愛と性の悦びと苦悩

後朝(きぬぎぬ)の文

斎宮(いつきのみや)は親元から、
くれぐれも丁重に
おもてなしをしなさい、
と言われていたものだから、
在原業平(ありわらのなりひら)を
心を込めてもてなしました。
朝には狩の支度を手伝って
業平を送り出し、
夕方戻ってくると、
斎宮はひとつ屋根の下の
“離れ”に彼を迎え入れたのです。
業平は初めて彼女の姿を
目にした時から逢いたいと
思っていたので
二日目の夜、
斎宮に密かに言ったのです。
「お逢いしたい」と。。。
斎宮も逢いたくない
と言えば嘘になる。
でも、とにかく人目が多く
思うに任せない。
業平は正使なので、
“離れ”と言っても、
斎宮の寝所の近くに
床をとっていました。
神に仕える女の身の上を思えば
逢うことなど絶望的でした。
業平はあきらめかけていました。
でも、なかなか寝付かれない。
ふと外に目をやると、
真夜中の朧(おぼろ)な
月明かりのなか、
童女を先に立てて人が立っている。
皆が寝静まるのを待って
やってきた斎宮でした。
業平は信じられないと思いつつも、
丁重に自分の寝所に
女を導いたのです。
それは、長いようで短い、
短いようで長い密会でした。
でも、じっと二人の様子を
見ていた者が居たなら、
およそ2時間ほど二人は
一緒に居たかもしれません。
斎宮は後ろ髪を引かれる
思いがありましたが、
それ以上一緒に居ることは
出来ないと思い帰ってゆきました。
業平にしてみれば、
もっと女を引き止めておきたかった。
まだ満足に語り合ってもいない。
業平は切なさに
一睡もできませんでした。
翌朝、業平の女に対する思いは
募るばかりです。
でも業平の方から
後朝(きぬぎぬ)の文を送るのは
常識はずれというもの。
向こうから何か言ってこないかと
業平が待ち焦がれていると、
空も明るくなってから
歌が届けられました。
君やこし
我や行きけむ
おもほえず
夢か現(うつつ)か
寝てかさめてか
【現代語訳】
あなたが来たのか
私が行ったのか、
夢か現実か寝ていたのか
覚めてたのか
私には何も分からないのです。
業平は女の心の迷いを
感じながらも、
互いに衣を重ねて
共寝した密やかな睦事を
女が夢心地で
受け止めているのを感じて
涙が出るほど
ジーンときたのでした。
業平はさっそく
自分の思いを歌に詠んで
女の元に送り届けたのでした。
かきくらす
心の闇に
まどひにき
夢うつつとは
こよひ定めよ
【現代語訳】
心乱れて私も
よくわからなかった。
夢か現実かは
今夜ご確認なさっては
いかがでしょうか。
業平は、このように
「今夜も逢いたい」と詠み送って、
狩りに出たのでした。
野に出てからも
業平は上の空です。
「今夜こそは
早く皆をやすませて逢おう」
などと思っているのでした。
そこへ、狩の使(業平)が
来ていることを
聞きつけた伊勢守が、
饗応を申し出たのです。
翌朝になれば業平は
伊勢を発たねばなりません。
今夜は何が何でも
斎宮と逢いたい。
でも、伊勢守は
斎宮寮頭という役職も
兼ねているので断りきれない。
結局、業平は斎宮に逢えぬ
辛さを隠したまま、
伊勢守らと酒を酌み
交わすのでした。
夜もしらじら明けそめた頃、
斎宮方から業平のもとへ
盃が差し出されました。
見れば、上の句のみの歌が
書き添えてありました。
かち人の
渡れど濡れぬ
えにしあれば
【現代語訳】
渡っても濡れもしない
浅い江のようなご縁でしたわね。
男は、続き(下の句)を
松明の燃え残りの炭で
書き付けました。
また逢坂の
関は越えなん
【現代語訳】
でも、いつか必ずや
お逢いできましょう。
そのような思いを伝え、
その朝、業平は尾張国へ
旅立っていったのでした。
参考書: 『伊勢物語』(講談社文庫)
デンマンさん。。。、今度は、在原業平(ありわらのなりひら)と斎宮(いつきのみや)が愛し合う様子を分かりやすく解説してくださったのですわね。
そうですよ。二人がやり取りし合う歌が、説明無しでは何の事だか良く分からないでしょう?正直言って僕だって良く分からなかった。だから、僕自身がじっくりと味わいながら、こうして書いてみたんですよ。僕の説明でレンゲさんにも分かってもらえましたか?
