が埋まっておらず、閣議決定の日取りが見えない状態が続いている。

 防衛庁は9月に陸海空3自衛隊の編成や装備の素案をまとめ、財務省と調整を続けてきた。財務省は当初、「日本への本格的侵攻の可能性は低い」ことを理由に北海道の4個師・旅団を1個師団に統合するなど、部隊編成にまで踏み込んだ案を提示。陸自定数を現大綱(16万人)から4万人削減を求めた。これに対し防衛庁も陸海空の各幕僚長が財務省へ直接説明に乗り出すなど、異例の展開を見せてきた。

 先月29日には防衛局長と主計局次長が「妥協案」を持ち寄って協議。財務省が新大綱の「別表」に盛られる主要装備量については、戦車約600両、護衛艦約45隻、戦闘機250機などとする案を提示。これを軸に最終調整をしている。

 しかし、財務省が防衛予算の抑制・削減のうえで重視している陸自定数をめぐっては、財務省は14万人、防衛庁は16万人まで譲歩したが、なお2万人分の開きがある。30日深夜に防衛事務次官と主計局長とが協議したが、溝は埋まらなかった。

 対立が先鋭化しているのは、新大綱に併せて今後5年間の防衛力整備目標・予算総額を定める「中期防衛力整備計画」(中期防)をめぐる攻防が絡んでいるからだ。予算総額をめぐり防衛庁が「ミサイル防衛導入で防衛費増はやむを得ない」と主張。これに財務省が「伸び率をマイナスにすべきだ」と反発しており、大綱別表と中期防の予算総額をめぐる綱引きが続いている。





防衛庁の策定する防衛政策には理念が感じられない。今後自然減少する陸自隊員を敢えて補充しなければ削減は困難ではないであろう。BMD構想を優先するのであれば、他を削減するしかないことも分かるはずである。単に予算総額を守り抜きたい、防衛庁の権益を確保したいという思惑が見え見えである。現実に現在陸自の常備自衛官が14万7千くらいであるから、この実数に近づくだけであるのに譲歩できないというのも理解不能である。

財務省はよく防衛庁の抵抗に耐えて、ここまでの数字にしたと思う。当初案の方が良かったのですが、防衛庁が「異例の抵抗」を示したとのことです。

官僚は制度に負けるのか4

2004年12月04日 13時54分02秒 | 行政制度
続きです。あまり時間が取れなくて遅れてしまいすみません。
少ししか進めませんでした。


不正について

buuさん
・一つ目には給料が安いこと。二つ目には評価の幅が少ないこと(やってもやらなくても一緒。またキャリアとノンキャリの身分差別も関与しています)。三つ目として公務員も人の子であるということ。四つ目が社会環境がそれを許してきたこと。
・犯罪のない社会などはこの世にはほとんど存在しないわけで、全てが正当に、というのは無理
・公務員だけ体質改善、これはかなり難しい
・厳罰をもって対処する


・仕組みを悪用すれば色々な不正・不当行為をすることも可能
・組織体質というか風土なのではないか、そして業務評価(執行された結果の)が正しく行われないからではないのか

内部の意見としては、ちょっと驚きました。問題の根が深いということでしょうか。現状では自浄作用に期待するのが困難ということであるということなのでしょうか。体質改善は期待できない、ということのようです。あとは、職業倫理を守れない人も中には存在するようなので、それを内部的に指摘して(ひどければ告発するとか)改善できないものなのでしょうか。私は原因論的に考えていましたが、原因除去という立場からではうまくいかないのかもしれません。検査機能という視点からでは、無くすことが困難ということでしょう。


例えば検察官、裁判官、旧国立病院の医師や国立大学の研究者等は給与体系に多少違いがありますが同じように国家公務員でした(国立病院・大学は独立行政法人になってしまいましたが)。彼らが、飛びぬけて高い報酬を得ていたとは考えていません。教育水準も高いですし個人の能力としても優れた人達であろうと思っています。そういう人達が、給料が安いという理由で官僚ほど不正を働いているとは思っていません。出現頻度を調べたわけではないので、分母が違うのかもしれませんが。

「給料が安い」ことを第一の理由に挙げておられますが、通常40歳の検事や国立病院医師がおっしゃられているようなレベルの高給取りとは言えないでしょう。国立大学の教授になれるのは、一部署だけで見ると15~20年に1人くらいの割合と聞いたことがあります。国立病院長といえども年俸3千万円などということはないでしょう。報酬が自分の考えよりも安いからといって、不正な権限行使をする人達が多いとは思っていません。それとも官僚の方が志の低い人の割合が高いということでしょうか?

