クラシック鑑賞 18 (PART 1)
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デンマンさん。。。、どういうわけでオイラと たびたびクラシック鑑賞するのですかァ~?
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実は、僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。
それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?
オマエは不満なのォ~?
いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るような気持ちです。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?
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あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!
分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのクラシックの曲を鑑賞するのですか?
オマエが“後奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!
1.4 Josquin des Prés (1440? – 1521)
一昨年以来の奇妙な偏頭痛のせいで、このところ、ずーっとRenaissanceの頃の教会音楽を聴き続けてきた(草子地:なに、困った時の神頼みをしている訳ではない。今の私に取っては、ただ単に、聴きやすいからにすぎない)。この時期の音楽は、私としては全くの不案内の分野であったが、いろいろ聴いているうちに、Josquin des Présの音楽に心ひかれるようになってきたのである(草子地:ここで、私は、何も、彼の音楽がJ. OckeghemやG.P. da Palestrinaのそれらよりも優れたものだ、などと言おうとしているのでは、無論、ない)。それが何故であるかを分析、思考する気力も、残念ながら、今は無い。そもそも、こうした音楽を聴くきっかけになったのは、<現代音楽>とは隔たった響きを持つ音楽を、しばらくの間だけでも聴いてみたい、それも楽譜も見ないで、無論、解説書の類も読まないで、不案内のまま聴いてみよう、と思ったからにすぎない。
四声のMotetus<<Ave Maria>>を聴いていたとき、この響きはMissa<<Pange Lingua>>に共通している、と感じた。こういうことを、創作者の個性、と言うのであろうか。彼の時代は、未だ、作者の職人的な手腕や技術は問題にされても、彼らの個性が話題にされる程度は少なかった時代ではなかったのではないか。それにもかかわらず、極度に複雑なPolyphonyの彼方に、異なる作者による響きの違いと、同じ作者の異なる曲に、同じ姿の響きが、今日なお、聴き取れるのである。
繰り返すが、そもそも、私としては、比較的に未知の音楽の中で、しばし、自由に遊んでみたかったのにすぎなかった。とは言え、中世まで遡る気力もなかったので、また、世俗音楽には言葉の問題もあったので、こうした教会音楽を半ば退屈しながらも聴き続けてきた次第である。そうは言っても、多分、千回聴いても飽きることはないであろうJ.S. Bachの<<Das Wohltemperierte Klavier>>をも脇に置いて聴いているのであるから、私としては無意識にも真剣な気持ちがあったかと思う。もともと、私が真剣になれるのは、無意識になるときにしかないのではないか、などと思ってみてもいる。
<現代音楽>を聴いていた頃は自分自身、或いは、自分自身の中にある他人の偏見との戦いであった。それが、今、対象を変えて再現されている。そうして聴き続けているうちに、それぞれの作品の姿が見え始めてきた、ということか。
何も読まないで、ただひたすらに聴いているのがよい、という時期もあるものである。
そもそも、創作者の個性とは何であったのであろうか。皮肉な見方をすれば、ある一人の人間の創作活動の初期に於いて、たまたま一つの試みに効果があって、その方法のパターン、或いは、その一部が姿を変え、或いは、幸いにも発展して、更に、或いは、作者の創作の上での習慣となって、複数の作品に定着したのにすぎない、などと言ってしまっては戯言であろうか。いや、やくざな<ローマン派>の音楽などとは違って、こうした音楽は、もっと厳格に書かれているであろう。その厳格さの中に入り込み、沁み込んで滲み出る個性とは、やはり、その作者の技術的な個性であって、人間的な個性なんぞではないのではないか。更に言えば、技術的な個性が、いつしか、人間的な個性に取って代わって、作品に残されたのではないか、と思われるのである。
更に一般的に言って、一人の人間の個性などというものもまた、案外、そのようなもので、それ以外には、たとえ自分自身の中を覗き込んでも何も見えないのではないか。つまり、のっぺらぼうではないか。無心とは、何のこともない、のっぺらぼうのことであろう。もともと、何も無かったのである。
