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アメリカは副官に中国を指名したか

2007年03月19日 19時23分17秒 | 外交問題
・「ナポレオン」というカードゲーム

高校時代に仲間内で流行っていたトランプで、よくやっていたのが「ナポレオン」というゲームだった。このゲームは簡単に言うと、「ナポレオン」に立候補した人と、彼に指名された副官が協力して、できるだけ多くの絵札を集めるゲームである。副官は、例えば「スペードのエースを持っている人」というようなカードで指定するので、誰が副官なのか指名された本人以外には判らないのである。残りのプレイヤーはナポレオンと副官の行動を邪魔して、勝利条件(ナポレオンに立候補する時に切り札の種類と獲得枚数を宣言する)を阻止できればいいのである。終盤まで副官が不明であることが多いので、互いに誰が副官か疑りながら進行するのが面白いのである。使えない副官だったりすると、早々に「正体がバレて」しまい、他のプレイヤーの妨害が行い易くなったりするのである。他にも、残りの札から考えて、殆どが「ここは副官カードを出す以外有り得ない」と考える場面であってもトンチンカンな札を出したりするのである(ゲーム終了後、仲間たちからは当然不名誉な言葉を頂戴する破目になる)。心理戦というのか、周囲の人間の様子・行動を観察するといった面白さがあるゲームなので、飽きることがなかった。


・日本は副官なのか?

外交をカードゲームに喩えるのも気が引けるが、アメリカの立場がこの「ナポレオン」だとすると、「副官は一体誰なのか?」というのがそもそもの問いである。これまでの日米関係を考えると、日本がアジアにおける副官的な立場であったろう。反米派からは不満の声が上がるかもしれないが、日本が米国抜きに「日本独自の立場」を取れたのかというとそれは難しかったであろう。良くも悪くも、副官としての役割を何となくこなしてきたと言えるのではないか。

対等な立場での外交という建前論は置くとして、日本が副官的であることは多くが認めるところであろう。国際社会の中で、日本が「ナポレオン」を宣言して立つことなど無かったのであるから、残りは副官くらいしか残っていないのだけれども。それくらいアメリカのパワーが大きく強い、ということでもある。米国にとっては「アメリカと日本」という経済規模で言うと「ワン・ツー連合」で、十分なメリットがあったのである。日本から利益を巻き上げることが十分できたのである。日本は副官として、「ナポレオン」であるアメリカの為に、せっせと絵札を貢いだりしてきたのである。他のプレイヤーにしてみれば「あからさま」過ぎて、興ざめであったかもしれないが。


・アメリカの方針転換

米朝二国間協議の再開と進展具合を見てみると、米外交上において方向転換が行われたことが見えてくるであろう。政権内の勢力分布に変化があったこと(これは多くの分析があるので触れない)を考慮しても、米国の態度にはどことなくよそよそしさが見えてきている。まるでこれまで彼氏彼女としてお付き合いをしていたのに別れ話を切り出す前兆のような、或いは倦怠期に入り互いの興味も関心も薄れてきたような、そんな雰囲気である。

米国の中長期戦略において、重大な選択が行われた可能性があるのではないか。それは日本が思いのほか役に立たない副官であった、ということの裏返しでもある。アジアにおける副官指名を「日本から中国へ」シフトした、ということである。経済成長面から見ても、日本の未来よりも中国の未来に賭けた方が利益が大きい、ということを米国が認識したのではないだろうか。日本が泥沼で這いずり回っている間に中国は急成長を遂げ、将来の科学・テクノロジー・マーケット規模などを比較した時に、日本よりも中国に軍配を上げたということである。


もう1つの要因としては、国際社会で中国の役割が大きくなってきている、ということがある。それは行使可能な影響力の大きさが、欧州と引けを取らないものであり、少なくとも日本よりは大きい、という評価を下したものと見られる。単純な評価として、「政治的パワー」と「富の大きさ(=経済規模)」の両面で、日本は中国に凌駕されたと判断されたのである。

これら以外で最大の理由は、「副官を指名する特定のカード」を中国が持つに至った、と米国が考えたからであろう。かつて日本が持っていたであろうと思われる「スペードのエース」は、中国の手に移っているのである。そのカードとは何か?

恐らく「外貨準備」で大量保有されている米国債なのではないかと思われる。これまで日本が大量に保有してきたのであるが、中国がその保有高で世界一となったようである。米国にとって、これが「スペードのエース」と見えたのであろう。中国がこのカードを持つに至ったので、日本が今持っているのは「表ジャック」か「裏ジャック」くらいに格下げになったであろう(次に強いカードのこと)。このカードを実際に使う虞は今のところ有り得ないであろう。実際に使うことを考えてみると、米国を経済的恐慌状態に追い込む為に世界経済をどん底に落とすことになり、当然のことながら自国も相当大きなダメージを覚悟せねばならなくなる。言ってみれば「両刃の剣」なので、そう簡単には使えないのである。

しかし、最強の切り札であることは間違いないので、米国にとっては「匕首」を突きつけられているのと同じような心境なのである。周りが「そんな危険性はないよ」と思っているのと、米国自身が感じているのは訳が違う。日本や中国はこのカードを出してしまうと自国経済のリスクが非常に高まるので「使えない」と思っているのに、そういう「カードを他国に持たれている」ということそのものが米国にとっては「脅威」ということであり、現実に使えるかどうかは二の次なのである。旧ソ連時代の核ミサイルも同じような意味合いであった。本気で核ミサイルなど使えるはずもないのに、「相手が持っている」こと自体が脅威であって、それに対処する方策を全力で考えるのがアメリカの流儀ということなのだろう。いくら「決して弾を込めない」と言っても、「それでも銃を持っていることに変わりない」と疑うのである。いつなんどき「弾を込めて発射してみよう」と心変わりをするかもしれず、今は空の弾倉であっても「脅威」と考えるのである。

こうした米国の恐怖心を和らげる為に、先頃中国は外貨準備のポートフォリオを組むということを表明した。大量保有する米ドル資産を他の通貨に分散するので「安心して下さい」というメッセージを送った、ということである。


・日本は副官の立場を望むべきか

日本には米国との距離を離したいと願っている国内勢力があり、どちらかと言えば「アジア中心主義」のような政治的思想を持つに至っていることは、米国も認識している。それでも日本が米国から「独立を企てている」ということではないので、米国としても「期待できない日本」に「離れていかないでくれ」などと引き留めたりはしない。日本にしてみれば、これまで米国と付き合っていたのに、まるで中国に横取りされたかのような誤解を抱くかもしれないが、むしろ健全になったと言えなくもない。あまりにベッタリの関係よりも、多少距離がある方が長続きするようなものである。故に、敢えて副官に指名してくれ、というような素振りを見せてはならない。飽きのきている恋人をしつこく追いかけることは逆効果であり、かえって遠くに去って行くとかより強い嫌悪感を抱かれる結果に終わるのではないだろうか。それと同じようなものである。

これまで日本は国際社会の中で割りとハッキリ「日本が副官です」という立場を取ってきたので、他のプレイヤーたちにとっては一方的に判りやすい状況だったのである。しかし「ナポレオン」というカードゲームにおいては、誰が副官なのか判らないところにゲームの妙味があるのであり、外交においてもそれは同じであろう。互いが疑心を持ちつつ、細心の注意を払いながら他のプレイヤーを観察し、慎重に判断を下すということが、対等な立場ということなのである。「ナポレオン」当人にでさえ「副官は誰なのか判らない」のが当然なのである。従って、日本は自ら「副官である」ということを表明するのは避けた方がよく、むしろ副官を降りた方が都合が良い場合もあるかもしれない。昔は、米国が日本のことを副官として信頼しているとも言えないのに、日本が自認していただけに過ぎず、どちらかと言えば気取って「副官ヅラ」をしていただけかもしれない、ということは心の何処かに留めておいた方がよい。


・中国は副官を希望しているのか

実際のところ、米国の副官になんて「誰もなりたくない」というのが本音なのではないかと思うが、一応日本はしょうがいないけれどもやってきたという歴史がある。中国にとっては、米国は経済的なパートナーとなってくれることを望んでいるであろう。それはかつて日本が占めていた場所をとって代わり、「ワン・ツー連合」を組みたいと思うことも不思議ではないであろう。しかし政治的立場では依然大きな開きがあり、優等生クラブであるG7への正式加入はまだ遠い。しかしいずれロシアが正式加入し、その後に中国も加入することになろう。米国はこうした以前からある枠組みを利用することは拒否しないであろうし、G10くらいまで拡大するかもしれない(まさかカナダやイタリアに降りてくれ、席を明け渡してくれ、とは言えないであろうから)。基本的に旧西側体制でキリスト教圏の国(日本以外は)という枠組みは、世界を管理運営するのに利用されるであろう。

中国をここに加えるかどうかは、中国国内の政治体制の許容度によるであろう。中国以外であっても、イスラム勢力であれば勿論加入は認められないであろうし、共産主義であることが加入のハードルを上げることになるであろう。中国は今のところ、共産主義体制を捨ててまでクラブの仲間入りを目指してはいないであろう。だが、完全に見えない「副官」としてなら、うまく立ち回れるだろうし、中国にとっての利益にもなるので、「副官」に指名されたことを拒絶したりはしないであろう。

今のような経済発展を遂げている中国にも、重大なアキレス腱があることを忘れてはいけない。政治体制そのものが大きなリスクとなっているのは確かであるが、具体的な問題として情報、思想信条や宗教、市民活動などの(自由主義国に比べれば)極端な制限がこれからも継続されることであろう。経済分野での民主化に比べれば、政治的な民主化は遅れている。将来、共産党の形式的な統治形態を急には変えないとしても、中央集権体制を大きく緩め、州制のような地方分権を加速するとか、特別区域のような「比較的自由な」地域を広げていくといったことくらいしかないかもしれない。香港、上海、マカオのような都市での試行錯誤で何か結果が出てくれば、政治的激変のリスクは後退し、共産党体制を残しながら今よりは民主化が促進できる部分はあるかもしれない。万が一中国の政治的崩壊が起これば、中国の影響力に期待しすぎていると米国もしっぺ返しを食らう可能性があるだろう。