そういう自分の報酬の多寡によらず、正当に遂行しようとする意志と信念を持ち、人々のために役立っておられるからこそ、尊敬でき信頼できるのであろうと思っています。当然ながら皆が聖人君子とも思ってはいませんが、少なくとも私の中では政治家や官僚に比べるとはるかに信頼できる人達であると考えています。

もしも、一般論として官僚達は、自分の能力が優れているにもかかわらず、それが正当に評価されないばかりか薄給にあえいでいるので、業務を正当に行う動機を失う、というご意見ならば、官僚達の特権階級的意識が強いと思うし、多くの国民に理解されるものではないと感じます。真に個人が考える能力に見合った妥当な報酬を求めたいならば、最初から官僚を選択しなければ済む事です。

私の意見としては、官僚の意識改善を図ってもらうことが最も効果的だと考えます。特別な制度や仕組みも必要なくできますし。個人の意識が変われば組織としても変わっていけるのではないかと思っています。


官僚は制度に負けるのか3

2004年12月04日 09時46分02秒 | 行政制度
buuさんからのTBがありました。また記事に書いてみます。


今までの印象では、官僚経験を有しておられるということで内部からの視点というように感じます(当たり前なんですが)。
私は部外者というか一国民として危惧しているというだけですが、buuさんは実情を知る者として単なるバッシングではなく意義のある制度改革を政治的手段を用いて行うべきである、というような意志であろうかと思います。これに賛同できないというものではありません。私の過去の記事に書いてきたことは、現在ある国家公務員制度の中で、官僚に組織改革―主として意識改革ですね―を求めるものであったし、個々の事例について検討してきました。今回のような意見交換によって、制度自体というか行政の持つシステムについて考える機会になったことは意味があります。


どのように書くのがいいのか判りませんが、今まで自分の主張を書いてきましたから、少し整理してみようと思います。


今までの記述に基づいて、いくつか論点を整理してみます。


行政に関する訴訟

buuさん
・国民の「面倒だから行政に関する訴訟をしない」という考え方の延長線上に今の日本が存在する
・個々で訴訟する必要がなく、NPOをつくることもできる
・少なくとも自分はやらない、細かい不正にそれほど興味を持っていないから

私  
・行政側が行う決定そのものの正当性について、一般人は調べられないし検証することもできず、方法論としては、やはり訴訟以外ありません
・訴訟に関わる個人的労力よりも行政の一件の決定についての法的評価を優先すべし、ということが本当に一般国民に認識されているとは思わない
・裁判所に出廷するため仕事を休んだり、訴訟費用を結審まで払い続けたりは到底できないので、私はしない
・オンブズマンとか多人数の原告団とかが訴訟を起こしていることを知っているが、国民がぞれぞれ裁判所での判断を仰ぐことは非効率的である
・国民が個々に訴訟する以前に、会計検査院という行政上の検査システムが存在する

訴訟に関しては主張が異なっております。

私の意見は、一般個人が正当性の検証をするには訴訟という手段しかないが、現実には無理であろうと考えており、本来その役割は検査院が担うべきものである、というものです。

buuさんの主張は文脈から見て、「個人で行う必要はないが、NPO等の組織をつくりそこから訴訟を提起し行政が行う決定についての正当性を検証すべきである」、ということであろうと解釈しますが、違っていたらお考えになっている訴訟に関する見解を記して頂きたい。

網羅的に訴訟するのでしょうか。例えば、補助金適正化法第7条第2項規定の適用事業か?、農業用水路整備事業の工事についての単価は合理的価格設定か?、年金保険料の徴収システムの契約額は適正か?、~~村に対する基地周辺対策費は適正額か?、~~協会への補助金事業は正当か?、~~事業に関する調査費は必要か?、~~センターの建設費は適正額か?、~~薬の保険適用外は正当か?、等々たくさんあると思いますが、検証は容易ではありません。相当の専門的知識を有していて開示請求すべき文書を知っており、かつ開示された情報を検討し、不当事項を探して訴訟となるわけで、現実的には多くの国民は実行できないのではないかと予想します。

オンブズマン等の市民団体やNPO組織に殆どの有権者は参加して行動すべきである、という主張でしょうか。仮にbuuさんが提訴するとしたならば、「細かい不正」ではなく何についての訴訟なのでしょうか?

勝手な解釈を付与するとすれば、「国民が行政についての理解を深める労力を惜しまず、日常から行政の決定に関心を持って正しい判断ができるようになるべきである」、「こうした判断に基づいて投票という権利を行使してほしい」というような趣旨ではないかと思いますが。



行政の権限について

buuさん
・立法府の能力不足
・省庁から立法業務を奪うことに異論はありませんが、その時の代替案はあるか?