ええ。。。なんだか、しんみりとした話の内容の中にも、斎宮の秘められた熱い情熱が感じられて、あたしもなんだかジーンと来ましたわぁ。
ほう。。。ジーンと来ましたか?
ええ。。。伊勢物語って、このようにじっくりと味わうような恋物語もあったのですわね?
そうですよ。。。と、言っても僕だって実はこうしてじっくりと味わいながら、この恋物語を読むのは初めてなんですよ。
デンマンさんも初めてなのですか?
もちろん、伊勢物語を学校で勉強しましたよ。でもね、高校の古文の時間に勉強した時には、僕は隠れて“早弁”していましたからね。
早弁ですか?
そうですよ。レンゲさんは高校時代に早弁しませんでしたか?
早弁ってなんですの?
早弁を知りませんか?お昼の時間前に弁当を食べる事ですよ。
授業中にですか?
もちろんですよ。教科書を立てて、弁当を隠しながら、先生が黒板に向かって書いている時にコソコソと弁当を食らい込むんですよ。これがまたぁ~、実にうまいんですよねぇ~。うひひひひ。。。
でも。。。でも。。。先生に見つからないんですの?
先生だって分かっていますよ。なんつったって、匂いは隠せませんからね。でもね、先生だって、高校生が腹をすかせているのが良く分かっている。それに、先生自身も高校生の頃に早弁した経験があるに違いない。だから、知っていても知らないそぶり、見ても見ないそぶり。。。そういう先生でしたよ。あまり、大胆には食べる事は出来ないまでも、お互いに生徒の立場、先生の立場を理解しあいながら、たぬきと狐の化かし合いみたいなところがありましたよ。今から思い出すと懐かしいです。古文の先生の優しい笑顔が思い出されますよ。
あたしが高校生の頃は、とてもそのような事など出来ませんでしたわ。
どうしてですか?
どうしてって。。。厳しい学校でしたから。。。
そう言えば、レンゲさんは坂田さんと恋愛問題を起こして退校させられたのでしたよね?
あらっ。。。そう言う事は、デンマンさんは良~く覚えているのですわねぇ?
忘れる事が出来ませんよ。だってねぇ~、レンゲさんの恋愛事件はあまりにも劇的ですよ。
そうでしょうか?
そうですよ。だってねぇ~、学校にゆくと言って家をでて、授業をすっぽかして坂田さんの家で愛し合っている。そんな事をしていれば、すぐに分かってしまいますよ。
だから、若気(わかげ)の至りでした。
でもねぇ~、いくら16才の乙女でも、そんな事をしていれば、不良娘のレッテルを貼られて退学になる事ぐらい分かっていたでしょう?
デンマンさんには分からないと思いますけれど。。。あたしは教育という名の虐待を受けて、無理やり勉強させられていたのですわ。自由が保障されている世界に居て、あたしにはその自由がなかった。息詰まるような毎日でしたわ。しかも、母からは愛情を感じる事も無く、父は居ても不在のような家庭でした。そのような中であたしは坂田さんに抱かれて初めて愛を知ったのですわ。
だから劇的だというのですよ。ロマンチックを通り過ぎて。。。ドラマチックも通り過ぎて。。。なんというか、常識破りの恋愛事件ですよ。