・従軍慰安婦問題は対中メッセージ

米国が北朝鮮との交渉に入る以前に、米中合意がどこかの段階まで進められたであろう。そうでなければ米朝2国間協議再開を選択はしなかったはずだ。ここでも、米国は「日本の意向」よりも中国のそれを優先することにしたのである。中国が「北朝鮮の面倒をみる」と約束したので、アメリカは中国の要請に応えて北朝鮮との交渉に応じた、ということなのだろう。金融制裁にしても、「後は”マカオ”に任せます」、つまりは「中国に預けました」ということだ。

米国が張り切って行った従軍慰安婦問題キャンペーンの意味は主に2つある。日本への牽制球と、中国への配慮である。

日本のタカ派勢力が「核保有議論」「河野発言再検討」「歴史認識」などの政治的活動を活発化したので、「やり過ぎるな」という牽制をしてきたものと思われる。この他に久間発言の影響などもあって、米国サイドで「おもしろくない」という感情は芽生えていたかもしれない。特に、シーファー駐日大使に「日本軍によってレイプされたことは遺憾で恐ろしい」と言わせた(時事通信の記事による)のは、かなり明らかなメッセージであった。戦時、平時に限らず、全世界で「米軍によってレイプされたことは遺憾で恐ろしい」のであるが、米国(或いは世界各国)でそういうキャンペーンは行われない。


<余談:
日本において、米軍によって殺人やレイプが過去にどれほど行われたのか、全世界に向けて発信することをお勧めする。国内の左翼勢力と不毛な争いをいくら行っても無意味である。右派の言論家たちは、ひたすら意味のないモグラ叩きに興じており、それを売り物にしてさえいる。内向きにばかり目を奪われてきたからである。海外メディアに言わせるという手段は、効果的であるし効率がいいのである。間違ったキャンペーンに対抗できないということは、日本の言論界が負けているということである。英字新聞のある日本の新聞社だってあるにもかかわらず、情報発信力が極めて脆弱なのである。海外メディアと喧嘩するくらいのパワーと気概を持つ日本のメディアが存在しない悲劇が、こういう時に如実に顕れる。>


米国は北朝鮮問題に引き続き、中国に対して「副官よろしく」というメッセージを意図したものと解釈してよいのではないか。日本への牽制は、こうしてきちんと「中国に配慮しています」という既成事実を作ることに利用されているのである。

中国は、日本に対して直接牽制球を投げなくとも(小泉総理時代では直接投げてきたが)、こうして米国が「配慮して」やってくれるので、とても楽なのである。日本にある程度の抑制が効くことになる。今年は「南京陥落後70年」に当たるようで、中国国内では再び反日感情の高まりを警戒せねばならず、日本には「大人しくしていて欲しい」ということがあるのだろうと思われる。

華僑ネットワークや米国内の中国系ロビイストには、まだまだ日本の知らない面があるのであろう。民族の生存を賭けたユダヤ人ネットワークが強固なもの(私個人の先入観に過ぎないが)であるのと同じように、国外の中国人社会は侮れない勢力を持つのかもしれない。



少なくとも、今後日本は米国の変化に対応する体制を取らざるを得ないであろう。



ライブドア事件の小総括

2007年03月19日 13時15分54秒 | 社会全般
前の記事で頂いたコメントは一般的なご意見が反映されたものであると思います。ここで改めてご紹介したいと思います。


・カレンさんのコメント

ライブドアの場合は地検の青年将校の暴走ですよね?金融庁ではなく東京地検がいきなり立件した。それで有罪にしないと引っ込みがつかないと。上場廃止にして株主の資産を吹き飛ばし無罪だと、いったいライブドア事件はなんだったのかと国に損害賠償請求が起きる可能性もあるし。

今後は東証が一方的に上場廃止を決めるのではなく、まず当該企業に懲罰的罰金制度を導入して、次に取締役に責任を問う。現状のいきなり株主責任で投資家が被害を被る仕組みは改めるべきである。


・unknownさんのコメント

式会社日興コーディアルグループの特別調査委員会は同社の有価証券報告書の「虚偽記載」を組織的な行為であったと結論づけているのに東証は「組織的でなかったから上場廃止はしませんよ」というのは庶民には到底、納得できません。
カレンさんの仰る地検の青年将校の暴走ならば、暴走して彼らを「天誅」する輩がでることも社会としてあり得た方が面白い。
時代ドラマの面白さは悪徳官僚に対して正義の剣が振るわれることなんでしょうね。民間のホリエモンに振るっても面白みを感じませんね。


論点をいくつか分けて見ていきたいと思います。

①検察への不信感

カレンさんのコメントで端的に、「青年将校の暴走」と表現されている通りの印象を世間では感じている部分が存在すると思われます。これは着手が不可解であった面はあるかと思われますが、問題があるが故に「犯罪」として挙げられているので、「検察の判断は間違っている」ということを説明するのはやや難しいかもしれません。「スピード違反」で検挙されたら、「他のみんなも違反してるじゃないか、何で俺だけが」という論法は通じ難いと思ったりもします。

少なくとも検察では着手する以前からそれなりの準備を重ね、上部との検討も経た上での着手でしょうから(そこら辺りは、落合先生の過去記事などをご参照下さればと思います)、法的な問題があって裁判で立証可能な範囲であると踏んでいたのであろうと思われます。法的問題はクリアされていたとして、それが「狙い撃ちであったのではないか」という疑念は残される訳ですが(私の考えた陰謀論のように、笑)、しかし、「コイツのスピード違反は目に余るものがあるので、その人が運転する特定車両を覆面パトが追跡尾行を継続して、50km/h超の速度オーバーをやった時に「現行犯で逮捕」というのを「不当捜査」と呼べるのかと言えば、それは難しい面があると思います。「みんなもやっているから大丈夫」ということにはならないであろうと思うのです。

一方では、検察に対する不信感が世間にあることは確かであり、ライブドアのとった「スキーム」自体がどのような違法性があったのか、会計制度上でどのゾーンまではアウトと認定されるのか、東証やSESCの監督責任というような論点はどうなのか、その辺りには不透明感が依然として残っているかもしれません。東証は基本的に民間ですので、「法解釈」のような部分に踏み込めないのですけれども、投資家や市場への大きな責任を負っていることは間違いないので、一般投資家などが見ても判りやすい基準を明確に提示する義務はあるだろうと思います。SESCは検察への告発を着手前に行っていなかったので、そこにも問題が残されていると思われます。本来的には、検察着手前にSESCの告発を受けて行われるのがシステムとしては望ましいのではないかと思われ、それがライブドア事件では逆であったので「検察の暴走」という印象をより強くしたものと思います。

「検察は行き過ぎだ」という意見が国民の間で大勢を占めるのであれば、いくらかは方向を考えてくると思いますが、実際「検察批判」というのがどの程度あるのかは不明です。判決後に、ホリエモンがテレビ出演をあちこちでやっていたようですけれども(私は一つも見てないので内容は判りません)、彼が語ったことへの国民の理解、説得力や共感といったものがどれくらいあったのか、というと、割と疑問であるかもしれません。


②株主の損失と責任

ライブドア株主の訴訟に思うことにも書きましたが、ある部分は責任を取らされることも止むを得ないのではないかと思っています。ただ、企業と一般投資家との間で情報の非対称性があることは考えられますので、投資家保護という点で言えば会計監査人や東証の責任は重大であったろうと思います。できるだけ健全な市場を作って行こうとするのであれば、松岡大臣の言い訳で用いられた「法ではそこまで求められていない」というような法を盾に取るような(要するにグレーゾーンな)やり方は好ましくはないでしょう。改善すべき点は残されていますし、全てを自己責任で片付けるのも問題だろうと思うのですが、株式投資という「ゲーム」に参加する以上「ゲームの基本的ルール」を学んでおくことは参加者の自己努力が求められるのは仕方がないのではないかと思います。


③改善すべき部分

既に会計制度の変更などで考えられているのかもしれませんが、例えば、監査人が「こういう場合はセーフなのか、アウトなのか」判断が難しいような場合に、詳しい公認会計士の方々とか弁護士などで構成する「判定機関」みたいな小委員会のようなものがあれば、そこに「お伺いをたてる」という手続きを経るようなシステムがあればいいのかもしれません。日興の場合みたいに複雑な手法をとる場合だってあるかもしれませんし、企業と監査法人とで「大丈夫かな?多分OKだよね」みたいにいくら相談しても、後で「それは違法ですから」と認定されれば問題となるのですし。

カレンさんの指摘にもありましたが、上場廃止決定以前に懲罰的制度が必要なのではないか、経営(取締役会)責任を問う範囲を示しておくことも必要なのではないか、というのは、検討するべきことではないかと思えます。経営者の個人的責任であるような場合、法人としての企業に重大な責任があったとも言えない可能性は有り得るかもしれません。ただ、商法とか会社法などで規定される部分があるでしょうし、「経営者の暴走を食い止めるシステムを兼ね備えていないような企業」(=管理体制に大きな問題がある企業)ということが重大な問題とされているやもしれず、そうであれば上場廃止の決定を受けたとしても文句が言えない、ということになるでしょうか。