・実質的には省庁内で法律に基づき各種の決定を行い、自分達でそれを運用し、不当かどうかを自分達で決めているようなもの
・評価がない為に、業務に関わる決定権等の権限を有する官僚達個人が権限を誤って行使したとしても、正されることがないか不正を働いて見つかってしまうことがあるかぐらい
・法令の解釈・運用・決定(適用)の全ての権限を省庁の官僚が有するという状況が、業務の効率性や正当性の評価がなされないまま行政が執行されていく要因となってしまっている

この点に関しては、buuさんの指摘や主張が少ないので真意は図りかねますが、「立法府の能力不足」は間違いないということでしょう。具体的にどの様な点について改善すべきかは主張がないのでわかりません。議員個人の能力についてなのか、制定される法律の不備なのでしょうか。

私は、権限行使の評価がないことが不備であると考えています。法令解釈に関しては官僚が有することは容認できますが、それに関しても最終的な決定後に正当性について評価する必要があると思います。

主張にズレがありますが、対立点は見出せません。もし、違う主張であればご意見をお願いします。



検査システムについて

buuさん
・費用対効果の問題
・公務員の不正を監視するためにかなりの努力を払っていた(所属していた所では)
・行政府の機能不全を防ぐ役割は当然立法と司法で実施すべきで、同時に「世論」という手段もあるが、きちんとした情報収集と理論武装が必須


・会計検査院が検査を実施しているが、当然全てを網羅できるわけではない
・問題を放置している内閣に問題があるのか、提出された検査院報告を安易に承認する立法府である国会(議員さんたち)の能力不足なのかはわからない
・現実問題として検査院が全てを検査することは困難で、省庁間との信頼関係に依存する部分が当然ある

効率的に検査を行うことは難しい問題ですが、私は検査院の機能に期待したいと思います。評価機能を有していることと、憲法に制定されているようにその存在と職権は非常に有効であると考えます。ですが、実行となると現実は厳しい面がありますから、人員増を図るとかが必要かもしれません。他には、信頼関係に期待することくらいでしょうか。

buuさんは立法、司法に実施させるとして、どのような方法をお考えなのでしょうか。世論とはいわゆる「批判」というニュアンスなのでしょうか。判決のような公的権力の行使でしょうか。


まだ途中ですみませんが、残りはまた書きたいと思います。


官僚は制度に負けるのか2

2004年12月03日 18時03分47秒 | 行政制度
buuさんからTB頂きました。拙文をご紹介頂いて有難うございます。
個人の方に向けて記事を書くということは初めてですが、コメント欄では確かにうまく書けませんので、記事に書いてみたいと思います。


まず、私の当初からの目的は、社会保障制度の抜本的改革を考えるべきであるということです。これは時系列で記事を読んで頂きたく(下らない文章も多数存在しますから、嫌とおっしゃられるかもしれませんが)、国家公務員共済の謎シリーズにおいてもこの制度にどの様な問題点があるのかについて考えたものです。勿論個人的感情によって書かれている部分も多数ありますが。非難を受けるのはいたしかたがない部分もあります。これらは、国家公務員制度について批判すべきこととして書いた訳ではありません。私のような素人が考えられる、非常に局所的な部分について取り上げたものですね。他の不正ものについても、現存の官僚制度や法曹制度等について総論的な制度そのものの批判を行っている訳ではないことは記事をお読み頂ければ明白であろうと思います。



ただ、現在の行政制度を考えると、一般国民の感覚として社会的に許容しにくい部分も含まれていると思うのです。これは当然のことながら政治家や官僚等の専門家集団によって運営されている行政が、不正を生み出す構造を有しているということです。この個々に事例についてはメディア等の報道を通じて一般国民は知るわけですが、これを改善していくにはどうしたらよいのでしょう?ということになると、私個人の持てる力量では具体的に良い方法は見つかりません。思いついたことと言えば、ブログに書く事だけです。後は少しでも解る範囲で調べたり省庁に疑義照会のメールをするくらいですね。これが、私の精一杯の努力なのです。それでは国民の責任を果たしていることにはならないというご指摘をうけるやもしれませんが。


国民として行政裁判や住民訴訟の権利を有しているのではないか、とのご意見もあると思いますし、現実にそのような行動をとられておられる方々が存在することも知っております。法的な権利ですから、当然行使すべきである、と言えなくはないでしょう。ですが、心の底から「国民が個々に訴訟を起こし、行政に深く関わりを持つべき」という意見だとするならば、非常に残念に思います。訴訟に関わる個人的労力よりも行政の一件の決定についての法的評価を優先すべし、ということが本当に一般国民に認識されているとお考えなのでしょうか。本当にご自身でもそれを実行してゆくお考えなのでしょうか。私ならば仕事がありますし、何度も裁判所に出廷するため休んだり、訴訟費用を結審まで払い続けたりは到底できません。そのような財産的基盤も持ち合わせておりませんしね。たとえ訴訟で勝訴であったとしても、非常に大きな決定事項について(そういうのは多くがオンブズマンとか多人数の原告団とかが訴訟を起こしていると思いますが)ならまだしも、たった一件の旅費返還請求であったり一千万円の補助事業の正当性についてであったりしてみたところで、「国民がぞれぞれ裁判所での判断を仰ぐべし」ということがいかに非効率的であるか容易に判断できると思います。


また、現在の法体系に基づいて行政が行われているわけですし、本来ならばこの行政システムでもほぼ正しく機能できるようになっているはずです。勿論完璧ではないことはあると思いますが。例えば、行政が執行する予算については会計検査院が検査し判断することになっています。この会計検査院法第20条は次の条文です。

