播磨灘物語(PART 1)
件名:小百合さん、おはよう!
元気いっぱいで
楽しく夏を過ごしてね。
きゃはははは。。。
Date: 03/08/2010 12:05:38 PM
Pacific Daylight Saving Time
日本時間:8月4日(水曜日)午前4時5分
From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
CC: barclay1720@aol.com
日本の猛暑・酷暑は一つの山を越えたのだろうか?
17日間で82人が熱中症で死亡したというようなニュースを見ましたよう。
カナダでは、まだ一人も熱中症で亡くなったというニュースはないですよう。
やっぱり、猛暑・酷暑に関する限り、カナダはパラダイスですよう。
小百合さんがバンクーバーにやって来たら、もう、天国ですよう!
きゃはははははは。。。
今日のバンクーバーは晴れてはいるのだけれど、雲がうっすらとかかって、ちょうど春先の花曇といった感じですよう。
気温21度です。
空気は澄んで、実に快適ですよう。
もちろん、こうしてメールを書いている限り、汗ばむということもありません。
カラスの巣は相変わらず空っぽだけれど、その周りの青葉はお日様に照り輝いています。
セミが鳴かないので、夏らしくないのですよね。
日本の夏を知っている人には、バンクーバーの夏は物足りないかもしれない。
では、今日も一日ルンルン気分で過ごしてね。
最近、寝る前に司馬遼太郎の「播磨灘物語」を読んでいますよ。
夕べも読みました。
福岡・黒田藩を起こした黒田勘兵衛こと、小寺勘兵衛の物語だけれど、面白いですよう。
つまり、人生とは何か?
その事を語っています。
もちろん、小百合さんと夢とロマンと愛の物語を語ることこそ人生なのですよう。
きゃはははははは。。。
では、小百合さんが軽井沢タリアセン夫人になりきってルンルン気分で楽しく過ごせるように次の記事でも読んでね。
■『ルンルン気分 (2009年8月3日)』
じゃあねぇ。
デンマンさん。。。今日はデンマンさんが読んだ「播磨灘物語」のお話ですか?
小百合さんは、なんだかつまらなそうですね。
別に、つまらないと思っている訳ではありませんけれど、歴史に関心のない人はつまらないと思いますわ。
歴史に興味のない人でも面白い話をしますよう。
たとえば、どのような。。。?
あのねぇ、僕のふるさとの埼玉県行田市が出てくるのですよう。
マジで。。。?
もちろん、冗談でも、でまかせでもありませんよう。。。たとえウソをついても、すぐにバレてしまいますからね。
でも、播磨灘物語というのは昔の播磨の国の物語なのでしょう?
まあ。。。そう言う事ですよう。
だったら、現在の兵庫県のあたりのお話でしょう?
小百合さんも、けっこう詳しいのですね。
その程度の事ならば学校の歴史の時間に勉強しましたわ。
でもねぇ、マジで行田が出てくるのですよう。小百合さんのためにここに書き出します。読んでみてね。
余談ながら、水攻めについては後年、石田三成による関東忍城攻めのときに、秀吉の備中高松城攻めにおける成功をそのまま模倣した例がある。
まったくの模倣といっていい。
天正18年、秀吉が関東の北条氏を屈服させるために小田原城をかこんだ。
このとき北条方に加担した関東の小勢力のなかに、忍城の城主成田氏長がいる。
成田氏長はみずからは小田原籠城に参加し、家老(成田泰李ら)を守将として忍城を守らせた。城兵わずか五百余とされる。
これに対し、秀吉は一支隊を派遣し、包囲させた。
支隊とはいえその人数は関東の地元勢力を加えていたから二万を越えた。
その支隊長ともいうべき軍奉行が、秀吉によって抜擢された石田三成だった。
(中略)
三成はそれに応えるべく気負(きお)うのだが、結局は忍城攻めで醜態ともいうべき失敗をし、豊臣家の緒将から、武の面で軽蔑される因果を背負うにいたる。
忍城は、いまの埼玉県行田市にある。
室町末期にできた城だが、もともと沼地であった土地に築かれた。城のまわりは深田であるという点、備中高松城に似ている。
---水攻め、然るべし。
と三成が決心したのは、三成の秀吉への憧れと無縁ではないかもしれない。
忍城の南を荒川が流れている。これは備中高松城における足守川であった。備中高松城では背後左右は山であるため自然の堤をなすが、忍城の場合は一望の平野である。ただ北方に利根川が流れている。三成はこの二つの川のあいだに堰堤(えんてい)を作ろうとした。堰堤の長さは三里であり、秀吉の場合の三倍であった。
(中略)
そのうち大雨が降ったことも備中高松城における場合と同じだが、ただちがうのはその大雨で堰堤が切れ、水が逆に三成方の陣地にどっと流れこんだことが異なっている。このため逆に三成方に多数の溺死者を出し、結局、三成は忍城を無傷のまま包囲側が敗退ともいうべき撤収を行わざるをえなかった。
107-108 ページ 「播磨灘物語 (下巻)」
著者: 司馬遼太郎 発行所: 株式会社講談社
1976(昭和51)年7月3日 第15刷
デンマンさんの祖先の騎馬武者は、この時忍城の五百余名の中の一人だったのですか?