人は言う。本当の自分は、他の人の思っているところの私なんかではない、と。それはそうであろう。自分で思っている自分ですらないのであるから。そんな<自分>などは、初めから無かったのである。存在は、その現れである、とJ.-P. Sartreも書いていた。
しかし、私がJosquinの音楽に心をひかれる、ということは、私の感性の習慣(草紙地:これを、私は、感覚器官を含めての肉体の引力と呼んでいる)が、彼の創作の感性の習慣(草子地:これを、私は、他者を含めての外界の引力、と呼んでいる。)に共振しているのにすぎない、ということなのか。
ところで、PalestrinaなどのMissaには<Agnus Dei>が二つある。これは、第一節と第二節の後半が、miserere nobis とdona nobis pacemに分かれるので、ある程度は理解できる。ところが、JosquinのMissaには三つある!!! これが彼の個性であろうか。
コーダ(蛇足):
実を言うと、<現代音楽>のLPを、たまたま、七枚続けて聴いた日から、例の偏頭痛が始まったのであった。
もし、私の顔に、にきびができたとしたならば、私の存在は、その現われとして膨張したのであろうか。更に、仮に、私が手足を失った、としたならば、私の存在は、その現われとして縮小するのであろうか。そして、死んで、復活した、としたならば、私にはその、にきびや手足があるのであろうか。あったとしたならば、それらは何処から来たのであろうか、いつの時点のものなのか。もし、それらが無かったとしたならば、私の霊的なるものは、私の精神を総合するのに、如何にして、何をもって、肉的な失われた手足に替わるものを補完するのであろうか。部品が足りない、と誰も言わないのであろうか。それは、いつの時点のものなのか。全く、このようなことを問う私はサドカイ人なのか。
12-13ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やラテン語が入り混じっている。。。
デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。
それは、オマエの極めて個人的な見解だと思うのだよ! むしろ独断と偏見だと言っていい。。。 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!
134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?
いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。
マジで。。。?
僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。
1.4 ジョスカン・デ・プレ
(1450年/1455年? - 1521年)
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一昨年以来の奇妙な偏頭痛のせいで、このところ、ずーっとルネサンスの頃の教会音楽を聴き続けてきた。
(草子地:なに、困った時の神頼みをしている訳ではない。
今の私に取っては、ただ単に、聴きやすいからにすぎない。)
この時期の音楽は、私としては全くの不案内の分野であったが、いろいろ聴いているうちに、ジョスカン・デ・プレの音楽に心ひかれるようになってきたのである。
(草子地:ここで、私は、何も、彼の音楽がヨハネス・オケゲムやジョヴァンニ・ダ・パレストリーナのそれらよりも優れたものだ、などと言おうとしているのでは、無論、ない。)
それが何故であるかを分析、思考する気力も、残念ながら、今は無い。
そもそも、こうした音楽を聴くきっかけになったのは、<現代音楽>とは隔たった響きを持つ音楽を、しばらくの間だけでも聴いてみたい、それも楽譜も見ないで、無論、解説書の類も読まないで、不案内のまま聴いてみよう、と思ったからにすぎない。
四声の世俗多声音楽<<アヴェ・マリア>>を聴いていたとき、この響きはミサ<<パンジェ・リングワ>>に共通している、と感じた。
Motetus Ave Maria
Missa Pange Lingua
こういうことを、創作者の個性、と言うのであろうか。
彼の時代は、未だ、作者の職人的な手腕や技術は問題にされても、彼らの個性が話題にされる程度は少なかった時代ではなかったのではないか。
それにもかかわらず、極度に複雑な多声音楽の彼方に、異なる作者による響きの違いと、同じ作者の異なる曲に、同じ姿の響きが、今日なお、聴き取れるのである。
繰り返すが、そもそも、私としては、比較的に未知の音楽の中で、しばし、自由に遊んでみたかったのにすぎなかった。
とは言え、中世まで遡る気力もなかったので、また、世俗音楽には言葉の問題もあったので、こうした教会音楽を半ば退屈しながらも聴き続けてきた次第である。
そうは言っても、多分、千回聴いても飽きることはないであろうバッハの<<平均律クラヴィーア曲集>>をも脇に置いて聴いているのであるから、私としては無意識にも真剣な気持ちがあったかと思う。
Glenn Gould - J.S. Bach
The Well Tempered Klavier
もともと、私が真剣になれるのは、無意識になるときにしかないのではないか、などと思ってみてもいる。
<現代音楽>を聴いていた頃は自分自身、或いは、自分自身の中にある他人の偏見との戦いであった。
