ふとしたことから野島秀勝の三島についての評論を読み、「拒まれた者の美学(1959年)」で、「仮面の告白」や「金閣寺」について作品の根底に流れている、拒まれた存在がその存在のままいることを望むというアンチテシスについてはなるほどと納得したのですが、その評論の最後では「潮騒」が失敗作と触れていました。
そういえば「潮騒」って三島文学の中では特異な小説だよな、と思い、何十年かぶりに読み直してみました。
こちら内容紹介。
昔に読んだ本(たぶん10代の頃)はどっかにいってしまったので、新しく買いました。最近の文庫本は字が大きくて読みやすいね。
内容で覚えていたのは、焚火のシーンと海女の競争のところだけ。他はほぼ忘れてる^^;
読み直してみると、他の三島作品とはまったく違います。純愛そのもの、汚れたところがまったく無いです。コンプレックスをもった登場人物は、千代子のみ、それも自分の容姿が気に入らないというだけで、その具体性については触れず。また、悪者と言えば安夫くらいですが、彼の中に見栄や甘えはあるものの、どろどろとした悪意は表出されず、むしろ間抜けなキャラ。全体に渡り、実にピュアな小説です。
初めて手にした三島由紀夫の本がこの「潮騒」であれば、読者は三島由紀夫に対するイメージを誤解する、、誤解というのは不適切な表現だけど、他にもっとこのような小説を読みたいと思っても見つからなくて困るでしょう。
三島本人は、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」と語っていますが、この「潮騒」は、「憂国」とは対蹠的な小説ではないかと思います。なぜならば、上記のエキス成分が希薄であると思われるからで、言い換えれば、三島らしくない。華麗な文体は三島そのものですが、キャラクターが全く、らしくない。
「潮騒」が刊行されたのは1954年、「仮面の告白(1949年)」と「金閣寺(1956年)」の間の作品に、なにかの連続性があるのではないか、もしかすると、「潮騒」で登場する歌島は、日本の縮図であり、三島が思い描く国家像ではないか、だとすれば小説内で出てくる恩寵は三島の後年の思想につながるのではないか、などと穿った見方も試みてみましたが、どうもそれらが的外れだったことは次の本を読んでわかりました。
「小説家の休暇(新潮文庫)」の7月29日に、「潮騒」について触れられています。
「私は自作「潮騒」のなかで、自然描写をふんだんに使い、「わがアルカディヤ」を描こうとしたが、出来上がったものは、トリアノン宮趣味の人工的自然にすぎなかった」とあります。
さらに、
「えがこうと思った自然は「ダフニスとクロエ」に倣った以上、こうしたギリシア的自然、ヒューペリオン的孤独を招来せぬところの確乎たる共同体意識に裏付けられた唯心論的自然であった。【中略】「潮騒」には根本的な矛盾がある。あの自然は、協同体内部の人のみた自然ではない。私の孤独な観照の生んだ自然にすぎぬ」
と、作品の矛盾に触れて、その後でその矛盾の発生理由に三島が協同体意識に入れなかったことを挙げています。
最後に、
「私の目で見たあのような孤独な自然の背景のなかで、少しも孤独を知らぬように見える登場人物たちは、痴愚としか見えない結果に終わったのである」
と、あります。
ああ、これぞ三島らしい、、、^^;
補足すると、この文章中では孤独が2つの意味で使われていて、ひとつは近代科学が唯物論として自然を捉えたことによる人間自身も唯物論で扱われることの孤独、もうひとつは古代における唯心論的自然の協同体に入れないヒューペリオン的孤独です。「潮騒」について三島が感じた孤独は後者なのでしょう。
三島が協同体意識に入り込めなかった理由は書かれていませんが、三島が三島である限り、このような協同体意識を持つのは無理なように思えました。
「潮騒」の新潮社文学賞受賞はひょうたんから駒?
こちら書誌情報。145刷して、現在は新版。
余談ですが、この作品は山口百恵と三浦友和が主演で1975年に映画化されています。このコンビでの最初の映画「伊豆の踊子」は観にいって、いくつか細かいシーンも覚えているのですが、「潮騒」は予告編程度のシーンしか覚えていない。観ていなかったのか、観たけど忘れたのか、、
さらに余談ですが、近年人気の釣り物、ショウサイフグは漢字表記すると潮騒河豚です。魚体が海面に出るほどの浅場に乗っ込んで、バシャバシャと音をたてながら産卵する様子が、潮騒を想起させることから名づけられたと聞いたことがあります。小才河豚との表記も見かけますが、こちらは当て字でしょうか。
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