クラシック鑑賞 19 (PART 1)
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デンマンさん。。。、どういうわけでオイラと たびたびクラシック鑑賞するのですかァ~?
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実は、僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。
それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?
オマエは不満なのォ~?
いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るような気持ちです。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?
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あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!
分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのクラシックの曲を鑑賞するのですか?
オマエが“後奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!
A.6 Ludwig van Beethoven (1770 – 1827)
P. Boulezは、L.v. Beethovenに於いては、対位法と和声の対立が目立つようになり、彼の晩年の作品に顕著なのは、線的な堆積によって生じたものの垂直的な管理と、旋律線のもたらす音程的な諸要求との間の激烈な闘争である、と考えることが可能である。Beethovenは、彼の性格にしたがって、これら二つの書法上の様相の間の闘争をdramatiqueに解決するが、…… と書いている(Relevés d’Apprenti)。
ところで、<彼の性格>とは、如何様なものであろうか。一寸だけ、考える楽しみに耽りたく思う。
私の想像ではあるが、Beethovenは、他人の咎を、その人を軽侮して許す、ということが如何に容易、安易であるかを知っている側の人間であった、と思われるふしがある。許せないから彼は怒る。言うべきことを言えば、他と対立する。無論、最善は、軽蔑することなしに他を許すことである。そうしたことの出来る、まさに、業が浅い、としか言いようのない人も実際にはいるものであるが、その最善の対応がとれない人は、次善をとらざるを得ない。つまり、他人を自分よりは低く見ることができないが故に許せない、といった立場である。これは、少なくとも、軽侮して人を許す、という偽善、西欧では、これをnoblesse obligeなどと言うが、それよりは純粋である。他を見下して、なおかつ、許さない、つまり、西欧による植民地支配の背後にある、いわれのない傲慢さ、というところにまで行ってしまえば、それは、人であろう。
困ったことには、Beethovenの遭遇する立場での彼の対応、人を侮蔑しないAND許さない、は多くの場合に自他共に苦しまねばならない、という唯一の組合せなのである。いや、それよりも、彼が拘ったのは、軽蔑せずに人を許す、ということは、軽蔑して人を許す、ということと、この世の中では、結果として、同じmessageを他の人々に発信して与える、という事実ではなかったか。
彼の作品番号のついた最後の作品<<Streichquartett in F-dur>>(Op.135)の終曲の冒頭には、Der schwer gefasste Entschluss、そして、grave ma non troppo trattoの最初の三つの音の下に、Muss es sein?、更に、allegroに入っての最初の三つの音の下に、Es muss sein. と書かれてあることは周知である。私は、このことに、G.F. Händelの<<Jephtha>>のAct two、Scene 4でJephthaが唱う、It must be so. を木霊を聞くように想起するのであるが、多分、こんなことはBeethovenの知るところではなかったであろう。むしろ。これに関してはBeethovenと女中との喧嘩の逸話が伝わっている。
何を考えるかよりは、何を決断して言うか、の方が重要であろう。しかし、更に、何を言うかよりは、何を行う、行ったか、の方がより重要ではないか。
Beethovenは、彼の甥のKarlを引き取って養育した。Beethovenのその善意はともかくとして、Karlの方は、むしろ辛かったのではなかったか。Beethovenが、低脳で不良のKarlを低く見て許容するような人間であったのならば、Karlは自殺などは図らなかったのではないか、と推測するのは、私の想像のしすぎか。多分、そうであろう。しかし、ここで私の書きたいことは、人の図る最上の善意であったとしても、それが良い結果をもたらすとは限らない、ということである。いや、むしろ、それは、皮肉にも、最悪の結果に終わる可能性さえあるであろう。