それが、今、対象を変えて再現されている。
そうして聴き続けているうちに、それぞれの作品の姿が見え始めてきた、ということか。
何も読まないで、ただひたすらに聴いているのがよい、という時期もあるものである。
そもそも、創作者の個性とは何であったのであろうか。
皮肉な見方をすれば、ある一人の人間の創作活動の初期に於いて、たまたま一つの試みに効果があって、その方法のパターン、或いは、その一部が姿を変え、或いは、幸いにも発展して、更に、或いは、作者の創作の上での習慣となって、複数の作品に定着したのにすぎない、などと言ってしまっては戯言であろうか。
いや、やくざな<ローマン派>の音楽などとは違って、こうした音楽は、もっと厳格に書かれているであろう。
その厳格さの中に入り込み、沁み込んで滲み出る個性とは、やはり、その作者の技術的な個性であって、人間的な個性なんぞではないのではないか。
更に言えば、技術的な個性が、いつしか、人間的な個性に取って代わって、作品に残されたのではないか、と思われるのである。
更に一般的に言って、一人の人間の個性などというものもまた、案外、そのようなもので、それ以外には、たとえ自分自身の中を覗き込んでも何も見えないのではないか。
つまり、のっぺらぼうではないか。
無心とは、何のこともない、のっぺらぼうのことであろう。もともと、何も無かったのである。
人は言う。
本当の自分は、他の人の思っているところの私なんかではない、と。
それはそうであろう。
自分で思っている自分ですらないのであるから。
そんな<自分>などは、初めから無かったのである。
存在は、その現れである、とジャン=ポール・サルトルも書いていた。
しかし、私がジョスカン・デ・プレの音楽に心をひかれる、ということは、私の感性の習慣(草紙地:これを、私は、感覚器官を含めての肉体の引力と呼んでいる)が、彼の創作の感性の習慣(草子地:これを、私は、他者を含めての外界の引力、と呼んでいる。)に共振しているのにすぎない、ということなのか。
ところで、ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナなどのミサには<神の子羊>が二つある。
Giovanni Pierluigi da Palestrina
Missa Brevis - Agnus Dei
これは、第一節と第二節の後半が、「われらにお慈悲を」と「われらに平和を与えたまえ」に分かれるので、ある程度は理解できる。
ところが、ジョスカン・デ・プレのミサには三つある!!!
これが彼の個性であろうか。
コーダ (蛇足):
実を言うと、<現代音楽>のLPを、たまたま、七枚続けて聴いた日から、例の偏頭痛が始まったのであった。
もし、私の顔に、にきびができたとしたならば、私の存在は、その現われとして膨張したのであろうか。
更に、仮に、私が手足を失った、としたならば、私の存在は、その現われとして縮小するのであろうか。
そして、死んで、復活した、としたならば、私にはその、にきびや手足があるのであろうか。
あったとしたならば、それらは何処から来たのであろうか、いつの時点のものなのか。
もし、それらが無かったとしたならば、私の霊的なるものは、私の精神を総合するのに、如何にして、何をもって、肉的な失われた手足に替わるものを補完するのであろうか。
部品が足りない、と誰も言わないのであろうか。
それは、いつの時点のものなのか。
全く、このようなことを問う私はサドカイ人なのか。
サドカイ人
サドカイ派は第二神殿時代の後期(紀元前2世紀)に現れ、ユダヤ戦争に伴うエルサレム神殿の崩壊と共に姿を消したユダヤ教の一派。
ファリサイ派と対立していたといわれる。
「サドカイ人」と表記されることもある。
サドカイ派という名称はソロモン王を祝福した大祭司ツァドクの名に由来しているとの説もあるが、はっきりしたことは分かっていない。
現代の研究者たちはサドカイ派を神殿に拠って権力者たちと結託していた祭司のグループであったと考えている。
新約聖書の福音書にサドカイ派は現れるが、その中でサドカイ派は霊魂の不滅や死者の復活、天使の存在を否定しており、それもまたファリサイ派との論争の種になっていたと記されている。
福音書の中ではサドカイ派の「復活は無い」とする主張をイエス・キリストが論破される場面もある。
消滅
神殿の権威をかさに権勢を誇ったサドカイ派であったが、ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊(70年)と共に、よるべき場所を失い、消滅した。
このため、ライバルであったファリサイ派がユダヤ教の主流となっていくことになった。
サドカイ派自体が消滅し、そのライバルであったファリサイ派がユダヤ教の正統派になったため、サドカイ派に関する資料はほとんど残されていない。
サドカイ派を知るために有益な資料と考えられているのはフラウィウス・ヨセフスの著作やタルムードなどである。
出典: 「サドカイ派」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(赤字はデンマンが強調)
12-13ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
オマエは自分がサドカイ人だと思っているのォ~?
