銀幕の愛(PART 1)
原節子
「東京物語」撮影の一コマ
笠智衆 小津安二郎・監督 原節子
この作品(『東京物語』」)を通じて最も強く感じたのは小津と原節子の間にくりひろげられた一種の暗闘だった。
原節子というと“大輪の花”のようなという枕詞(まくらことば)がよく使われた。だが、私の思い出す原節子は違う。背骨をはさんで二列にびっしりとトクホンが貼ってあった。背中がうつる本番前には必ず私を手招きして、念を押すように、
「高橋さん、背中、大丈夫ね」
という原節子だった。
『東京物語』は真夏の話である。原は純白のブラウス一枚で出演することが多かった。当時、衣装の下をすかして体の線を狙うような照明は使われなかった。薄物一枚でも衣服は衣服としてうつす。背中のトクホンがうつる心配は絶無といっても良かったが、そこは演技の質といい、人気の高さといい、並ぶ者のない地位にあった原の誇りが許さなかったのだろう。
(中略)
初めての日、トクホンの白さを見た時私はわれにもなく立ち止まってしまった。原が背中ごしに振り仰いだ。
「お願い、気をつけてほしいの」
あの、全国を魅了した、音を立てて来るような笑いがその言葉に続いた。トクホンへの説明は一切なかった。だが、二列で確か八枚のトクホンは原の癒しようのない疲労の深さを如実に感じとらせた。
小津の死に殉ずるかのように原はあらゆる公的な場から身を退(ひ)いてしまった。
(中略)
あらゆる人との接触を頑(かたく)なに拒む背後になにがあるのか。それはもう探りようもないだろう。
しかし、誰にも疑いをさしはさむ余地のない事実がひとつだけある。
小津安二郎あっての原節子であり、原あっての小津だったということだ。
世に監督と俳優のコンビは少なくない。
溝口健二と山田五十鈴。同じ溝口と田中絹代。
黒澤明と三船敏郎。黒澤と志村喬。
木下恵介と高峰秀子。
小林秀樹と仲代達也。
小津自身にも、笠智衆があり杉村春子があった。
だが、二人のどちらが欠けても駄目であった例は小津と原以外にない。
意外なことだが笠の演技賞は総て他の監督との組合せで得られた。
この事実が示すように笠は小津以外との仕事でも力を発揮した。
しかし、原には小津以外にこれぞ原節子という仕事はなく、小津の戦後の傑作は悉(ことごと)く原によって作り得たものだった。
それだけの二人であれば、なにもかも呑み込み合って、僅かな水洩れもない関係が想像される。
だが実情は違っていた。
信頼を持つゆえの厳しさを、小津は原に対して常に持ち続けていたように見える。
61-62ページ 「絢爛たる影絵 - 小津安二郎」
著者: 高橋治 2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社講談社
『厳しさの中の愛の絆』に掲載
(2010年8月20日)
トクホンが原節子さんの気苦労のすべてを物語っているのですわね。
その通りですよう。 トクホンを背中に貼れば撮影の時にフィルムに映ってしまうかもしれない。それを原さんもかなり気にしていたのですよ。 女優の誇りとして、トクホンなど貼りたくなかったに違いない。それにもかかわらず、トクホンを貼らずにはいられないというところに、特訓を受けた大坂さんの汗で畳一枚を取り替えねばならなかったほどに、原さんも精神的な気苦労を感じていたのだと僕は思うのですよう。
小津の死に殉ずるかのように
原はあらゆる公的な場から
身を退(ひ)いてしまった。
ところで、小津監督の死後、原さんはどうしてあらゆる人との接触を断ってしまったのですか?
もちろん、僕に原さんの本当の理由が分かるわけがない。。。でもねぇ、僕は中国の故事を思い出すのですよう。
どのような故事ですか?