第20条
会計検査院は、日本国憲法第90条の規定により国の収入支出の決算の検査を行う外、法律に定める会計の検査を行う。
2 会計検査院は、常時会計検査を行い、会計経理を監督し、その適正を期し、且つ、是正を図る。
3 会計検査院は、正確性、合規性、経済性、効率性及び有効性の観点その他会計検査上必要な観点から検査を行うものとする。

これにより、本来ならば行政が執行する補助金事業であるとか全ての支出にわたって、合規性、経済性、効率性及び有効性の観点その他会計検査上必要な観点から検査しなければなりません。これは行政の評価としては、かなり厳格なものといえますし、「経済性」「効率性」「有効性」についての評価も含む訳ですから、事業の性格や妥当性についても当然審査されると考えられるのです。ですから、国民が個々に訴訟する以前の問題であって、このような検査が正しく実施されていれば多くは改善できうるものなのです。これが本来持っている行政のシステムであるのですね。ところがこのようなシステムがあっても十分機能していないという面があります。これは、検査院の人員数の問題であるとか各省庁との力関係や検査に対する抵抗(警察庁は「検査マニュアル」を配布していたという報道がありました)などが要因としてあるのかもしれません(推測ですが)。



この機能不全を防ぐためにはどうしたらよいのかということになりますと、ご指摘があるようにこうした問題を放置している内閣に問題があるのか、提出された検査院報告を安易に承認する立法府である国会(議員さんたち)の能力不足なのかはわかりません。どこにどうアプローチすると改善されるのかは、専門家ではない私個人にはわかりません。


翻って、このような機能を有している行政府ではありますが、現実問題として検査院が全てを検査することは困難ですから、あとは省庁間との信頼関係に依存する部分が当然あると思います。もしも官僚が全員「善良な管理者」であって個々の能力を適正に発揮するならば、部分的に指摘される事項があったりするかもしれませが、多くは適正に運営されるのではないか、と思っているのです。それは、行政府の業務を担う各個人が、全員「悪意の管理者」であるとは考えていないからで、大多数は優秀な良き人々であることは想像に難くない。そうであるが故に現在のシステムで不正を生じてしまうことが残念であるし、一般人としては疑問に思うところなのです。何故起こってしまうのか?以前の記事にも書きましたが、それが組織体質というか風土なのではないか、そして業務評価(執行された結果の)が正しく行われないからではないのかな、と。

官僚達全てが正当に業務に携わるなら、国民との間にも信頼関係が築かれる可能性は高くなると思いますから、批判は少なくなるでしょう。ですから不正をなくすことから始めるべきではないかと思います。次に国家公務員制度の問題点があれば改善する方がよいでしょうし、また検査院も含めて業務を正当に評価する仕組みをどのようにするかとか、個人の能力についても評価をどうするかとかという議論をしていくべきではないかと思うのですが。方法論とかは様々な意見もあるでしょうし、内部事情が判らない私のような人間では難しい問題も多いですからそういう点では専門家が検討する必要があると思っています。私は不当な業務委託などによって利益を生じている公益法人とか外郭団体とかとは手を切るべきであると考えていますし、不必要な組織はなくすべきであるとも思っています。こうした政策は政治的決着が必要な部分もあるでしょうから、政治家を選出している国民にも責任があると思います。政官業が天下り先や利権をせっせと作り上げてくることを看過していた、と言う意味においても同様と思いますが。


最後になりましたが、私の名前は変なんですが一応「まさくに」ということにしてあるので、呼びかけて頂けるときはこの名前でお願い致します。それと、国家公務員の不正が起こってしまうのは立法府の能力の問題であって、ひいてはこのような議員さん達を選出した国民に責があるので、国家公務員の批判などする資格はないとおっしゃられるのでしたら、残念ながらいくら議論しても平行線をたどるだけであろうと思います。官僚の不始末の責が官僚達にあるのではなく国民にあるのだという結論ならば、過半数を超える有権者が同じように変わらない限り、状況は何も変わらないという結論になってしまいますので。そしてその有権者たちが選出する国会議員の多くが賢明であって現状の行政を改善してくれることが必要ということです。



官僚は制度に負けるのか

2004年12月02日 18時07分28秒 | 行政制度
木村氏のブログに書いてみようと思い、あれこれ批判をまた書いてしまいました。勿論国家公務員を憎んでいるわけではありません。何度もお世話になっていますし・・・。優秀な人々の集団である官僚達はなぜ一般凡人の感覚とは異なるのか考えてみました。




業務の評価や動機付けという点で、人事制度の問題という側面があることは同意できる。組織の硬直性もそうした中から出てくるという指摘も理解できる。しかし、行政の業務を執行するにあたり、根本的な制度上の問題があると考えている。


現在の政治の仕組みは誰しも知っているように、民主主義です。国民が議員を投票によって選出し、国会で法律などを決定します(実質的には政権与党が決めることになります)。法律は、ある程度細かく決まっているものもありますが、政令や省令等でさらに細かい決まりを作ったりすることもあります。もっと細かい部分については、通知・通達によって行政側が決定します。あるいは、こうした通知・通達がない事項についても行政側に決定権があると考えられています。