そうです。。。 いけませんか?
いや。。。 別に、オマエがサドカイ人でもいいのだけれど。。。 いずれにしても、オマエは西洋の末香(まっこう)臭い音楽が好きなんだねぇ~。。。
。。。ん? 西洋の末香(まっこう)臭い音楽。。。?
そうだよ。。。 薄暗い教会の中で、これから餓死して あの世に逝くような病人が天国に行けるように 陰気に歌っている。。。 上のYouTubeのクリップを僕はすべて聴いたのだけれど、僕には極めて悲観的に聞えるのだよ。。。 陰気な歌に誘われて、死神が僕にまで取り付いてくるような 背筋が寒くなるよな気分になってきたのだよ。。。
デンマンさんに信仰心がないから、そのような悲観的な感想しか持てないのですよ。。。
あのさァ~、オマエだってぇ日曜日に教会に行くようなことはないのだよ。。。 信仰心が聞いて呆れるよ。。。
つまり、この事を言うために、わざわざ ジョスカン・デ・プレを持ち出してきたのですか?
いや。。。 それだけじゃないのだよ! オマエが西洋の末香(まっこう)臭い音楽が好きなのにもかかわらず、サドカイ人だというのが僕には奇異に感じられたのだよ。。。
どうしてですか?
だってぇ、オマエが書いた上の記事に出てくるような西洋の末香(まっこう)臭い音楽が好きだということは、つまり、これから餓死して あの世に逝くような 病人が天国に行けるように陰気に歌うわけだよ。。。 つうことわあああァ~、サドカイ派は霊魂の不滅や死者の復活、天使の存在を否定する事とは相容(あいい)れないと思うのだよ。。。 つまり、オマエは、80歳を越えて死期が近づいてきたので、天子が現れて、天国に導いてくれることを期待しているのではないか?! 僕はそういう感じを持ったのだよ。。。
要するに、オイラが死後の世界を信じているとデンマンさんは思ったのですねぇ~。。。
そうだよう。。。 違うのォ~?
オイラは間違いなくサドカイ人ですよ。。。 なぜなら、霊魂の不滅や死者の復活、天使の存在を否定していますから。。。 死んだら人間は灰になるだけです。。。 霊魂もその灰とともに消滅します。。。 死者の復活なんて絶対にありえません。。。
そのような考え方を持っているのに、オマエは、どういうわけで西洋の末香(まっこう)臭い音楽が好きなのォ~?
そんなことは個人の趣味の問題ですよ。。。 デンマンさんに、とやかく言われる必要はありません。。。 None of your business です!
そういうことなら、僕は、もう口出ししないよ。。。
つまり、その事を突き止めたくて ジョスカン・デ・プレを持ち出してきたのですか?
いや。。。 それだけじゃいないのだよ。。。 ちょっと次のコメントのやり取りを読んで欲しいのだよ!