東証の判断や決定プロセスには色々と不透明な部分や問題があるということを世間的に認めているのは確かであり、それは金融庁?のような監督官庁が「きちんと判断基準を明示して下さい」「該当要件を明らかにして下さい」などを求めない限り、改善されないのではないかと思います。東証も金融庁もある種の「談合体質」といいますか、村社会のメンバーで一緒にやってきたのでしょうから、結局の所、トップであるところの金融庁長官や総理大臣へ「ダイレクトに働く力」=国民からの圧力がなければ、あまり効果がないかもしれません。そもそも投資家の絶対数が多いとも言えず、仮に一部株主たちに不利益が及んでも、大多数の国民にとっては「どうでもいい話」の1つに過ぎないのではないかと思ったりもします。となれば、金融庁や東証などへの圧力は、政治的にはあまり期待できないということはあるかもしれません。今回のライブドア事件で、「何が問題であったのか」「東証の責任とは何なのか」というようなことへの関心が低い、ということです。実際のところ、私もよく判らない人間の1人なんですけれども(笑)。

一見成功を勝ち得たかのような「ホリエモンという人間」が堕ちて行くさまを見るのは、「醜聞見たさ」や「いい気味だ」のような関心をもたらすかもしれませんが、市場を支える制度的な話や司法制度への疑義などといった問題は、あまり興味を引く話でもないのかもしれない、ということです。それを権力側に利用されてしまうのであれば、まさしく「思うツボ」ということなんだろうな、と思います。


最後に、検察への信頼性ということの私自身の評価としては、全体としてはまだ「信頼するべきかな」という水準でありますけれども、昨今の冤罪事件などがボロボロ出てきているのを見るに、不安が増大しつつあることは確かです。司法制度への信頼性については、司法の「品質管理」を問うでも書いたのですが、検察も同じくエラーを防ぐ為のシステムやフィードバック機構のようなものが果たしてどうなっているか、どの程度実効性のあるものとなっているのか、というのは不透明ではあります。官僚主義的とか、出世志向的な部分が目立つようになってしまっては、信頼を失っていくことはあると思いますので、検察内部で自主的に改善していって欲しいと思っています。信頼が崩壊した後からでは、生ぬるい改革なんてことは許されず、強い外力で否が応でも変えさせられるでしょう。そうなってからでは遅いのです。


虚偽記載~政治資金収支報告書ならば罰せられないのは何故か

2007年03月16日 21時20分32秒 | 法関係
注目のホリエモン判決であったが、断罪されたのは有価証券報告書の「虚偽記載」(と風説の流布)であったことをよく考えてみてはいかがか。日本の権力機構は、政治家に対しては「恣意的に」法を運用するのが常道なのであろうか。政治資金の収支報告書に関する「虚偽記載」がなぜこれほど放置されているのか、甚だ疑問である。

今話題沸騰中の、「ナントカ還元水」で全国に名前を売った水男(羨ましいね)、松岡農水大臣は「法で求められている報告はしている、これ以上の報告義務はない」と大見得を切っている。日本の政治がいかに腐っているか、ということを端的に表していると言えよう。松岡大臣のお陰であまり目立たなくなってきて、内心ほくそえんでいるかもしれないが、こっそり隠れている伊吹文科大臣も未だ整合性のある説明などしていない。「松岡頑張れ!」と矢面に立たせて、自分のことはうやむやのうちに終わらせようとしているのかもしれない。


ここで、もう一度おさらいをしよう。

参考記事:事務所費って何だろうか?

政治資金規正法の「虚偽記載」は、刑事罰が与えられるということは明確である。辞任した佐田大臣は虚偽記載にも関わらず、会計責任者に罰則が適用されないのは何故か?他の国会議員たちも罰則が適用されても「不思議ではない」はずであろう。ところが、日本の権力機構はこういう「虚偽記載」に対しては非常に甘くできている。ホリエモンには法が適用されているのに、である。この違いというのは、一体どこからくるのであろうか?

政治資金に関して公表される情報としては、確かに松岡大臣の言う通りである。しかし、必ずしも公開されずとも、調べることが可能な場合も有り得る。それは、法というのは、適用する側に判断の権限が与えられているからだ。上の参考記事にも書いたが、僅かながら手はある。

ポイントとしては、総務大臣権限である。政治資金規正法第31条を適用するべきであろう。条文を再掲しておく。

第三十一条
総務大臣又は都道府県の選挙管理委員会は、この法律の規定により提出された届出書類、報告書若しくはこれに添付し、若しくは併せて提出すべき書面(以下この条において「報告書等」という。)に形式上の不備があり、又はこれらに記載すべき事項の記載が不十分であると認めるときは、当該報告書等を提出した者に対して、説明を求め、又は当該報告書等の訂正を命ずることができる。


ここで、総務省回答のように、「書面で形式上の不備がなければ調べることができない」などということはない、と考える。それは「平成研」の残高不足が明らかになった時(政治資金規正法はザル法だ)、書面で形式的不備などなかったはずだ。しかし、説明を求め、再提出させたはずであろう。当時、麻生太郎総務大臣はやったはずだ。つまり、総務大臣権限としては、「可能」なのである。

松岡大臣の例で考えると、「これらに記載すべき事項の記載が不十分であると認めるとき」に該当する、と総務大臣が判断を下せば「説明を求めることができる」のである。この説明は一般公開せよ、などとは言わないが、内容の妥当性に関しては「総務大臣が責任を負う」という意味になる。松岡大臣の政治資金についての提出者(会計責任者?議員本人?)に、「事務所費・光熱水費が間違っていませんか?これは一体どういうことでしょうか?」と説明を求めればよいのである。議員会館を事務所としている菅総務大臣は光熱水費がゼロらしいじゃないか(笑)。それとの大きな開きについて、「具体的に説明してください」と尋ねればよい。この説明を総務大臣が訊いた結果、「訂正して下さい」と命ずることができるのである。平成研は実際訂正に応じたのであろう?ならば、可能であるはずだ。

国会では、総務大臣にどのような説明を受けたのか答弁を求めればよい。「お答えできません」と答弁するのであれば、総務大臣も同罪ということになる。総務大臣が松岡大臣の責を負わなければならない、ということである。果たして菅さんにそこまでできるのか?自分が悪者になってまで松岡大臣を庇えるのか?

因みに、31条を適用すれば、これにウソを答えたり、拒否したりすれば、罰則があるのである。第24条第1項第7号の「第三十一条の規定により求められた説明を拒み、若しくは虚偽の説明をし、又は同条の規定による命令に違反して同条の報告書等の訂正を拒み、若しくはこれらに虚偽の訂正をした者」に該当し、3年以下の禁固又は50万円以下の罰金である。なので、31条を発動すれば、相当程度の強制力が働くはずなのである。


もっと別な方向から考えてみよう。
これも前に書いたが、事務所費や光熱水費は領収書添付が求められてはいないものの、帳簿は全ての支出について記載が義務付けられている(政治資金規正法第9条第1項第2号)。これは違反すれば罰則がある(第24条第1項第1号)。従って、帳簿がない、ということは有り得ない。この提出を国会で求めるべきである。

それも拒否されて、実施できないとすれば、「告発」まで考える、ということになろうか。第25条第1項第3号の、「第十二条第一項若しくは第十七条第一項の報告書又はこれに併せて提出すべき書面に虚偽の記入をした者」に該当しているのではないか、ということを捜査機関に告発する、ということである。告発の条件については全く知らないのですけれども、仮に告発されれば捜査しなければならないのであるから、当然証拠となる帳簿は確保できるはずであろう。

もしも告発した場合、証拠がないので捜査機関が受理しない、ということもあるのだろうか?或いは、告発した結果、虚偽記載の事実がなかった、ということになれば、名誉毀損などで逆に訴えられる可能性があるのであろうか?だが、どう考えてもクロであると、日本中の国民が思っているぞ。捜査が始まれば、「虚偽記載」の証拠を押さえられる可能性はほぼ100%なのではないかと思うが。


松岡大臣のような、「法には書いてない、法で求められていない」などという「法を盾にとる」姿勢を、なぜ法学の専門家たちは「黙って見ている」のであろうか(国会議員の中に、弁護士はたくさんいるのであろう?法に詳しいのであろう?どうして、「法」を盾にとるようなヤツに「法」で対抗しないのであろうか?そういうところは本当に疑問に思う。死ぬ気で突破口を探すべきであろう)。法は悪用される為にあるわけではない。悪用するようなヤツを守る為にあるわけでもない。これでは、法を汚されているのと同じではないか。こういうのを黙って見過ごすのが、法学の専門家の役割なのか?