法律は概略決まっていますが、全てを規定することは出来ません。それより詳細事項についての実務上の決定権は殆どが省庁に委ねられていると言えます。一般人はこの決定内容を全て知ることはできません(文書開示を請求すればよいという意見もありますが、この権利を行使しても当然のことながら全てを知ることができないのはご存知でしょう。行政側にも是認される合理的理由があれば拒否できるからです。開示請求を巡って裁判となることもありますが、庶民の一個人が時間と労力をかけて取り組むには難があります。また開示請求するべき文書の種類や存在を知らなければ請求できませんね)。

行政側が行う決定そのものの正当性について、一般人は調べられないし検証することもできません。方法論としては、やはり訴訟以外ありませんね。法律に基づいて業務遂行のために省庁が出した決定は、裁判所が判定する以外ないということです。予算の執行については会計検査院が検査を実施しておりますが、当然全てを網羅できるわけでもありません。抜け所はいっぱいですね(ひどい喩えを用いるなら「ザル」以下で、引っ掛かりのほとんどない筒かもしれません)。


三権分立などといくら奇麗事を言ってみても、実質的には省庁内で法律に基づき各種の決定を行い、自分達でそれを運用し、不当かどうかを自分達で決めているようなものです(やっている以上、不当などという評価は決して下さないでしょうけど)。この評価がない為に、業務に関わる決定権等の権限を有する官僚達個人が権限を誤って行使したとしても、正されることがないか不正を働いて見つかってしまうことがあるかぐらいでしょう。


例で考えることにします。国家公務員の旅費に関する規定です。これは「国家公務員等の旅費に関する法律」によって規定されています。当然法律ですから、議員さん達が決めたものですね。この議員さん達を選んだのは私たち国民です。民主主義に基づいてますね。

さて、通常この法律に従っていることが殆どですが、中には詳細規定を別に定めている部分もあります。これについては財務省令によると定められていますし、警察庁に関しては「警察庁旅費取扱規則」という総理府令(旧ですね)があります。

読売新聞に掲載されていた記事によれば(手元に資料がないので正確ではないかもしれません)、この旅費計算システムを公益法人に発注しており、各省庁によって価格がバラバラで3割くらい開きがある場合や、安価な市販ソフトと人力で対応し十分の一くらいのコストでやっている省庁もある、とのことでした。この決定権が各省庁の担当者にあるため、実質的には現場の官僚が決めることになり、この決定が妥当かどうかは評価されません。そのためこのような違いを生じるのです。

また、実際の旅費支給に関しては経理上必要な書類等の資料があって、これに基づきかつ法令に従って支払われるのですが、この決定が正しいかどうかは評価を受けることは少ないのかもしれません。一時期旅費支給に不正が見られる(いわゆるカラ出張でしょうか)ということが話題になったことがありますが、一般国民が一件一件調査するのは実質的に無理ですね(警察裏金問題でも旅費が不適切な支出となっていることが指摘されています)。

最初に示した法律の条文には次の規定があります。

第13条
旅費(概算払に係る旅費を含む。)の支給を受けようとする旅行者及び概算払に係る旅費の支給を受けた旅行者でその精算をしようとするものは、所定の請求書(当該請求書に記載すべき事項を記録した電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によつては認識することができない方式で作られる記録であつて、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。)を含む。以下この条において同じ。)に必要な資料を添えて、これを当該旅費の支出又は支払をする者(以下「支出官等」という。)に提出しなければならない。この場合において、必要な資料の全部又は一部を提出しなかつた者は、その請求に係る旅費額のうちその資料を提出しなかつたため、その旅費の必要が明らかにされなかつた部分の金額の支給を受けることができない。

要は必要な正しい資料を提出しないとその部分の旅費は支給しませんよ、という意味です。この規定は現場の担当者が決定することになり、この決定が正しいかどうかは会計検査院の検査とかがないと評価できませんね。

旅費支給という事項に関して一連の流れで考えると、法律は決まっているが省庁は別な法令を付与したり、計算システムの発注権限を行使したり、法令で規定されている支給規定を自分達で解釈し運用して支給決定する、ということです(社会保険庁のシステム発注も似たようなもので、妥当性については評価がないままでしたから106億円もの契約外の無駄が指摘されることになるわけです)。
カラ出張であるとか13条規定とかの適用は実質的に担当者が決定してしまうので、通常はこの決定の正当性は会計検査院に検査されるか、裁判によってこの決定について争うかしかありませんね(たとえこのような行政システムであっても、各個人が正当な業務を行い権限を適正に行使すれば正常に機能し得ると思いますが)。


こうして、法令の解釈・運用・決定(適用)の全ての権限を省庁の官僚が有するという状況が、業務の効率性や正当性の評価がなされないまま行政が執行されていく要因となってしまっているのではないでしょうか。
この例では旅費について見てみましたが、補助金などでも結局似たような仕組みになっています。このような仕組みを悪用すれば色々な不正・不当行為をすることも可能なのです。最近のいい例が「監修費」ですね。
これらの悪用が果たして人事制度の不備に依存するようなものなのかは不明です。また、権限を行使する各個人の資質によるものかも判りません。私は行政制度の研究者でもありませんし、官僚経験もありませんので。専門的知識を有しない愚民の1人ですから。