「琴の緒を断つ」という故事ですよう。断琴(だんきん)とか絶弦(ぜつげん)とも言われる故事です。
琴の緒絶ゆ(ことのおたゆ)
中国の春秋時代、琴の名人伯牙(はくが)が、友人の鍾子期(しょうしき)が死んだとき、もはや自分の琴を理解する者が居ないと言って琴の緒を絶ち、生涯琴を弾かなかったという。
「呂氏春秋」本味の故事から
親友・知己に死別するたとえ。
琴の緒を断つ。
伯牙断琴(はくがだんきん)
伯牙絶弦(はくがぜつげん)
上の説明を読めばレンゲさんにも分かるでしょう?
つまり、原さんにとって自分を本当に理解してくれる人は小津監督しか居ないと思いつめたのですか?
高橋さんも本の中で次のように書いていますよう。
二人のどちらが欠けても駄目であった例は
小津と原以外にない。
つまり、原さんと小津監督が働く現場で感じ取っていた“銀幕の愛”は、信頼に育(はぐく)まれた愛の絆なのですか?
その通りですよう。
でも、それだけの愛の絆を感じていながら、小津監督は独身を通し、原さんとも結婚しようとはしなかったですよね?
そうです。
なぜですか?
う~~ん。。。核心にせまる質問ですねぇ。。。もちろん、僕に真相が分かるはずがないじゃありませんか。
でも、答えが見つからなかったら、デンマンさんはこの記事を書き始めなかったはずですわ。
ほおォ~。。。さすがに丸々6年の付き合いのレンゲさんですね。僕のことが良く分かるようになりましたね。うししししし。。。
そのような事はどうでも良いですから、細木数子さんのようにズバリ!とおっしゃってくださいな。
あのねぇ、あまりズバリ!ズバリ!と言うと細木数子のようにテレビ番組から降ろされてしまうのですよう。
でも、デンマンさんはテレビに出ているわけではありませんわ。
いや。。。テレビだろうがブログだろうがまったく同じですよう。あまりズバリ!ズバリ!と言うと誤解を与えてしまうのですよう。やっぱり、誰でも良く分かるように、分かり易く話さなければ。。。
分かりました。。。では、分かり易く話してくださいな。
まず、次の興味深い小文を読んでください。
東宝のプロデューサー佐藤一郎が面白いことを話してくれた。
「小津さん、原さんの二人と一緒に飲む機会が二、三度あったけれどね、印象をひと言でいえば、あの二人は夫婦のような感じに見えるんだよ。でも、なんというのかな。あっちの方はもう絶えてなくなってしまった夫婦なんだな。でも、宿命で夫婦のままでいるとでもいうのかな」
原にとっては小津ほど自分を見事に生かしてくれた人間はいない。だが、小津ほど遠い人間もいない。監督と女優であることは、まさに夫婦にも通ずる時間を共有して、相互の人生にとってかけがえのいないものを作り出す。だが、この二人は互いに欠くことのできない両輪の宿命下にありながら、ついに命の歓喜を伴う理解には辿りつけなかった。
ある時夫婦の間ほど遠い人間関係はないように。
昭和26年11月の日記の欄外に小津はこう書いている。
“このところ原節子との結婚の噂しきりなり”
前後に、関連する記述は全く見当たらない。克明な文字で書かれた日記を読み進んでいくと、突然出てくるこの記述は、自分には全く無関係なゴシップを書きとめたかのように読める。
小津の死は頸部(けいぶ)の腮源性癌腫(さいげんせいがんしゅ)によるものだが、二度の入院の間に自宅で病臥(びょうが)していた時期がある。
それを見舞った原が小津の寝ていた煎餅蒲団(せんべいぶとん)に驚いた。翌日、原から御見舞いにと分厚い蒲団のひと組が届けられた。
「こんな馬鹿げたものに寝られるかい」
小津は見向きもしなかった。薄い蒲団に寝るのが好きだったのである。
この話を現実に疎いスター特有の分別の浅さととることは易しい。だが、原の心情を慮(おもんぱか)ってみよう。
自分に永遠の生命を吹き込んだ小津が、煎餅蒲団にくるまって数多い見舞い客に接することは、思うだに耐え難かったのではないだろうか。
それにしても人を理解することの難しさを思い知らされて、このエピソードは、ただ、苦い。
小津の死に接してあたりはばからずに号泣したのが杉村(春子)と原だった。
杉村の悲嘆は澄明(ちょうめい)である。
だが、原の泣き声には様々の語りつくせぬものがこめられていたように思える。
釣糸は一度絡み合うと、解き目もわからぬほどによじれる。
原の思いが、私にはそう見える。
そして、それは、小津が原に思う様に泣くことを許した唯一回の機会だったのである。
二人の宿命の出会いがどのように訪れたかを明らかにすることは難しい。
小津は死に、原は口を閉ざした。
75-76ページ 「絢爛たる影絵 - 小津安二郎」
著者: 高橋治 2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社講談社
この上の文章を読むと、あたしには原さんの気持ちが手に取るように分かりますわ。でも小津監督の思いの内が全く理解できません。
具体的に、どういうところですか?