総務大臣が31条に基づく説明を求めない、という判断を下すのであれば、「政治資金規正法第31条を適用することを求める行政裁判」というような訴訟を提起することも考えたりできないものなのであろうか?総務大臣の不作為、ということになり得るのではないのか?私のような素人考えだとダメなのかもしれないが、何らかの強い手段を考えることはできるのではないか。

法曹出身の国会議員たちは、何の為に法曹資格を持っているのであろうか。他にも、国会議員に限らず、法学専門家の中で「行政」「政治」関連をやっている人たちはいるのであろう?なぜそういう専門家から、「松岡大臣の言い分を突破する方法があります」というようなことが出てこないのであろうか?そういうのがとても残念である。法を盾にとって悪事を働くヤツを懲らしめることのできる人が現れないのである。



ホリエモン判決で思うこと

2007年03月16日 12時05分55秒 | 社会全般
話題になっていた判決ですけれども、実刑だったそうです。
これをどう思うかと言っても、経済事件の量刑相場?みたいなのは知りませんので、「そうなのか」としか言いようがありません。ただ、他の事件と比較して、ホリエモンに実刑ならば、なぜ他の事件では捜査が行われたり、同じように実刑となったりしなくて済むのか、ということがあまりよく判りません。

(上場廃止の)誤報騒動さえ持ち上がった「日興」の事件では上場が維持され、経営陣の法的責任とかが明確になっているかと言えば、「うやむや」です。金融庁も「混乱は避けたい」という意図なのかもしれませんが、大手証券会社の一角の不正事件にも関わらず、ツッコミは「手ぬるい」感じがします。「金融処分庁」みたいに言わているらしいのに、これは一体どうしたことでしょうか?と思わずにいられません。


参考:

続・旧体制の反攻

やはり旧体制は守られたままなのか


実は、isologue - 磯崎氏の記事を拝読して、「そういう見方もあるのか」と思っていましたが、普通の人々にはとても分りにくい話だなと感じていました。まず、東証もそういう話を出してこないですし。公式発表ではネット上でも提示されているのかもしれませんが、世の中の人々はそんなに詳しく検討したりしないと思うのです。もう少し簡潔に、噛み砕いて説明してもらえれば、とは思います。しかし、東証も金融庁も、そういった発表の工夫はないと思います。


日興が刑事事件にならないならば、「該当する要件」みたいなのがある程度明確になっていないと、恣意的な捜査なのではないかと思われても仕方がないのではないかと思えます。普通の人々には、何が犯罪に該当しているのか、日興が免れる理由とは何か、というのが全然判らないと思います。経営陣の法的責任の範囲とか、法人への刑事罰適用はどうなのかとか、そういうことも不透明のままのように思えます。個々の事例毎に、もっと具体的にコレとこれが「アウト」、でもこういう場合は「セーフ」とか出して、それを比較することができるのであれば、「ああ、ライブドアの場合はアウトの事例だな」「日興はセーフになるね」とか理解できるのではないかと思います。そういうのもなしに、ただ「日興の悪質度はそうでもない」みたいに言われても、納得感はないですよね。そういう情報を整理するのは、金融庁なのか、東証なのか、検察なのか、誰がどうするのか判らないですが、どうにかハッキリさせてもらえないものなんでしょうか?



グーグルニュースの謎?

2007年03月15日 19時58分43秒 | 社会全般
見ていて、ふと思ったので書いておく。

グーグルニュースの日本版には、参加・不参加の区分のようなものがあるのであろうか?メディアの考え方によって、「絶対使うな!!」みたいな制度?のようなものがあるとか?

ちょっとよく判らないのであるが、「毎日新聞」をまず見かけなくなった。同じような記事が何十本もあるような普通の記事であっても、毎日新聞の記事は表示されない。これって、ひょっとして「毎日新聞はメディアの質として~だから、グーグルからは外す」というような何かに引っ掛かっているんでしょうか?

例えば、ただ単に「毎日新聞はyahooに記事提供を行っているので、グーグルには使わないように言った」とかなら、話は判る。そうじゃなくて、特別な制限がないのに表示されないようにされているとすれば、「何か理由があるかもね」と変に勘繰りたくなる(笑)。だって、四国新聞とか熊本日日新聞とか、これまで全く知らなかったような新聞でさえ(失礼、悪い意味でなく。全国紙じゃない、という意味で)ちゃんと表示されるのに、毎日新聞が出ないというのは違和感があるもんね。


あと、「格差社会」で検索すると、また変わっていた(笑)。
(参考記事:グーグルって不思議だね(笑)

これも、他の新聞社の記事は検索されるのだが、毎日新聞の記事は検索上位には入っていなかった。初登場順位は57位。「縦並び社会」という表記だからなのかもしれないが、他のメディアがそんなに正確ではない(文中にちょこっと出ているような程度ということ)のに抽出されているのと比べれば、「毎日外し」みたいな感じがしないでもない。

どうやら「毎日新聞」というメディアに関する「何か」の評価が著しく下げられた可能性がありますかね。それは反ネット的な姿勢とか?妄想に過ぎないので、何とも言えないわけですが。


あと、検索の先頭に「学術記事」という見出しが出来ていた。そこでは、著名な佐藤俊樹先生と、大竹文雄先生が表示されていた。因みに、学術記事のところを見ると、晴れて山田昌弘先生がトップに表示されていました(良かったですね)。


ですが、大竹先生の「90年代の所得格差」というのを見てみたら、何と

「一致する記事はありませんでした」

と出るではありませんか。これ如何に。何の為の表示なのかさっぱり判らん。直しておいた方がよいのではないでしょうか?>グーグルの中の人


まあ、これは余談ですのでいいんですけど、どうも毎日新聞の記事は、グーグル的には「はじかれる」らしい、というわけですね(笑)。



利益相反と研究費の寄附

2007年03月15日 16時30分22秒 | 社会全般
最近、タミフル問題でちょっと話題になっておりましたので、メモ。

まずはニュースから。

Yahooニュース - 時事通信 - タミフル研究への影響否定=中外製薬寄付で-厚労省研究班教授

(記事より引用)

インフルエンザ治療薬「タミフル」服用後の異常行動を調査研究している厚生労働省研究班の主任研究者、横田俊平横浜市立大教授(小児科)の講座に、輸入販売元の中外製薬から1000万円の寄付金が渡った問題で、同教授らは13日記者会見し、「研究には他の大学も参加しており、裁量が入る余地は全くない」と述べ、寄付金による研究への影響を否定した。



Yahooニュース - 毎日新聞 - <タミフル>岡山大教授講座にも年200万円の研究資金

(記事より引用)

インフルエンザ治療薬「タミフル」の副作用を調べている厚生労働省研究班長の横田俊平・横浜市立大教授(小児科)の講座に、輸入販売元の中外製薬から研究資金が渡っていた問題で、班員の森島恒雄・岡山大教授(同)の講座にも同社から年間200万円程度の研究資金が渡っていたことが、13日分かった。
 同社によると、森島教授の講座に使途を制限しない「奨学寄付金」として03、04、06年に各200万円ずつ、計600万円を支出した。また、横田教授の講座には計1000万円を支出した。ただ、岡山大は受け取ったのは04、06年に計450万円だったとしている。
 同社は「奨学寄付金は社として年間十数億円出しており、両教授への講座への寄付もその一部。優れた研究が生まれることを願って出しており、研究結果に影響するものではない」と言う。
 森島教授は「奨学寄付金は10社以上から受けており、すべて大学に届けている。研究結果をゆがめることはない。小学生以上は、タミフルはインフルエンザ患者みんなが使うべき薬ではないと言ってきた」としている。
 また、横田教授は13日夜、厚労省で会見し「研究はゆがめようがない」と訴えた。同席した阿部万里雄・横浜市立大病院管理部長は「今後、利害関係のある会社からは、調査年度には奨学寄付金を受けないなどのルール作りを検討したい」と話した。
 厚労省は全班員(8人)について、中外製薬からの資金提供の有無を調べており、今後、研究班の調査結果の信頼性も確認する。
 同省安全対策課の伏見環課長は「研究班は合議で結論を出しており、結果がゆがめられた可能性は小さいと考えるが、国民の関心の高い問題なので確認したい」と話す。【高木昭午】




私の考えとしては、これまで企業の寄附は奨励してきました(笑)ので、寄附自体を問題にするつもりはありません。ただ、情報を「隠す」意図がなかったにせよ、後から出すとなれば(私も好きだけど)「陰謀論」を払拭できなくなりますので、予め公表するべきでしょうね。報告書で提出する場合には、記載事項として講座で受けている寄附は列記しておく、ということです。これを必須ということにしておくことでいいのではないかと思います。報告書を読む側が判断するべきことになります。


優秀な研究者に研究費がもらえる方が望ましいのですし、もらったからといって「スポンサーの顔色を窺わないと・・・」みたいな研究者ばかりとも言えないわけですし。テレビや雑誌なんかであれば、そういう面がないとも言えないでしょうけどね(笑)。優秀なのに、研究費の寄附を受けているから「利害関係者であり、研究班のメンバーには相応しくない」ということになれば、企業が目をつけない「あまり優秀でもない」研究者がメンバーに選ばれる、というような(研究者の方々、ゴメンなさい。あくまで想定ですので、実際の能力の優劣を判断するものではありません)ことが起こってしまうのが果たして望ましいのか、国民の利益になるのか、という問題もあると思います。なので、メンバー選出は必ずしも寄附の有無で選別しなくてもいいのではないか、と思います。研究者として適格かどうか、というのが条件でいいと思います。寄附を受けることは「OK」でいいとして、それを「黙っている、隠している」ということが不自然なのです(政治家もそうですよね、政治資金問題!!)。ですので、寄附を明示するというのを、基本的な慣習として定着させるべきなんでしょうね。


時々拝見しているこちらのブログでも取り上げておられたので、是非お読み下さい。とても良くまとまっています。

大「脳」洋航海記 「利益相反はない」と論文の最後に書かされることの意味



以前に、こういうことを理解できない人々がいる、と記事に書いたのですけれど、同じようなものですね。

これは早稲田大学消費者金融サービス研究所が消費者金融会社などから資金提供を受けているのではないか、という私の「下衆の勘繰り」が発端( 消費者金融顧客の分析は果たして妥当か?)であり、坂野教授なんかの出しているペーパーには書かれていない、ということを言ったものです。私のような愚かな人間が勘繰ると、「陰謀論」しか頭に浮かばない人間、というようなことを非難されてしまうわけですね。まあ、それは普段の行いとか人間性に問題があるのだ、ということなんでしょうね(笑)。過ぎたことですのでしょうがないわけですが、今後、どの分野のペーパー類でも受けている資金は明示するのを基本とするべきでしょうね。それができないペーパーなら、「そういう程度で読んで下さい、信頼性は低いです」ということを示すものと考えるのが当たり前になるように、読み手が変わらねばなりません。そういう教育をしたり、環境(主に研究側、学会の姿勢・方針とか)を作っていくことが必要になるでしょう。