国会議員は官僚出身者や法曹出身者が多いそうです(一般社会の存在割合に比べてということでしょう)。そーですよね、優秀な人材が揃っていて、一般人よりも頭も良く難しい試験に合格した人達しかいない訳ですから、私どものような一般の愚民とは当然違います。そういう立派な賢い人達だから国民の信任を得て多数国会議員になられているのでしょう。
本当に賢く誠実で正義感や責任感溢れる人達ならば、実情に詳しい官僚出身者の議員の方々が悪しき人事制度があるために行政の著しい障害や不正の温床になると認識するでしょうし、彼らが率先して議案をつくるなり、抜本的改革のための法律や政策を作っていくべきでしょう。それができないような無能な官僚出身者の議員を選挙で多数選んだのは国民が愚かだから、国民がその責任を有するのかもしれません。或いは上述した仕組みのどこにも客観的評価ができる法律なり制度を作れない立法府が役立たずということでしょうか?それとも会計検査院が全てを検査していないことが悪いのでしょうか?業務を担当している個人の資質依存性に、人事制度の壁によって倫理観を喪失させられて不正を働いたり、非効率的業務を平気で許容できるように変わっていくのでしょうか?私にはさっぱりわかりません。

国家公務員の改革法は確かに出来ましたが、これで霞ヶ関は「良くなるね」と思っている現職の官僚達はどれほどいるのか聞いてみたいです。

本当にこうした改革が実効性を持つには、一般国民はどう考え行動したらよいのでしょうか?
全然わかりません。

今日の妻3

2004年12月01日 16時31分49秒 | 俺のそれ
このシリーズはどうかと思うのですが、好評につき(本当かよ?)またちょっと書いてみます。勿論妻には内緒です。




昨日夜にテレビ東京系でやっている「ワールドビジネスサテライト」を妻と一緒に見ていました(我が家ではこの番組は人気で、よく一緒に見ているのです)。新製品や企業情報などが多く、結構楽しめるのです。番組途中でオージービーフの取り組みみたいなのが紹介され、パーティ会場みたいな所でオージービーフ試食会みたいなのが開かれている模様が映像で伝えられていました。その中で乾杯シーンがあり、一人の女性が乾杯の音頭をとってグラスを掲げていました。

私はその人が誰か知らなかったのですが、妻曰く、「あっ、くりはらはるみさんだ」とか言うので、内心「なにっ?」と思い妻を見てしまった。株式取引をしていて経済番組には人一倍興味を持つ私が知らない、今まで見たこともない財界人(このときはどこかの会社の女社長か?と思っていた)を、ウチの妻が知っているとはどういうことだっ?と焦りました。

本当は、そんなには驚いてないけど。
でも、思わず「すごーい」と言ってしまった。
「誰?それ」と聞くと、「ああ、料理研究家」と。
あっさり言われてしまい、ガクッ。
なんだ、そうか。やっぱり社長とかではないんだ(これは悪い意味ではありませんし、差別するものでもありません。ようは大きな企業の社長さんとかではないって意味で)。
その後字幕に名前が出て、やぱり正しかったんだーということになった。





妻恐るべし。やはり女性の情報網というか興味は意外で、こちらが予期せぬことを知っている。
ポイントは違うが、こういった感性も何かの役に立つのかもしれない。以前に化粧品会社に投資すべきかどうか判断するのに、意見を聞いてみたことがある。その時は「この会社の化粧品は大したことないよ。それほど人気になるとは思わないね」と言っていた。
それで株を買うのは止めたのだが、その後その会社はさほど成長してないし株価も上がらなかった。買わなくてよかった、と思った。男は泣いた(プロジェクトX風)。


変な方向へ行ってしまいましたが、結論としては、「妻恐るべし。ゆめゆめ侮るなかれ」だ。
色んな意味で気をつけよう。(何を?)これを読んだら大変なことになるだろう。間違いない!





日中関係の報道は?

2004年12月01日 15時13分45秒 | 社会全般
今までの外交問題に書いてきた記事で、非常に気になったことがあります。それは日本側の報道に違和感というか疑問を感じることが多かったということです。




ブッシュ政権確定後、少しして原潜の領海侵犯が起こりました。比較的早い段階で中国籍であることが報道され、その後の追跡状況なども報じられていました。この時期、防衛庁と財務省の防衛大綱についての交渉が続けられていたと思いますが、原潜情報の出所は主に防衛庁関係だったのではないか、と思っています。

事実を正しく伝えることは必要です。そして、国家としての対応についても議論は必要でしょう。ですが、そこにあまり客観的ではない情報や判断を、一様に報じるマスコミの姿勢は如何なものか、と思うのです。洞察したり、よく観察したりすることの方が、事態の進展を探る上で重要な場合もあるのではないでしょうか。