“このところ原節子との結婚の噂しきりなり”
突然出てくるこの記述は、自分には全く無関係な
ゴシップを書きとめたかのように読める。
この部分ですわ。。。まるで小津監督は自分の死後に日記が読まれることを計算に入れたように、わざと原さんに対する愛情の欠片(かけら)も無いように書いているように見えるのですわ。
う~~ん。。。なるほどね。
この無感動、無関心とも言える小津監督の気持ちをデンマンさんは説明できますか?
う~~ん。。。難しいなァ~。。。でも、小津監督の気持ちが分かるような気がしますよう。
どのように。。。?
実は、原さんが小津監督の映画に出演している時に、小津監督には関係を持っていた女性が居たのですよう。
マジで。。。?
本の中には次のように書いてありますよう。
某という女の人がいる。小津との間に男女の濃密な年月があった。恐らく、栄女との愛を二人が埋め去って、貴重な理解を手にした頃からだろう。あるいは数年を経てからかもしれない。いずれにせよ、秋三部作の頃、その人は小津の身辺にいた。
その人は撮影所に近い世界にいたが、所内の人ではない。だが、あることで私はその人を知っていた。インタヴューの申し入れにひどく慎重にその人は対処した。
(中略)
私が一番聞きたかったのは、二人きりになった時小津を、その人がどう見ていたかということだった。聞く言葉を選ぶより早く答えが返って来た。
「二人きりになって、甘えたと言う記憶が全くないんです。先生が全然そんなところを見せなかったからだろうと思います」
常の男なら女の胸にあずけられるものも、あるがままに見せることは下衆(げす)と小津は秘め抜いてしまったのだろうか。それとも、見せるのは生涯栄女一人と小津が厳しく自分を持したのだろうか。
(中略)
「…愛するっていう言葉を一度も聞いたことがないんです」
いうと同時に、見る見る目がうるんだ。堰を切ったようにいうことが乱れ出した。
「通常の男女の手続きは一切かけていました。ただ、伸びて来る手があるだけ…。でも、本当は私のことが好きだったんです。… 天下の小津安二郎にはふさわしくないと思っていたんでしょう。それが感じられる分、私も意地になって、私のことを公にしろとは言えなかったのです。… 多くの人があの人をとりまいていたでしょう。気づかれてたまるかと一生懸命背骨をまっすぐにして。でも、誰かが気づいてほしい。引っ込みがつかないほどの噂になってほしい。いつもそう考えていました」
(中略)
「便利な女だったんですね。…私って、あの人にとって」
(中略)
男と女の間では、濃密な年月を持った事実が、千万言の愛の言葉よりも、世間的な体裁を整えることよりも遥かに深い。小津はそんな不逞なことを考え兼ねない男だ。しかし、女の人にそれをわかれというのは無理だろう。
聞くだに辛いことがある。小津の第一回目の入院も、再入院も、その人は人伝の噂で聞かされた。一般の見舞い客のような顔で枕頭(ちんとう)に立つまでに何日もの日が流れた。その人は一人きりで病む小津をみとった時間は全くない。
小津の日記は事実だけを簡潔に書きとめたもので、感情的な記述が殆どない。乾ききっている。
その人のことを書きとめる時にも、この原則から外れなかった。
ただ一ヶ所だけ例外がある。
“X女泣く” 昭和30年のある日にそう書かれている。
勿論、なにを訴えて泣いたのか小津は書いていない。
207-210ページ 「絢爛たる影絵 - 小津安二郎」
著者: 高橋治 2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社講談社
これを読むと小津監督の心は核心のところで冷たいのではないか? その人を本当に愛していたのか? あたしは、なんだか腹立たしくなりますわ。