イルカはサメになれない~まとめ編

2007年03月15日 14時30分58秒 | 俺のそれ
後で追加すると言っておきながら、できませんでした。お詫び致します。
時間が空いてしまって、何を書こうと思っていたか忘れたので(年のせいかな?)、手短にしたいと思います。


タイトルで「続々」とか複数回使ってしまっていて、ヘンになっていますが(笑)、これまでのおさらいです。


イルカはサメになれない

続・イルカはサメになれない~幻想崩壊

続々・イルカはサメになれない~株主と従業員

続々・イルカはサメになれない~ちょっと補足

イルカはサメになれない~補足編


企業経営者の能力的な話を前回書きました。昔、社長がどれくらいの給料を貰っていたのか不明なのですが、普通の従業員の100倍とかもらっていたとも思えないのです。オーナー社長とか創業者の場合なんかだと高額な報酬ということがあったのかもしれませんが、どちらかと言うと、現在成功を収めている企業の創業者たちなんかだと、べら棒に高い報酬を得ていたとも思えないんですよね。むしろ逆で、まだ会社がそれほど大きくなっていなくて、経営が苦しい時には自分の給料をゼロにしてでも従業員に払っていたのではないか、と思うのです。そういう「精神論」で企業経営をやれとか、それが正しいとか言ってるわけではないですが、従業員たちが何故頑張れるかといえば、やっぱり意気に応えようということなんじゃないかな、と思うのですよ。


結局のところ、日本の経営者たちの能力的な問題が色々とあって、みんなが似たような方向に偏ってしまい、そのことが日本を大きく狂わせた要因の一つになっていたのではないだろうか、と考えられずにはいられないのです。


イルカはサメになれない~補足編

2007年03月13日 21時53分27秒 | 俺のそれ
さすが内閣府(なーんてね、笑)。最近頑張っていますね。大変勉強になる資料があったので、挙げておきます。

今週の指標 No792

これをもって、単純な考察や結論を導くのは困難かもしれませんが、中々良い分析であると思います。グラフで見た方が判りやすいですが、一応、サマリー部分を一部引用させて頂くと、次の通りです。


具体的には、日経NEEDSから取得できる東証一部上場企業の財務諸表から個別企業のパネルデータを用いて、賃金交渉モデルに基づき実証分析を行った(詳細は備考参照)。先行研究によると、企業の雇用調整速度は、赤字に陥るなど企業の存続が危ぶまれる状況で早くなること、また、内部者(従業員)の影響力が強いと調整速度が遅くなることが知られている。 そこで、検証仮説として、債務を抱えた企業ではその存続が危ぶまれることから賃金抑制度も強くなるのではないか、その際、内部者の影響力が強い企業では賃金抑制は弱く、株主など外部者の影響力が強い企業(機関投資家の持ち株比率が高い企業及び株式の安定保有比率が低い企業)は賃金抑制も強いのではないかと仮定した。

検証結果(図3)をみると、企業計でみて債務の存在は賃金に対して抑制的な効果を持つ。しかし、株主から影響を受けやすいと考えられる企業とそうでない企業に分けて分析すると、前者の場合のみが賃金に対して抑制的な効果を与えることが分かる。 この結果は、企業経営に対する株主の影響が相対的に強い企業では、債務の高まりが賃金を抑制する一方、株式持合い等によって株主の経営に対する影響が相対的に弱い企業では、従業員の利害が優先され、債務が高まったとしても、賃金がそれほど抑制されないことを示唆している。


これには良い面と悪い面があると思われる。統治の問題として、「経営が甘くなりやすい」というようなことが起こりやすくなるのかもしれない。平たく言えば放漫経営だ。しかし一方では、従業員に対する分配効果が高くなると考えられ、優秀な企業経営者の下においては、債務負担以上のリターンを得られる限り経営的な問題は発生せず、従業員の忠誠心や労働意欲という別な形で貢献が得られる可能性も考えられる。


関連記事:

国債償還と借り換え

続々・イルカはサメになれない~株主と従業員

外国人投資家が日本株を多く保有するようになり、従業員は給料を削られる(=賃金抑制効果)ようになってしまった、と前の記事に書いたのが、あながち大外れでもなかったのだな、と思った。



私の考え方としての大前提を書いておく。
売上が減るとかで業績が悪い時、「首切り」とか減給で対処するのは、誰でも考え付く方法なのであまりに普通である。一般の家庭であっても、収入が減ってしまった場合に「父ちゃんの小遣い」をまず減額、次に息子・娘の小遣いを減額、みたいなことは誰でも考えられるし、実行可能性は容易だと思える。それは平凡な主婦であってもできる、ということ。やりくり上手とは、父ちゃんや息子・娘の「不満度」をほとんど変えることなく、家族が気付かないくらいに収入減少分をカバー(どこかで節約している、ということだ)することなのである。でも、収入が減ったからと言って、いちいち息子や娘を放り出すかね?「おまえは何処かへ行ってくれ」とか、果たしてできるのか?そういうことをどうしても考えてしまうのだ。そりゃ、本当に会社が苦しくなったら、人員整理も止むを得ない場合はあるだろう。けれど、それは「最終手段」であって、経営側が死ぬほど努力をした結果なのかと言えばそうでもないんだよ。リストラした人数が多い方が経営者の評価として上がる、というのは、どう考えても解せないのですよ。

それは要するに、首切りに伴う「苦痛」や「摩擦」はかなりあるだろうから、それでも「俺は実行できるぜ」と言って、やってのけられるヤツが「優秀な経営者」みたいに言われるのだよ。非情さを持ってりゃいいのかよ、って話になってしまう。それは、本質的にはオカシイんじゃないか、と思うのですよ。以前書いたのだけれど、トヨタの奥田さんを割りと信頼していたのは、従業員を見捨てることをしなかった経営者だったからだ(成果主義は日本にとって本当に良かったのか?)。実際見たことも会ったこともないので、本当の実力や評価は知らない。私の買いかぶりに過ぎないのかもしれない。だが、リストラしないという姿勢を明確に打ち出したことは、企業経営者として高く評価されるべきだと私自身は思っている(企業経営に関わる経験がないからそんなことが言えるだけなのかもしれない)。企業経営者として守るべきものは、必ずあるはずだ。

ところが日本の経営者たちの多くは違っていたのだ。


退席しますので、後で追加したいと思います。


「そろばん」はスポーツ

2007年03月13日 18時29分25秒 | 俺のそれ
finalventさんが触れていた(finalventの日記)ので、ちょっと便乗。


昔は塾というと、習字かそろばんくらいしかなかった(ウチの近所では)。小学校の時、やむなく週に1回とか通っていた。民家の普通の部屋で、ゴロゴロと子どもが集まり、狭っ苦しい中で、折りたたみの長い机に3人横並びとかで、正座してやってた。級があるだけで、学年とか全く関係がなかった。後から入ってきた子なんかだと、学年が上であっても級が下という子は普通にいたので、特別な意識とかはなかった。級が上がっていくのが早い子もいれば、そうでもない子もいたが、それで差別的とかイジメとか全くなかった。恐らくそんなこと、誰も気にも留めていなかったろう。検定に合格すると、みんなの前で順番に名前を呼ばれて賞状を手渡され、よく判らないけれども全員拍手をしていたように思う。

年長の子どもたち(とは言っても、その当時で6年生くらいだったろうが、随分と大人っぽく思えた)は、無駄話とかふざけたりとかしないで真剣にやっていたので、年少の子たちはそういうのを見て何となく「ちゃんとやらなくちゃ」みたいな雰囲気を学んでいたように思う。読み上げ算とかやる時、しーんとした中で黙々とやる、みたいな。塾のおばさん(と言っても、当時で30代くらいだったろうか?)が厳しく注意しなくても、何となくそういう具合になっていた。

<寄り道:最近の学校では授業中に騒がしくて、先生が注意してもおしゃべりを止めないとか、全校集会みたいな時に校長先生が話をしていてもうるさい、といったことがあるらしい。>


そろばん塾の先生のお母さんがいて、多分民家の居間でやっていたので塾の日には居場所がなくなるのであろう。ストーブの脇の長イスに座って編み物などをずーっとやっていたりして、時々そのおばさんの近くに座ることがあると、何故か褒めてもらえたりした。そのおばさんは愛想のいい人であったので、「もう暗算できるの。頑張りなさいね」みたいなことを、そばに座った子どもたちの誰にでも言うのであった。

中学の同級生に算盤十段というヤツがいて(別な珠算塾であったので、全く知らなかった)、鬼のような暗算を披露された記憶がある。よく「瞬殺!」みたいな表現をアニメか何かで見かけるが、まさしくそれだ。直ぐに答えが出る。見る、答える、みたいな感じ。コイツは一体どうなっているのだろう?とか不思議であったが、勉強の成績はありふれていて、特別どうということはなかったのも何故なのかと思っていた。当時、全国で通算50人も存在していなかった「十段」というのが同級生にいるというのは、結構スゴイと思っていた。

自分は暗算が大の苦手で、イメージングが全くクリアできなかった。どうしてなのか判らないが、きっと水泳で息継ぎができないのと似ているのかもしれない、と思った。乗り越えるキッカケが掴めないまま過ぎていたのだと思う。なので自分としては、暗算は捨てていた(笑)。応用問題でいいや、と逃げていた。結局そのまま過ぎ去ってしまった…。悔いが残る。

学校の算数の授業で、小学校2年生とか3年生くらいの頃に、算盤があったように思う。数回だけやった記憶がある。その時、世の中にはボタンを押すと「珠がそろう」算盤があるということを、初めて知った(笑)。普通は、人差し指で端から端まで「ジャー」ってやらなければならないのだが、クラスの中にボタン式でそれができる算盤を持ってきていた同級生がいたからであった。どうでもいい記憶だ。


本題の暗算のことを書いておこう。個人的印象なのだが、多分、暗算だけに限らず、そろばんというもの自体が、およそスポーツ的なものに近く、訓練のやり方でかなりできるようになり、その大半がイメージングのトレーニングに費やされるのではなかろうか、と思った。十段の同級生を見ていてもそういう感じがした。


それから、「計算技能世界一決定戦」というのがここ数年あるらしく、時々ニュースに出るが、確か日本人の暗算チームが強かったように記憶している。この大会は電卓だろうが、算盤だろうが、どんな計算機を用いてもいいのだが、最も早く正確に答えを出せればいいのである。つまりは暗算が最強、ということになりやすいのだろうと思う。電卓のキーを押す時間よりは早い場合が多いであろう。ルート計算とかは電卓有利かもしれないな。ちょっと想像がつかないのだが、非常によく訓練された暗算スペシャリストは、計算機操作よりは有利、と思う。

こういうのは、恐らく脳の鍛え方の「何か」なんだろうな、と思うので、題材としては面白いと思う。>茂木先生いかがでしょうか?