C.A. Debussyは、MozartもBeethovenも天才をもっていた。けれど、Mozartは趣味を持っていたが、Beethovenにはそれが無かった、と言っていた。いや、Beethovenの作品群は<趣味>なんぞを突抜けている。例えば彼の<<Grosse Fuge>>(Op. 133)は、趣味の対象であろうか。再度、Budapest弦楽四重奏の演奏で、この作品を聴いてみたい。このLPは、古いmonauralの録音のものではあるが、そして現在では、更に鮮明な録音、更に流暢な演奏の、どちらをみても、より高水準に聴こえるCDも多いのかも知れないが、何故か、このLPを聴くときに、Beethovenの<闘争>が、よく聴きとれるように思われるのである。<Beethovenの性格>が、音楽史に衝撃を与えた、ということであり、様式の変遷と彼の個性の、時を得た出会いによる創造物が彼の対位法である、と私は考えているのである。これは、趣味の問題ではない。Budapest弦楽四重奏の演奏についても、ようやく、この作品が充分に受容されるようになった時代、という時と無縁ではなかったのではないか。
Debussyの音楽は、まさに彼自身の言う、<耳の楽しみ>であろうが、まあ、それを否定するまでもあるまい。
蛇足 (コーダ):
世の中にはいろいろな人がいる、だから、私は、私の考えに賛成、同調は求めない。しかし、私が、ギリギリのところで考えた結果の結論に対して反対をするのであるのならば、それもギリギリのところであってしかるべきであろう、と考えて私は今まで生きてきた。Beethovenもそうであったのであろうか。
人生そのものは、ただ単なる悪夢なのかも知れない。Beethovenは、音楽は最高の哲学である、と言っていたが、そして、多分、それを彼自身まともに信じていたであろうが、彼は、その意味で、偉大なる大馬鹿者、彼の音楽は嘘だ、といって悪ければ、絵に描いた餅ではないか。しかし、それも、彼のギリギリのところであったことは認められるではないか。
それにしても、Beethovenよりも長く生きてしまった故か、彼の音楽に、いちいち感動するのは面倒くさいと感じる年に私はなってしまった。けれども、私は、Beethovenを嫌いだ、という人を、どうも好きにはなれない。例えば、F. Chopin。彼が何と言おうと、Beethovenの<<Kkaviersonate in B-dur>>(Op. 106)の第三楽章の響きは、Chopinの音楽を先取りしているのである。Chopinは、他の人の悪口を言いすぎる。嫌な奴だ。
117-118ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やラテン語が入り混じっている。。。
デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。
それは、オマエの極めて個人的な見解だと思うのだよ! むしろ独断と偏見だと言っていい。。。 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!
134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?
いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。
マジで。。。?
僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。
A.6 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(1770 – 1827)
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ピエール・ブーレーズは、ベートーヴェンに於いては、対位法と和声の対立が目立つようになり、彼の晩年の作品に顕著なのは、線的な堆積によって生じたものの垂直的な管理と、旋律線のもたらす音程的な諸要求との間の激烈な闘争である、と考えることが可能である。
ベートーヴェンは、彼の性格にしたがって、これら二つの書法上の様相の間の闘争をドラマチックに解決するが、…… と書いている(『ブーレーズ音楽論 : 徒弟の覚書』晶文社)。
ところで、<彼の性格>とは、如何様なものであろうか。
一寸だけ、考える楽しみに耽りたく思う。
私の想像ではあるが、ベートーヴェンは、他人の咎を、その人を軽侮して許す、ということが如何に容易、安易であるかを知っている側の人間であった、と思われるふしがある。
許せないから彼は怒る。
言うべきことを言えば、他と対立する。
無論、最善は、軽蔑することなしに他を許すことである。
そうしたことの出来る、まさに、業が浅い、としか言いようのない人も実際にはいるものであるが、その最善の対応がとれない人は、次善をとらざるを得ない。
つまり、他人を自分よりは低く見ることができないが故に許せない、といった立場である。