あのねぇ~、小津監督は古いタイプの日本男児なのですよう。だから、上にも書いてあるように次のように思っていたのですよう。
男と女の間では、濃密な年月を持った事実が、
千万言の愛の言葉よりも、
世間的な体裁を整えることよりも遥かに深い。
でも、小津監督はその人と都合の良いときだけ肌を合わせて、結局、使い捨てにしたように思いますわ。 最後に二人だけの時間を持たなかったと言う事が、小津監督の身勝手を物語っているような気がしてなりません。
確かに、そのように受け止められても仕方がない所があるのですよう。。。たとえば次のようなエピソードもある。
中井益子、佐田啓二夫人について語る時が来たようだ。小津の愛は総て絶望の方向を指すとも書いたが、益子の場合にもその例に洩れない。というよりも、益子がその最たる例だといった方が正しいのだろう。
撮影所の正門を出たすぐの四つ角をこえた右側に「月ヶ瀬」という店があった。小津の巣であったことは書いたが、風呂から寝泊りの面倒まで見たのでもわかるように、食堂と客という関係でものを考えると実情とだいぶ違って来る。
(中略)
ためたいだけ勘定はためる。そのくせ客の側は営業時間のことなど全く念頭に置かない。いわば食堂を兼ねたサロンとして好きなまま使う。今にして思えば、よくあれで営業が成り立ったものだと案ぜられるほどのひどさだった。店の側も撮影所の一部門と諦めきっていた節がある。良き時代の話なのだ。
小津の場合は更にひどかった。客として無茶の限りを尽くす上に、娘の益子を私設秘書同然に使った。北鎌倉の自宅は勿論、茅ヶ崎館、はては蓼科(たてしな)の雲呼荘(うんこそう)と、電話一本で呼びつける。文字通り顎(あご)で使うのである。それでいて益子にものを買ってやることはあっても、小づかいは勿論、電車賃も払わなかった。
(中略)
現金では購(あがな)えない精神的なつながりだと一方的にきめこんでいたのではないかと思われる。
それだけに小津は益子を信じきっていた。独身の小津が娘盛りの益子を平気で旅に連れ出す。勿論、周囲は色めいた。京都への旅では、溝口健二が勝手に益子を小津の結婚相手ときめこんだことがある。
「溝(みぞ)さんがな、結婚祝いをくれるというんだ。貰っとくからな、黙ってろ」
小津は益子にそういって悪戯(いたずら)っぽく笑った。旅先では同じ宿に泊まる。溝口が誤解したのも無理はないのだが、小津は益子に手も触れなかった。
「俺は素人の娘はだめだよ」
小津はそういう。駄目なものなら連れ出さなければよいのだが、益子は美しかった。その美しさの頂点の時期にあった益子を身近に置く楽しさと、厳しい自制の間で小津は揺れていたのだろう。
小津45歳、益子20歳だったという。
245-248ページ 「絢爛たる影絵 - 小津安二郎」
著者: 高橋治 2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社講談社
小津監督は自分に対して掟(おきて)を設けていたのですよう。
つまり、素人の娘には手を出さないということですか?
そうですよう。
男と女の濃密な関係を持ったというエピソードの中の女性は「水商売の女」だとデンマンさんはおっしゃるのですか?
その通りです。。。本の中ではそう明言してないけれど、暗に「水商売の女」だと書いていますよう。
それは「水商売の女」を馬鹿にしていることですわ。
小津監督は「水商売の女」を決して馬鹿にしていたわけではない。ただ割り切って付き合っていただけだと僕は信じることができますよう。それが「俺は素人の娘はだめだよ」という言葉に表れている。
つまり、原節子さんに対しても小津監督は「素人の娘」と決めていたのですか?
その事については本の中で次のように書いてありますよう。
(すぐ下のページへ続く)