知識人へのリスペクト…?

2007年03月13日 12時42分39秒 | 俺のそれ
昨日はあれこれと変なことを書いてしまったが、もう少し書いておきたい。

白ウサギ殿が気分を害されたのであれば、それは本意ではない。しかし、何かの行動、言説といったものが悪影響を持つに至るのであれば、そうしたことは当然自制するべきであると思っている。知識人へのリスペクトを失わせているのは、それらの言説をばら撒いている「自分たち」である、ということへの自覚を持ってもらいたい。特に教育的立場にあるような人間が自らそういう行為を行うことが、どういう風に伝播するか、それがよい影響を持つのか、何かの創造に繋がっていくものなのか、大人におかれては全て判った上でのことであると思う。それ故、非難しているのである。

「ふざけてはいけない」とか思っているわけでもないし、「好きなことを書いて何が悪い」という意見もあるとは思うが、現実に言及していい範囲とそうでない範囲というのはあるのではないかと思う。それとも、知識人への信頼を失わせることを望んでいるのであろうか?インテリを自認するのであれば、言説の「中身」を批判するべきではないのか?「文学者の○○は癇癪持ちなので、書いてる内容は間違いだ」といった批判をするであろうか?デンパ艦長はこれと似たような言い方―「マクロの専門家ではない~や○○」のような表現―をするが、こういうのを「肯定する」というのは如何なものか、としか思えないのである。素人が言おうが、専門家が言おうが、別に関係ないだろうし、中身が大事なのではないのか?デンパ艦長の物言いや豪語癖については、これまでに何度か苦言を呈してきたが、当人がどれほど自覚的なのかは判らない。まあ、そういう程度の品性であろうことは容易に想像できる。


「クルーダス」氏にしても、もてはやされていい部分と、芸では済まない部分というのが当然あることは重々承知しているであろうし、実際過去に訴訟にまで発展している歴史をお持ちの方ですので、周りがとやかく言う必要もないであろう。デンパ艦長とのバトルの時にクルーダスの意見を支持したのは、「クルーダスという人間」の支持をした訳でないし、彼の人物像について賞賛の意を表明した訳でもない。ただ単に、主張の内容を見た結果「なるほど」と思ったに過ぎない。許容されうる言論の範囲から逸脱して、ただの「個人の否定」に過ぎないものは排除されるべきであろう。その意味においては、彼の反論は対抗言論であると思えた。しかし、罵倒や個人否定をやりたいのなら、どこかの下らない掲示板にでも出かけていって、同じレベルの連中を相手にして、いつまでもガキみたいに好きにやってろ、と思う。


いずれにせよ、目立つ方々には極力「antisocial」な行為は避けて頂きたいと思う。


エリートの成れの果て

2007年03月12日 19時33分42秒 | おかしいぞ
世の中というのは勉強をやっていい成績、いい学校、いい職業、というふうにやっても、それをダメにしてしまう人間がいるのですよ。これが日本における教育の成果なのですよ。笑えるね。


Yahooニュース - 産経新聞 - 厚労省医官ら逮捕 補助金詐取 北支援NGOと共謀

(記事より一部引用)

厚生労働省が支給する厚生労働科学研究費補助金(科研費)約210万円をだまし取っていたとして、警視庁捜査2課は9日、詐欺容疑で、同省医系技官で埼玉県保健医療部長として出向中の中村健二容疑者(49)と、北朝鮮を支援しているNGO「レインボーブリッヂ」(東京都中央区)代表代行、小坂浩彰こと小坂博幸容疑者(54)ら3人を逮捕、同団体を捜索した。中村容疑者は小坂容疑者と共謀するなどし、総額で3000万円近くの科研費を詐取した疑いもあるという。捜査2課は、だまし取った金の使途など不正の全容解明を目指す。

 ほかに逮捕されたのは、小坂容疑者が代表取締役を務めていた会社「マルクインターナショナル」社員、梶浦裕高容疑者(43)。中村容疑者は「間違いありません」と容疑を認め、小坂容疑者らは否認。中村、小坂両容疑者は10数年来の友人だった。




端緒となったのは、北朝鮮関連をしらみ潰しに捜査していたら何かの情報が出てきた、といったところなんでしょうか。そこから水谷建設関連に行き当たり、これが突破口となって役人のショボイ使い込みが発覚した、と。それは別にいいのだが、銀座で豪遊していて有名だった、とか言われているので、他人の金で飲むのは得意だったのだろう、ということはよく判るね。折角慶応大医学部を出ても、その後の人生がこれですから(笑)。この前言った通りだね。こういうのはどうすりゃいいんだろうね、本当に。

こういう人間になったのは、何が原因なのであろうか。DQNの親からはDQNが再生産される、とか言うのだが、そういうことなんだろうか?それとも、持って生まれた気質なのか?よく判らんが、普通の人ならば、やらんよ。失うものが大き過ぎるもの。間違いなく隠せる、とか思ってたんだろうかね。いかにも腐れ頭の官僚の考えそうなことだな。

でも、勿体無いよね。慶応の医学部だもんね。世の中には彼と入れ替わりたい人たちはたくさんいるだろうに。そんな立場にあっても、不満に思い、一線を踏み越えて行ってしまうんでしょうかね。



アンタイ族の生態に迫る(追加あり)

2007年03月12日 17時01分54秒 | 俺のそれ
ネット上では色々な現象が観察できる。昔ながらの掲示板時代の名残なのかなんだか判らないが、ネット上での行動特性とまでは言わないまでも、何かの傾向が窺われる。そこで、これについて記述を試みたい。


まず、一つの物語を紹介しよう。



ある所に、白ウサギがおりました。このウサギは、「クラウド」―所謂サイバー空間のこと―では以前から名の知れたウサギでした。それはあちこちでイタズラ書きをしたり、弱々しい相手をボコったりするのが得意だったからです。白ウサギは、クラウド内に棲息する他の低級モンスター族に比べれば、少しだけ知識を使うことができたのです。その知識というのは、「この森に鹿が棲んでいることを知っている」という程度のものでしたが、それを大変小難しく言う術を知っていたので、他の低級モンスター族には「白ウサギはスゲー!」と思われていたのです。

白ウサギはバカではありませんので、必ず相手を選びます。相手を見て、反撃がユルいかどうかを確かめてからでないと仕掛けたりはしません。低級モンスター族にはそういったことが判りませんので、白ウサギは「強い」という錯覚をもたらすのです。そうではあっても、白ウサギは低級モンスター族から一定の支持を集めていたのです。


ある時、クラウドにスノーという少女がやってきて、静かに絵を描いておりました。馴れない世界ではあったものの、独自の活動をしておりました。そこに例の白ウサギが現れました。「絵が下手くそだ」「絵の描き方をオレさまが教えてやる」などと言って、スノーを泣かせました。「○○派なんか捨ててしまえ。もっと××派の巨匠の描き方を学べ。そのマネをしろ」などと、描き方指導と称してイジメたりしました。白ウサギは、「これはイジメなんかじゃない、みんなは正しく描けるようにスノーに教えてやっているんだ」とか言いながら、それまでスノーが描いてきた絵を悉く否定しました。スノーの存在意義すら否定しました。

白ウサギには、「アンタイ族」という「愉快な仲間たち」がいたのです。「アンタイ族」はクラウド内で個々に活動しながらも、何か騒動が勃発すると「いざ鎌倉」のごとく馳せ参じ、援護射撃してくれる心強い仲間たちです。これらアンタイ族は当然のごとく、少女スノーに襲い掛かりました。集中砲火を浴びせました。スノーはこの攻撃に耐えかねて、泣きながらクラウドを去って行きました。

スノーは自分の好きな絵を描きたかっただけなのに。他の人の描いている絵を理解しようと努めて、でも、「自分はこれが好き、こんな絵を描きたい、いや、描くのが自分の使命」と思って一生懸命描いていたのです。そんなスノーにイライラしたアンタイ族は、「どうしてみんなが教えてやっているのに、これが判らないんだYO!」と言って、スノーを追い詰めたのです。そして、スノーはクラウドから姿を消してしまいました。白ウサギは言いました。「折角親切で教えてやっているのに、これが判らないとはなんて愚かなヤツなんだ。所詮そういうヤツだったのさ」

アンタイ族の得意技は、ラビリンスじゃなかった(これは冗談)、「ラベリング」です。この時にも、ラベリングが行われました。「スノーは所詮~~」という具合に。アンタイ族に敵対するとか、反対意見を曲げないとか、そういう相手に対して最も有効な戦術がこのラベリングなのです。付けられた側はアンタイ族からは蔑みの標的とされるし、観察している低級モンスター族たちに「やっぱり~はそういうヒトだったのね」という印象を与えることができるのです。中々うまい戦術です。スノーのようにクラウドから姿を消してしまうと、こうしたラベリングを自ら消し去ることもできません。アンタイ族側が勝利するようにできているのです。