あくまで推論に過ぎませんが、原潜問題で防衛庁はチャンス到来と考えたでしょう。ポイントは、防衛力強化がこのような事態への対処として必要であるという先入観をもたらすことが可能であること、そしてアジアカップ等からくすぶっていた中国に対する国民感情を煽ることができること、の二点であったと思います。

このような背景がある中で、対中外交戦略が政府内に出来ていない段階にもかかわらず、単に原潜問題だけを見つめて、民主党が突っついて(他にツッコミ所が無かっただけかも)みた「海警行動発令の遅れ」とか、日本側が敢えて発言する必要のない事を質問したりするとか、中国への反発を促すような社説といったことが、報道の真の役割と考えて行っている結果なのか非常に疑問です。漏れ出てくる情報に踊らされて、情報源の意図する論調に終始するのが必要な報道なのでしょうか。




安易な憶測や推量で報道することはできないことは当然でしょうが、一次的思考で素人でも分かるような解説を付与するだけでは意味をなさないのではないかと思う。これは特に新聞においてよく考えてほしいと思います。事件があって「これはよくない。正さなければならない」ぐらいのことは、誰でも考えつくのです。そういう一面的な判断ではなく、一般人からは見えにくい事態の側面であるとか、別な解釈を併記するとかが報道する側に求められる姿勢なのではないかと思います。それが困難な状況ならば、必要以上に書き手の感情や判断を交えずに、淡々と事実だけを公表するに留めるべきです。


日中首脳会談の報道においても、胡主席との会談後の報道ではほとんどがネガティブな論調でした。あの報道をみると普通の感覚の持ち主ならば「日本と中国はやっぱり仲が悪いんだ。中国は嫌味な国だな」と思ってしまうのではないでしょうか。日本のマスコミはそんなに対立を生み出したいのでしょうか。「溝深まる」「溝埋まらず」「対立鮮明」「厳しい非難」「関係改善困難」等々、どの言葉も与える印象が否定的です。

私は既に記事に書いてきましたが、中国側が会談を受け入れたことは協調路線を選択したとみてよいと考えていたので、これほど日本の報道が悲観的なことに驚きました。このような書き方は本当に適切なのか疑問に思います。会談会場にいたわけではありませんから実際の雰囲気がわかりませんが、少なくとも対決姿勢ではなかったのではないかと感じました。そうでなければ、温首相との会談要請もしてくるはずがないのです。ですから、どのメディアも一緒ではなく、いくつかのメディアは例えば「日中対話再開か」「日中相互発展へ」「六ヶ国協議再開へ協調」などといった見出しをつけてもよいのではないかと思う。私の感想としては後者の方でしたから、今回の中国側からの温首相との会談要請は合点がいくものでした。


残念なことに今回の報道も大体同じ論調で、「靖国参拝非難」「厳しい姿勢」「参拝中止要請」といった具合でした。これも記事に書きましたが、今回中国側は直接表現は避けて、協調路線を出していたにもかかわらず、日本国内報道はこんな調子でした。「重ねて参拝中止要請」って、中国側は会談でそう言わなかったわけですから、中止要請してないのです。要請しているのは記事を書いてる記者でしょう。中国側は「対処」を求めたのであって、「中止」を要求しているのではないのです。詭弁と言われるかもしれませんが、実際にこの問題を解決しようと思ったら、中国側としても絶対「中止」などとは言えません。何か形としてはっきり分かる方法で「対処」して下さい、という意味に過ぎないのです。

今回読売新聞朝刊の見出しについては、ほぼ納得できるものであったと感じます。「靖国参拝『適切処理を』」「日中、協力姿勢を演出」というもので、実情に最も近いのではないかと考えています。このような見出しを見つけたのは、一連の報道を見ていて初めてでした。特別読売新聞の肩を持つわけではありませんが、こういう報道機関が必ず存在しないとおかしいのではないかと感じます。




大体、日本国内で靖国参拝問題について十分な議論もなされていない上に、国民はどうすべきと考えているのかも不明です。単に首相個人の問題として捉えるのではなく、日本国家としてはどのように対処すべきか検討をするべきです。もしも「靖国問題は本当に問題だ」というなら、何が問題でどこを改めるべきか考えねばなりません。A級戦犯の扱いに関しても、日本人として責任を負うということになります。逆に何も問題ないという合意が形成されるなら、何と言われようと拒否すべきでしょう。
そういう視点で国民に靖国問題を問う必要はあるでしょうが、全て中国側の主張に結び付けてこの問題を論じるのは、自分達の思想が全くないような国民であることを暴露しているようなものです。

どの報道機関も同じような論調になってしまうことは、ある意味で非常に危険な思想統制に近い状態であると思います(そんなにオーバーではないですが)。社会の健全性とは、賛成者がいれば反対者が必ず存在することだと思います(もちろん全ての事柄とは言いませんが、例えば「犯罪者に刑罰は必要ない」とか)。ほぼ全ての報道がこのような状態では、ちょっと怖い気がします。誰かまたはどこかの報道機関でもいいですから、「いや、ちょっと待てよ。そうではないのではないか?」という重みのある報道を期待したい。


温首相は温かい人?