これは、少なくとも、軽侮して人を許す、という偽善、西欧では、これをノブレス・オブリージュ(高い身分に伴う徳義上の義務)などと言うが、それよりは純粋である。
他を見下して、なおかつ、許さない、つまり、西欧による植民地支配の背後にある、いわれのない傲慢さ、というところにまで行ってしまえば、それは、人であろう。
困ったことには、ベートーヴェンの遭遇する立場での彼の対応、“人を侮蔑しないし、許さない”は多くの場合に自他共に苦しまねばならない、という唯一の組合せなのである。
いや、それよりも、彼が拘ったのは、軽蔑せずに人を許す、ということは、軽蔑して人を許す、ということと、この世の中では、結果として、同じメッセージを他の人々に発信して与える、という事実ではなかったか。
彼の作品番号のついた最後の作品<<弦楽四重奏曲 第16番 ヘ長調>>(作品135)の終曲の冒頭には、“苦しい決断の末”、そして、「ほどよく、度を過ごさないテンポで」の最初の三つの音の下に、“そうでなければならないのか?”、更に、アレグロに入っての最初の三つの音の下に、“そうでなければならない!”と書かれてあることは周知である。
私は、このことに、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの
<<イェフタ>>の第2幕、第4場でイェフタが唱う、
“そうであるに違いない”を木霊を聞くように
想起するのであるが、多分、こんなことは
ベートーヴェンの知るところではなかったであろう。
むしろ、これに関してはベートーヴェンと女中との喧嘩の逸話が伝わっている。
何を考えるかよりは、何を決断して言うか、の方が重要であろう。
しかし、更に、何を言うかよりは、何を行う、行ったか、の方がより重要ではないか。
ベートーヴェンは、彼の甥のカールを引き取って養育した。
ベートーヴェンのその善意はともかくとして、カールの方は、むしろ辛かったのではなかったか。
ベートーヴェンが、低脳で不良のカールを低く見て許容するような人間であったのならば、カールは自殺などは図らなかったのではないか、と推測するのは、私の想像のしすぎか。
多分、そうであろう。
しかし、ここで私の書きたいことは、人の図る最上の善意であったとしても、それが良い結果をもたらすとは限らない、ということである。
いや、むしろ、それは、皮肉にも、最悪の結果に終わる可能性さえあるであろう。
クロード・ドビュッシーは、モーツァルトもベートーヴェンも天才をもっていた。
けれど、モーツァルトは趣味を持っていたが、ベートーヴェンにはそれが無かった、と言っていた。
いや、ベートーヴェンの作品群は<趣味>なんぞを突抜けている。
例えば彼の<<大フーガ>>(作品133)は、趣味の対象であろうか。
再度、ブダペスト弦楽四重奏の演奏で、この作品を聴いてみたい。
このLPは、古いモノラルの録音のものではあるが、そして現在では、更に鮮明な録音、更に流暢な演奏の、どちらをみても、より高水準に聴こえるCDも多いのかも知れないが、何故か、このLPを聴くときに、ベートーヴェンの<闘争>が、よく聴きとれるように思われるのである。
<ベートーヴェンの性格>が、音楽史に衝撃を与えた、ということであり、様式の変遷と彼の個性の、時を得た出会いによる創造物が彼の対位法である、と私は考えているのである。
これは、趣味の問題ではない。
ブダペスト弦楽四重奏の演奏についても、ようやく、この作品が充分に受容されるようになった時代、という時と無縁ではなかったのではないか。
ドビュッシーの音楽は、まさに彼自身の言う、<耳の楽しみ>であろうが、まあ、それを否定するまでもあるまい。
(beethov10.jpg)
蛇足 (コーダ):
世の中にはいろいろな人がいる、だから、私は、私の考えに賛成、同調は求めない。
しかし、私が、ギリギリのところで考えた結果の結論に対して反対をするのであるのならば、それもギリギリのところであってしかるべきであろう、と考えて私は今まで生きてきた。
ベートーヴェンもそうであったのであろうか。
人生そのものは、ただ単なる悪夢なのかも知れない。
ベートーヴェンは、音楽は最高の哲学である、と言っていたが、そして、多分、それを彼自身まともに信じていたであろうが、彼は、その意味で、偉大なる大馬鹿者、彼の音楽は嘘だ、といって悪ければ、絵に描いた餅ではないか。
しかし、それも、彼のギリギリのところであったことは認められるではないか。
それにしても、ベートーヴェンよりも長く生きてしまった故か、彼の音楽に、いちいち感動するのは面倒くさいと感じる年に私はなってしまった。
けれども、私は、ベートーヴェンを嫌いだ、という人を、どうも好きにはなれない。
例えば、ショパン。
彼が何と言おうと、ベートーヴェンの<<ピアノ・ソナタ 第29番 変ロ長調>>(作品106)の第三楽章の響きは、ショパンの音楽を先取りしているのである。
ショパンは、他の人の悪口を言いすぎる。
嫌な奴だ。
(赤字はデンマンが強調)
117-118ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
オイラが書いた上の文章のどこにデンマンさんはムカついたのですかァ~?