それから暫くして、アンタイ族周辺で小競り合いが勃発しました。アルファ級戦艦のガイ艦長が発射した曳航弾が問題とされたのです。あまりに輝きを放っていたので、まるで鮟鱇の光に誘き寄せられた小魚のように、釣られた者たちが集まってきました。中には、「どこを狙って撃ってるんだ」などとバカにする者が現れました。更に不運だったのは、アンタイ族の中では武闘派として最も恐れられていた、バーサーカーの「クルーダス」が問題海域に姿を現したことでした。低級モンスター族は拍手喝采で出迎えました。待ち望んでいた重量級同士の海戦が見られるからです。ガイ艦長はアンタイ族から「ラベリング」を受け、ロックオン状態となってしまいました。クルーダスは容赦なく主砲をぶっ放しました。そしてアンタイ族も援護射撃に加わりました。
「斉射!」
号令とともに、それぞれの主砲が火を噴きました。

こうしてガイ艦長は集中砲火を受けました。普通の級(クラス)の戦闘艦ならば瞬く間に轟沈するところですが、さすがにアルファ級だけあって素晴らしい耐久防御力を見せ、何とか持ちこたえました。しかし、一度ラベリングされてしまうと、自らは剥がすことができないのです。白ウサギも言いました。「あ~あ、ガイ艦長はアレで、ナニが…とかで…」

一方、戦闘海域外にいた駆逐艦のセキハ艦長はガイ艦長に理解を示し、小口径砲ながらも応戦しました。

――セキハ艦長は過去にアンタイ族とのバトル経験を有している、極めて稀少な艦長でした。その時の海戦は、非戦闘艦であったエンジョウ艦長への発砲事件に端を発したものでした。白ウサギはエンジョウ艦長に対して、スノー事件の時と似たようなことをしたのでした。これを傍で見ていたセキハ艦長は「許さじ」とエンジョウ艦長を援護したのでした。この時にも例のクルーダスが参戦してきていましたが、セキハ艦長は怯まずに応戦したのでした。他のアンタイ族は当然の如く白ウサギの援護射撃に回りました。この戦いを経てもセキハ艦長は生き延びました。駆逐艦は沈没することなく海戦を終えたのでした。――


ガイ艦長に理解を示したセキハ艦長は、ガイ艦長と同じくアンタイ族から「ラベリング」を受けることとなってしまいました。白ウサギは再び言いました。「あ~あ、セキハ艦長もアレなガイ艦長と同類につき…」


この他にも、アルファ級戦艦が数艦参戦した有名な海戦がありました。バーサーカーのクルーダスとアルファ級戦艦の艦長「デンパ」との激突で始まりました。デンパ艦長はアンタイ族ととてもよく似ていて、ラベリングの魔術師との異名を持つほどでした。当然クルーダスにもラベリングを施しており、外野とか教祖とか色々と付けていました。どうやら過去の遺恨があるためかもしれない、と人々は噂しました。デンパ艦長は他の学者たちや世間一般の人々さえもラベリングを施しているくらい、筋金入りのラベリングマニアなのです。激しいバトルが繰り広げられ、戦線は拡大して行きました。ガイ艦長の他、別なアルファ級戦艦のシゾ艦長も参戦して、壮絶な戦いが続きましたが、最後には第3国の「3者介入」となって終結しました。

この戦いは、クルーダスが「教科書通りではない」という謎の照明弾を高々と打ち上げた為に、かねてより腹に一物抱えていたデンパ艦長の探知網にまんまとかかったのが発端のようでした。デンパ艦長の「教科書の教え」射撃を受けながらも巧みに直撃弾を逸らし、クルーダスは持ち前のバーサーカー気質を発揮して、すぐさま応戦しました。しかし戦闘開始直後に、クルーダスは出力機関故障(チョコ国製の不利な条件だったらしい)によりスクリューが満足に動かない状況に陥った為戦闘力がややダウンしてしまい、戦闘海域より離脱を余儀なくされたようでした。実際には、その裏で停戦調停を3者に依頼していたので、終結準備に抜かりはなかったようです。クルーダス不在の間は、シゾ艦長が奮戦していたようでした。クルーダスの支援を受けつつ、アルファ級の名に恥じない奮闘ぶりを見せました。

デンパ艦長は、ザコ敵は全て似たようなラベリング攻撃で撃退し、狙いをクルーダス一点に絞っていました。その為には、ガイ艦長の参戦をも利用しました。シゾ艦長に対しては得意のラベリングで迎撃し、必殺技の「経済学の教え」攻撃で封殺しました。最終的には、停戦の切り札―デンパ艦長の「教科書の教え」攻撃を封じる為の3者介入―を外国に求め、これをクルーダスが提示したことにより、幕を閉じました。





変な物語だった?
大方の人々がそう思うことは間違いないであろう。それはご容赦願いたい。


こうした戦いを経ても、アンタイ族はラベリングを止めることはしない。それは、アンタイ族のコミュニティを守り、敵対勢力を明確にするのに好都合であり、低級モンスター族たちの支持を受けられるからだろう。ガイ艦長をラベリングして、彼の主張が「教科書の教え」にないことを非難するのであれば、本来的にはクルーダスの打ち上げた照明弾も同様に非難されるべきだろう。そうであるが故に、デンパ艦長の「教科書の教え」攻撃があったハズだ。しかしながら、アンタイ族の身内に対しては、ラベリングは行われない。

白ウサギにしても、ガイ艦長に理解を示したセキハ艦長にラベリングを行っているが、例えば「セクト」の危険性を一般大衆に区別させる現実的手段を白ウサギ自身持っているのであろうか。「プロの連中の努力が足りないんだ」とか自身で語ってるが、ニセ科学の危険性を論じる前に、カルトなんかを撲滅してきたのか。ニセ科学への攻撃性と同じくらい、セクトにその攻撃性を向けているのか。科学が悪事の道具に利用されることは、勿論阻止しなければならない(例えば、「○○を食べればガンが治った!」「××を飲めば糖尿病が治る」みたいなもの)。しかし、ガイ艦長やセキハ艦長にラベリングをする前に、科学と宗教について一般大衆にどれほどの啓蒙を行い、どういった示唆を与えてきたのか、甚だ疑問である。


*「アンタイ族」とは:

ネットに棲息する、「antisocial」な人々を言う。デンパ艦長のラベリングでは、アンタイ族の一部に対して「~派の品性」などと表現されることがある。白ウサギ、クルーダスは代表的なアンタイ族で、デンパ艦長はアンタイ族の亜種であるが、同類である。デンパ艦長は、アンタイ一族と敵対関係にある。
(鑑別基準は謎のスケールを適用しているので、詳細は不明である)

念の為に書くと、こうしたラベリングはアンタイ族のやっていることと同じである。彼らには、「鏡像」を(イヤな言葉だ…笑)見せてやらないと自覚できないという特性がある。ラベリングをされて不快なのであれば、自らもヤメレということだ。


えーと、ちょっと追加です。

白ウサギは「簡単なこと」を小難しく言う術を持っている、と書いたのだが、その面目躍如というところか。

例文1:AはBと同類である
例文2:AとBは同じメンタリティを有する

みたいな主張があるとする。
「型にはめる」ということは、例文1や2とは別としか思えない。
「型にはめる」というのは、同質化のような(言葉の選択が適切かどうか不明だが)、例えば「若いヤツラは携帯依存症だ」みたいなものかと思うが、違うのだろうか。

「型にはめる」を言うのなら、

・経済学者は拝金主義者である
・マラソン選手は毎日40km走らねばならない

みたいな主張なのではないか。それであれば、「練習方法を型にはめないでくれ」とか、「ひと括りで批判しないでくれ」ということは判る。けれども、『「型にはめるな」というちゃぶ台返し』などということを言い出すのは、何故なのか理解できない。「型にはめるな」などとは誰も言ってないと思うが。

これも話をボカすテクニックなのか?百戦錬磨の白ウサギに勝てるとは思っちゃいないが、ちょっとズルいと思う。例文1や2のような表現をするのは止めて欲しい、ということに決まっているのに、何でここで「原理的なちゃぶ台返し」が出てくるのか。話をすり替えているようにしか思えない。

批判するのであれば、批判内容を直に書けば済むことである。「Xの~という主張は間違っている」と明確に言えばいいではないか。発言内容が自己感情として不快なのであれば、「Xの発言は毎回間違っているので不愉快だ。金輪際議論しない」とか書けそうなものである。それを、「AとBは同類である」と表現することに、一体全体どういった狙いがあるのか。誰に、何を伝えるつもりなのであろうか。傍から見れば、「○○宣言」みたいなものとしか思えないのだが。


こういうことを書くことが、本当に余計なお節介だとは判っているが、低級モンスター族の中にはこういうのを手本にして真似するヤツラが必ずと言っていいほど出てくるからね。そういう行為は自粛して欲しいんですよ。


それにしても、当人が予期できないことを取り上げてラベリングするのは、一方的なものであることに変わりはないと思う。

例えば
・白ウサギはインテリもどき
・白ウサギは品性下劣

のようなラベリングを受けても、「当人にもその責任があるのだから、そういうレッテルは仕方がない」という主張をするのであろうか。

それとも、

・白ウサギはデンパ艦長と同類である

のような主張をされたとしても、それを受け入れると?