2004年12月01日 12時04分37秒 | 外交問題
昨日は中国温首相との会談が行われましたが、情報少なくて何も書くことができませんでした(ビールで酔っ払ってしまったのが事実かもしれません)。でも、待った甲斐がありました。とても重要な発言が報道されていたからです。




速報記事は、中国外交部発表の内容をもとに書いたのではないかと思われる論調がほとんどであったと思います。ほぼ一様に「靖国参拝中止を求める、中国側の厳しい対応」といった内容でした。これは中国側の厳しい指摘が印象付けられ、日中間の対立色が際立ってしまいます。

本当にこんな内容だったのか?とちょっと疑問にも思っていました。日本の報道は、何故か論調を統一したがるような気がします。これはまた後で書くことにします。


今日になって新聞を見てみると違った印象となっていました。

読売新聞によると以下のような報道になっています。

温首相は小泉首相の靖国神社参拝に関し、「歴史にかんがみ、将来の発展を期そう。問題を適切に処理していただきたい」と参拝中止を求めた。小泉首相は「これまで参拝してきたのは、心ならずも戦争で倒れた人々への慰霊の気持ちからで、不戦の誓いを新たにするものだ」と参拝の目的を説明した。


私の事前予想は記事に書いた(「日中の相互譲歩で修復?」、カテゴリー:外交問題)のですが、中国側からは靖国問題に関して厳しい表現はないと思っていました。そんなことをするなら、会談申し入れ自体しないはずだと推測したからです。小泉首相が「靖国とは明言しなかった。暗に靖国参拝のことだと分かった」と語ったように、中国側は表現に厳しさを盛り込まず「オブラートで包んだ」ような発言であった。これは中国側の協調姿勢を日本側にはっきりと伝えてきたものと解釈する。

対する小泉首相は前回同様の「参拝理由」を述べたようであるが、これは理解を求めても中国側にとっては意味のないことであるから、発言自体すべきではなかったと思う。向こうが敢えて「靖国参拝」という言葉を用いてこなかったことに意味があるのに、こちらから「参拝」などと言うべきではなかった。原潜問題については中国側首脳は「遺憾の意」を言葉として用いていないことに何も学んでいないのかと思う。これについては何度も指摘している通りだ。
「歴史を鑑み」「問題を対処」なのだから、日本側としては「歴史を大切に思い、未来の両国発展のために国家として責任を果たしていく」ぐらいの回答でよかったのではないか。外交戦術としてはどうかと思う。小泉首相の参拝発言を受けて、日本国内の報道は「靖国問題」について「厳しい」という印象に短絡的に結びつけてしまっている。日本国内が騒げば騒ぐほど向こうに有利な材料となってしまうだけだ。


中国外交部は「靖国神社の参拝問題をうまく処理できるかどうかが両国関係の発展に直接影響する、と指摘した」と報道しているようであるが、これは中国国内の反発抑制策の継続とみてよいと思う。やはり中国国内で反日感情に配慮するのは、現在の指導部にとって必要事項と考えているからであろう。

ODAに関しては、以前の記事に書いたように、中国側はそれ程重要視していない。突然の打ち切り以外には、日中関係に影響するような事態にはならないだろう。首脳が言及する必要はなく、外務省高級官僚や大使が意向を伝えればよい。日本・中国国内いずれにおいてもニュースにしない程度の扱いが望ましい。変な理由付けをされる材料に供する必要がない。今後は段階的に縮小し、医療関係や浄水施設のような部分を残すよう考えて、他を削っていく方向でよいのではないか。5年で半減、10年以内には廃止でよいだろう。




言葉とは非常に不思議なものです。同じ出来事や気持ち等を表わす時に、どの様な言葉を用いるかによって逆の立場となる可能性があるということです。言うまでもないことなんですが。どうも日本の報道姿勢は、新たな火種を作り出すのが好きなのか?と思ってしまいます。日本国内の報道は、中国以上に靖国問題についてクローズアップし、その点だけを取り上げて「対立」気分を作り出すように思います。フォーカスがそこに向けられる、というのはいい面と悪い面が存在するわけで、客観的に公平性が保たれているかどうかが問題になると思います。

話が逸れました。報道に対する感想はまた別な記事に書くことにします。


日中関係は好転したと考えます。これは以前から主張してきた通りです。

中国側は日本と北朝鮮との関係を考慮して、外交部が早速活動を開始しているようです。六カ国協議再開への道筋をつけるよう努力するということであろう。イニシアチブを握ることと日本への土産にできる。中国が「尽力しましたよ、次は日本の番ですよ」という態度を見せつけたら、日本としても何かの「態度」を示さねばならないだろう。中国国内での説明がつくような、靖国参拝問題に対する日本の対処が必要になる、ということだ。中国を含む「戦争被害国に配慮した」と受け止められるような、何か―――いずれにしても難しい問題であることに変わりはありません。