特にムカついたと言うほどのことじゃないのだけれど、次の箇所に僕は引っかかったのだよ。。。
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他人を自分よりは低く見ることができない
が故に許せない、といった立場である。
これは、少なくとも、軽侮して人を許す、
という偽善、西欧では、これを
ノブレス・オブリージュ
(高い身分に伴う徳義上の義務)
などと言うが、それよりは純粋である。
他を見下して、なおかつ、許さない、
つまり、西欧による植民地支配の背後にある、
いわれのない傲慢さ、というところにまで
行ってしまえば、それは、人であろう。
この上の箇所のどこにムカついたのですか?
特にムカついたわけじゃないのだよ。。。
でも。。。、でも。。。、なんだか、デンマンさんの表情が険(けわ)しくなってますよ。。。
あのさァ~、オマエは、かつて“ノブレス・オブリージュ”について、次のようなことを書いていたのだよ!
【デンマン注釈】
太田将宏老人の読みづらい文章を我慢して読んでくださいね。
ここで“彼”というのは、太田将宏老人が空想した架空の友人です。
太田老人は、ほとんどの友人と絶交状態なので彼を庇(かば)うような人間は一人もいません。
文章を読むと太田老人が自分の言いたい事を、いかにも友達が言っているように書いていますが、自分で言うのが恥ずかしいので、空想の友達に言わせています。
その程度の羞恥心は持っているのです。 (爆笑)
でも、それが見破られてしまうという事までを考える知力がないのが悲しい現実です。 (さらに爆笑)
カタカナで書けばいいのに、やたらに外国語の単語を散りばめて書くという太田老人の悪い癖がここでも見受けられます。(微笑)
彼:うん、でも、その前にもう一つ。僕が彼の書いたものを読んだ範囲でだけなんだがねぇ、この人は、太田さんが読者へのserviceとして書いた所だけを喜んで引用しているし、それすらも正確には出来ていないね。太田さんの言うとおりだ。太田さんの本の内容が解らないので、書き方を批判している、というのならばまだしも、これでは本質的には揚足取りだ、と僕も思う。
しかしね、僕がもっと気になるのは、太田さんが、これでは他の人に誤解を与えるとして、ささやかな苦情を言うと、過剰反応することなのだけれど、それが、ある時点で、がらっと態度を変えて、いままで褒めていたことまでを、全面否定するようになった事なんだ。太田さんのことについても、太田さんの本についても、この論争の、論争とも言えないか、まあ一応、この論争の前後では彼の書き方が変わっている。
はっきり言おう。ゴロを巻くようになった。この卑劣さを考えると、やはり、加藤氏をゴロツキと呼んでも仕方がないのかな。これは加藤氏だけではないけど、日本人の甘えで、それが幼児性みたいなものに結びつくのは、よくあるケースじゃあないかね。太田さんだって、そんなことは分かっているじゃあないか。…… ただし、僕は太田さんとは代れないけれど、ある一点だけ、加藤氏に許せない事があるんだ。
太田さんが自分の小さい世界に閉じこもっている、との発言、それも、しつこく繰り返しての言いがかりだ。まず、何に較べて<小さい>のだ。次に、自分の世界に閉じこもっているだって?あの、薄汚い彼のBBSを<大きい>世界と言うのかい。彼の発言は、太田さんの作品を受け取った人間の言うことではないよ。太田さんは、それをprintして加藤氏に、E-Mailを使って僕や他の人に提供しているではないか。
太田さん、貴方の方が、貴方のやり方で、加藤氏なんかより余程、広く世界に開けているよ。そして、あれは誰だっけ、第四部の内容については賛成できない、と言った人がいたが、それでも、太田さんは、その人を受け入れていたではないか。結論が一致したらかえって困る事もある、と笑いながら言ってね。
この点だけは加藤氏に言ってやりたいな、太田さんの本の内容の広さの中にある、唯の一行すらも解らないくせに、でかい口をたたくなってね(加藤さんよ。彼の言葉はきついけれど、彼は冷静ですよ。君は、分かってくれないだろうな(私の苦笑))加藤氏とやらは、noblesse oblige、という言葉などは知らないのではないか(彼の苦笑)。
せっかく、太田さんが譲歩して、休戦しようか、と言っているのを読み取れないとは(二人で苦笑)。ゴロツキもここまでくると下衆ですな(彼の冷笑)。…… ところで、これから彼のことどうする?