そうなのですよう。。。小百合さんはよく知ってますねぇ。
デンマンさんが書いた次の記事を読みましたわ。
デンマンの祖先は百済からやって来た
僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。
それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?
後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。
つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?
難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。
それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?
そう言う事ですよう。
。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?
そんなモノは残っていませんよう。
。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?
僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。
その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?
“海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。
つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?
そうですよう。
でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?
その通りですよう。
。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?
全く、その通りですよう。。。うしししし。。。
『韓国からようこそ!(2010年8月4日)』より
小百合さんは読んでくれたのですか?
だってぇ、デンマンさんはわざわざメールにまで書いて「読んで欲しい」と言うのですものォ~、読まないわけにはゆきませんわ。
あのねぇ、小百合さんはつまらなそうに言うけれど、忍城の水攻めの話は小百合さんとも関係があるのですよう。
私の祖先が関係していると、デンマンさんはおっしゃるのですか?
いや。。。小百合さんの祖先じゃなくて小百合さん自身ですよう。
私がどう言う訳で忍城の水攻めと関係があるのですか?
やだなあああァ~。。。もう、すっかり忘れてしまったのですね?
私が何を忘れているのですか?
やだなあああァ~。。。小百合さんはマジで忘れてしまったのですね?
だから。。。私が何を忘れているのですか?
あのねぇ~、忍城の水攻めの時に石田三成が本陣を置いたところが丸墓山だったのですよう。その場所へ僕は小百合さんを案内したのですよう。
あらっ。。。そのような事がありました?
ほらねぇ。。。小百合さんは完全に忘れてしまってますよう。んもお~~。
たまには忘れることだってありますわ。
じゃあねぇ~、次の記事を読んで思い出してくださいね。
僕が小学生の頃は、この城が建っている所は行田市本丸球場だった。球場と言ってもグランドがあるだけで、観覧席などは何もなかった。
いつ上のお城が建ったのですか?
1988(昭和63年)年の2月にグランドを移転して、その跡に行田市郷土博物館が開館した。上の御三階櫓は、その時、博物館の一部として復元されたのですよう。ただし、外観や構造は実際にあった建物とは関係ないのです。位置も史実とは異なり、内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室になっています。
お城は太平洋戦争の空襲で焼けてしまったのですか?
いや。。。違うのですよう。明治維新の後、廃藩置県で忍県ができた。埼玉県ができる前です。その時の県庁が二の丸に置かれたのですよう。お城はその時にはあった。
。。。んで、その後どうなったのでござ~♪~ますか?
忍県が埼玉県に吸収合併された時に明治政府の命令で完全に破壊しつくされたのですよう。
なぜ。。。?
あのねぇ~。。。忍城は“忍の浮き城”として難攻不落の城だった。関東七名城の一つですよう。1590(天正18)年の豊臣秀吉の小田原征伐の時、忍城を攻めたのは、あの有名な石田三成。城主の成田氏長は小田原城に出向いて忍城を留守にした。でも、家臣と農民ら三千の兵が忍城に立てこもった。総大将の石田三成は、僕が子供の頃よく遊んだ丸墓山(埼玉古墳群の一つで、日本最大の円墳)に本陣を置き、近くを流れる利根川を利用して水攻めを実行した。
丸墓山の登り口
山頂から忍城(おしじょう)方面を望む
晩秋の丸墓山
(登り口の右側より撮影)
長さ28kmにも及ぶ“石田堤”を築いて、水を流し込んだ。でも、忍城はついに落城しなかった。
それで。。。?
後北条氏の拠点である小田原城が先に落城したので、話し合いの末、開城することになった。その後、徳川家康が忍城を手に入れたのですよう。
つまり、明治政府が壊さなければ、忍城は現在まで無傷で建っていたのでござ~♪~ますか?
そうですよう。
それなのに、どうして明治政府は壊してしまったのですか?
明治政府は、まだ日本全国を統治する自信がなかった。もし、明治政府に反抗する者たちが忍城に立てこもって反乱を起こしたらどうなるか?
明治政府は小田原征伐の時の石田三成の失敗を思い起こしたのでござ~♪~ますか?
そうですよう。事実、埼玉県では明治政府に対して大掛(おおが)かりな反乱事件が起きた。
『「田舎教師」と行田』より
(2009年9月18日)
(すぐ下のページへ続く)