デンパ艦長の豪語癖は元々だろうし、ラベリングも人並み外れて得意なのだけれども、白ウサギも含めて、こういう連中のメンタリティは同じなのですな。デンパ艦長風に表現すれば、「昔からネットに巣くっている、弐ちゃん並みの知性と品性しか持たない連中」ということなんですか。なるほど、よーく判りました。これを実名で書かれても当然である、ということですね?>白ウサギ殿


しかし、こういう言論の程度を見るに、悲しくなるぜ。

昔はどうであったかなんてどうだっていいし、影響力があるからこそ、もうちょっとマトモに、紳士的に振舞えんもんなのかね。いい年した大人が、ってのは、まんま当てはまるのは自分だろうに。実名で書くヤツのメンタリティが信じられねえ。これはデンパ艦長も同じなんだが、よくもまあ、あんなにうまいこと(笑)ラベリングできるな、と感心するぜ。マジで。そういう言論が平気、というのも、これまた、不思議なんだが。



続・公取委の決断~追加部分

2007年03月11日 16時35分38秒 | 社会全般
談合事件で思い出したが、空港の問題というのもあって、これも依然問題は残されているであろう。昔ならば空港建設・国内線増やす・その関連事業でウハウハ、という政官業構造の典型例のようなものだろう。不採算地方路線で苦しむ航空会社の一部分は、こうした空港建設事業のツケが回ってきたと見えなくもない。日本みたいに狭い国土で、「空港、空港」と騒いで作ってきたヤツラってのは、本当に頭がオカシイんじゃないか、としか思えない。例えば、関空、伊丹、神戸、中部、と腐るほど空港を作って、「地方にも空港を」って陳情を繰り返すバカどものお陰で、莫大な投資資金と返済負担が残されたようなものだ。

空港へGO!


今から思うと、『バブルへGO!』みたいなタイトル(笑)だ。


石原都知事の参考人発言でも見られたように、「国会」ってのは悪い影響力を及ぼす政治家に媚びて、ばかばかしい決議やいい加減な決議なんかが本当にたくさんあるのだから。そういう連中が未だに国会に巣くっているし、官僚は天下りをして下らん組織やばかげた組織を延命させているのだ。その一方では、国立循環器病院の崩壊のような状況を生んでいるのである。こういうことを逐一国民が見ていかなければ、政治家たちというのは、自らの自浄能力だけでは中々変えられないのだそうだ。それは彼らの多くが、頭が悪いからであり、「ばかばかしい議員」「悪い影響力を持つ議員」なんかが混じっているからだ。そういうヤツラを選挙で叩き出さないと、良くなることはないのだ。

酷い国である。



公取委の決断

2007年03月10日 19時01分19秒 | 社会全般
先日の国土交通省への適用が、中央省庁では初めてであったそうだ。

asahicom:水門談合で国交省に改善措置要求 公取、OB関与も重視-社会

(記事より一部引用)

国など発注の水門工事を巡る談合事件で、公正取引委員会は8日、国土交通省の現職職員が落札予定業者を指示するなどしていたとして、官製談合防止法を適用し、同省に改善措置を要求した。同法に基づく改善措置要求は中央省庁では初めて。また、同省ナンバー2の技監経験者らが公益法人などに天下りして談合に関与したことを重視し、同省などに再発防止を求める要請をした。

 談合は同省のほか農林水産省、独立行政法人の水資源機構の発注工事でも繰り返され、石川島播磨重工業、三菱重工業、日立造船など全23社が加わったとされる。公取委は独占禁止法違反(不当な取引制限)があったと認定し、このうち14社に総額16億7千万円の課徴金納付を命令。15社に再発防止などを求める排除措置命令を出した。

 公取委が官製談合防止法を適用したのは、国交省が発注した河川用の水門工事や既設のダムの水門の更新工事。本省建設施工企画課の課長補佐と近畿地方整備局(旧地方建設局)の機械施工管理官(肩書はいずれも当時)の2人を、現職当時に落札予定業者を業者側に指示していたとして、同省に実名で通知した。




公取委はそれなりに頑張ったのではないか。何故なら、末端のザコを処分するのではなく、霞ヶ関本体に対して切り込んだからだ。国土交通省への官製談合防止法適用と改善措置要求に踏み切ったことは、できれば評価してあげて欲しい。大方の新聞社にとってみれば、例の「特殊指定問題」の遺恨があるせいなのか、あまり「公取委」の肩を持ちたくないのかもしれない(笑)が、公取委を評価する論調はあまり見られていないのでは、と思った。今回の件で多くの国民が快哉を叫んだりしないだろうが、頑張ったことは認めてあげることも必要なのだ。失敗の時はバッシングが燃え盛るのだが、うまくいっても頑張っても褒めることがなく、誰も知らないのである。それも悲しい。この前の会計検査院の話もそうなのだが、国民が応援してあげないと「強くなれない」と思う。


やや話が逸れたが、今後「談合事件」に対しては、主導したのが霞ヶ関のキャリア官僚であったとしても、「公取委としてはやりますよ、踏み込みますよ」というメッセージであろうと思う。昔ならば、非公式に「オタクはちょっと目立ちすぎですから、気をつけてくださいね」くらいでお茶を濁していたのかもしれない(あくまで想像です)。業者などの末端の方は摘発されたとしても、霞ヶ関本体にまでは到達しなかったであろう。それを出されてはウチとしても困るんですよ、みたいな世界であったろう。なので、キャリア官僚が処分されるということは滅多になかったであろう。せいぜいマスメディアに尻尾を掴まれるとか、ヘマをやった連中だけが「晒された」のだろうと思う。

しかし、公取委は昔よりも踏み込むようになった。省庁の「抵抗」に遭っても、「出さないわけにはいかない」と考えるようになったし、実際それを実行できるパワーを持つようになった。これは時代の変化なのか、政治的な変革の結果なのか、それとも、官僚機構の力の衰えなのかもしれない。ひょっとすると、これまで以上に国民の目が厳しくなってきたから、ということなのかもしれない。そうした世間の風潮には逆らえないから、という理由も考えられなくはない。

だが私は、公取委の変化を信じているし、公取委なりに取り組んでいることを感じている。昔ならば不可侵領域であったものを、自らの信じる正義に基づいて、公取委の存在意義を賭けて挑んでいるのだ、と信じたい。彼らは、国の、或いは行政機構の、「失われた信頼」を回復しようと努めているのである。何よりも、自らが「信頼される存在になりたい」と願っているのである。それが、多くの公務員たちを救済する―公務員バッシングを減らし、国民の信頼を得る―ことの近道になると考えているからだろう、と思うからである。


ゲームと手術

2007年03月09日 12時51分21秒 | 社会全般
「ゲーム脳」に代表されるように、これまでゲームに関しては色々批判が多かった。しかし、シリアスゲーム(山口氏は時々取り上げている、コレとか)は有効に活用できる可能性があるようである。特に「手術」というのは現実の影響が非常に大きいので、今後「バーチャルオペ」システムみたいなもの(シミュレータ?)が広く普及していく可能性はあるかもしれない。

参考記事:人生いろいろ


この実証研究というのもあるらしい。

手術はゲームのうまい医者にまかせたい 進んできた「シリアスゲーム」研究デジタル家電エンタメ-最新ニュースIT-PLUS

(記事より一部引用)

ニューヨーク市の病院では、セガの「スーパーモンキーボール」などのアクションゲームを使用した研修が実際に行われている。04年に発表された実証研究では、以下のようなおもしろい結果が出ている。

・1週間に3時間以上ゲームをした医師は、そうでない医師に比べ、手術中のミスが37%少なく、手術にかかる時間も27%短い

・過去にゲームをしたことがある人、あるいは今現在ゲームをプレイする人は、ゲーム経験がまったくない人よりも手術の結果がよい

・ゲームの経験やプレイの度合いが、医師としての経験年数、性別、利き手といったことよりも手術の結果を左右する変数になっている




詳細は不明であるが、ゲームを多くやった方が手術がうまい、ってことになるかもね、ということらしい(笑)。実際、そういった傾向があるのが現代医療の特徴でもあるかもしれない。アクションゲームが訓練に適したゲームなのかどうかは、よく判らないのであるが。


具体的に考えてみよう。
現代の医療行為の中には、ゲームに近い感覚で操作せねばならない場面はあるだろう。それは「別に「モニター」を見ながら器具を操作する」という行為を必要とするものだ。判りやすいのは、内視鏡とか、腹腔鏡のようなものであろう。術野を直視せずに、モニター画面を見て自分の頭の中に「仮想立体空間」を構築した状態で(つまり実物とは大きさも違うし、存在する場所や向きも違う)、手を動かし器具類を操作せねばならない。これはテレビゲームのコントローラなどの操作に似ているのであろう。ゲーム世代の方が上達するのは早いかもしれない、というベテラン外科医の実感―個人的に私が聞いただけです―があるくらいなので、ゲームと関係はあるのかもしれない。

この他にも、遠隔医療の研究などで登場する「ロボットアーム」のようなものがあるはずだ。これも遠く離れた場所で医師が画面を見ながら操作し、アーム類を通じて実際の患者の手術を行う、というものである。これもゲームといっては失礼であるが、シミュレータとほぼ同じようなものであり、外見上は何も違いなどないのかもしれない。ただ実際の手術や人体を経験しなければ、うまく使いこなせないのだろうけれども。


今後新たな手術法などの検討は、限りなくリアルなシミュレータによって可能になっていくかもしれない。医師の養成システムとしても、普及していく可能性が高いであろう。更にシリアスゲームの範囲は、拡大していく可能性があるだろう。昔の自作パソコンゲーム?などに見られた「原始的シミュレータ」は、ハード及びソフトの大幅な進歩によって、よりリアルなものが可能になってきた、ということなのではないか。

少なくとも「ゲームは悪だ」という固定観念からは脱却すべき、ということは言えるかもしれない。特に、抵抗感の強い人々には、有用な部分を素直に評価してみよう、という考え方を理解してもらえると更なる発展が期待できるのではないかと思う。