私:Memoでお見せした通り、もう彼に最後通牒を出します(爆笑)。もう、Baby–Sitをするのは疲れました(爆笑が続く)。ただ、私には、こういう風に自分を律してきた、というのを自ら破った事だけが残念です。それは、誰かの言った事、書いたことは批判しても、その人への個人攻撃は避ける、という事です。加藤氏が始めた私への言いがかりがきっかけだったにしろ、ですよね。貴方も失望しただろうなぁ(苦笑)。
彼:それは、少なくとも、僕に関しては気にしないでくれないかな。太田さんにとっては、それしか手段が残されていなかった、ということがよく解るしね。彼に、自分のやっているのと同じ事を相手が自分にしたら、どう感じるか、という事を悟らせるには他の手段は考えられないよ。残念ながら。
それよりも、太田さんの、自分の方からは誰ともの関係を断ち切らない、という主義を最後まで守り、彼に選択の引導を渡した、ということは、さすが太田さんだ、と感心しているのですよ。大筋ではね。そして、technicalな意味でもね。とにかく、お疲れ様でした(微笑、そして二人で爆笑)。
By V.T.
2015年11月12日 午前5時11分
【デンマン注: 太田将宏が義兄(V.T.)に成りすまして書きました。】
(加藤氏=デンマン)
『親愛なる将宏ちゃんへ』のコメント欄より
(2006年12月28日)
『ノブレス・オブリージュと太田将宏』より
(2016年8月31日)
デンマンさんは、マジでしつこいですねぇ~。。。
あのさァ~、人間というのは、他人から悪い事を言われたり、されたりすると、けっこう長期間にわたって記憶に刻み込んで覚えているものなのだよ!
オイラはデンマンさんに対して、それほど悪い事を言ったり書いたりしましたかァ~?
オマエは、年のせいかもしれないけれど、自分が書いたり言ったりした事をすぐに忘れてしまうんだよ。。。
いえ。。。、上の文章は確かに思い当たります。。。
。。。だろう。。。? この記事を読む人は、オマエの文章のスタイルを見て、上の文章は間違いなくオマエが書いたものだと判定できるのだよ!
マジで。。。?
だいたい、普通の日本人は service、print、Memo、Baby–Sit、technical などという英単語を、わざわざ日本語の文章に書き込まないのだよ!
つまり、それがオイラの癖だとデンマンさんは断定するのですかァ~?
その通りだよ! 僕が、なぜ、これまで『クラシック鑑賞』シリーズを書き続けてきたのかァ~。。。
なぜですか?
『クラシック鑑賞』シリーズを読んでこられた僕のブログの常連さんならば、上の文章のスタイルを見て、すぐに太田将宏が書いた文章であることを断定することができるのだよ。。。
そのために、デンマンさんは わざわざ『クラシック鑑賞』シリーズを書いてきたのですか?
もちろん、それだけじゃないけれど、僕はオマエの卑しい性格を暴露するためもあって、『クラシック鑑賞』シリーズを書き続けて来たのだよ!
デンマンさんは、マジでしつこいですよ! んもおおおォ~!
あのさァ~、真実は、最終的には明るみに出てしまうのだよ。。。。
そのために、ベートーヴェンを持ち出してきたのですか?
いや。。。 オマエの卑しい性格とベートーヴェンは特に関係ないよ! (笑い)
。。。で、ノブレス・オブリージュとオイラが、どうだとデンマンさんは言うのですか?
あのさァ~、オマエは次のように書いていた!
(judged.png)
他を見下して、なおかつ、許さない、
つまり、西欧による植民地支配の背後にある、
いわれのない傲慢さ、というところにまで
行ってしまえば、それは、人であろう。
オマエは僕を見下ろして、許してないのだよ! だから、オマエ自身が自分で言うところの人なのだよ!
それは、デンマンさんでしょう!? デンマンさんこそ、高い目線でオイラを見下して、許してないじゃありませんか!
いや。。。、僕はオマエを見下ろしてはいるけれど、許しているのだよ! だから、けっしてオマエが言うところの“人”じゃないのだよ! その証拠に、こうしてオマエのブログが削除されているのにもかかわらず、オマエのために、『クラシック鑑賞』シリーズを書き続けているのだから。。。
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(すぐ下のページへ続く)