30. 無題
>huyunohi1684さん
俺は一生クズの廃人でいておきますよ。
.現実主義者 2017-12-12 14:01:44 返信する
(kouishi02.jpg)
31. Re:無題
>現実主義者さん
それで良かったらなんのためにネットに書き込んでいるのですか、クズの廃人であることをわざわざネットで広める必要もないと思いますが。
.huyunohi1684 2017-12-12 15:21:37 返信する
32. 無題
>huyunohi1684さん
いや、俺はもう広めていたいんです。
広めることで、俺の家族にも噛みついてたいんです。
.現実主義者 2017-12-13 00:33:50 返信する
33. Re:無題
>現実主義者さん
広めたいのであれば、掲示板に書くか、自分のブログを作ってやるべきです。
他人のブログのコメント欄は、記事に対する感想を書く場所であって貴方の考え方を広める場所ではありません。
そういう使い方は荒らし行為と言われても仕方がないものです。
広めるのであれば、読み手が理解できるように書く努力をするべきです、貴方はその努力をしていません。
.huyunohi1684 2017-12-13 07:58:13 返信する
『ひとつのことにこだわり続けた末に…』のコメント欄より
(赤字はデンマンが強調のため!)
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『馬鹿の見本が読まれる』より
(2018年6月7日)
これは、あの有名な伊藤先生と「現実主義者」と名乗る愚か者の間で交わされたコメントのやり取りなのだよ!
デンマンさん! こういう格調高い話題の時に、どうして あの馬鹿を持ち出してこなければならないのですかアぁ~?
そうムキになって ムカつかないで欲しいのだよ! 実は、この馬鹿は上のコメントのやり取りでも解るように、50歳になろうというのに、すでに自分を「生きる価値のないクズの廃人」だと決め付けているのだよ。。。
マジで。。。?
死期を悟っているのか、10年ほど前から「2ちゃんえる」、「Yahoo!」、「アメブロ」、「ウェブリログ」、「5ちゃんねる」等で、アクタレ・コメントや嫌がらせのコメントを書きまくって、イジメ自殺被害者の家族の気持ち傷つけているのだよ。
。。。で、デンマンさんが書いた記事にも、嫌がらせのコメントを書き込んだのですか?
そうだよ。。。 僕がネットで晒しているにもかかわらず、この愚か者は嫌がらせのコメントを書いて、反応を見ることで自分の存在感を確かめているのだよ。。。 つまり、そうする事が、この愚か者の生きがいなのだよ! だから、コメントをもう書くな!という裁判所の判決が出ると、この男は自殺すると思うのだよ。。。
だから、デンマンさんは、どうだと言うのですか?
どのような理由であれ、僕は自殺には絶対に反対なのだよ。。。
そんな事をデンマンさんが心配することはないのですよゥ!
オマエは、意外に薄情で冷酷なところがあるのだねぇ~!?
日本には“馬鹿を相手にするな!”という格言があるのですよ! いつまでも この馬鹿を相手にしていると、デンマンさんまでが馬鹿だと思われてしまうのがオチですよゥ。
そうかなぁ~?
。。。で、この馬鹿を持ち出してきて、何が言いたいのですか?
だから、この愚か者は、オマエと同じで嫌がらせのコメントを書くサドカイ人なのか? と僕は夕べから疑問に思っていたのだよ。。。
デンマンさん! この男は偏差値30台のクソ大学をやっとの思いで卒業させてもらったのですよ! 留年すると後輩が迷惑するので理事会で頭をつき合わせて討論した結果、端にも棒にもかからない愚か者だから、追い出すことにしたのですよう。
あれっ。。。 オマエはよく知ってるねぇ~。。。?
デンマンさんが、どこかで そう書いてましたよ。。。
。。。で、オマエはどう思うのォ~? この「現実主義者」と名乗る愚か者はサドカイ人なのか?それともファリサイ人なのか?
つまり、この事をオイラに決めさせるために、わざわざジョスカン・デ・プレを持ち出してきたのですかぁ~?
早い話が そういうことなのだよ!
馬鹿バカしい!。。。 この男はサドカイ人でも ファリサイ人でもありません!
じゃあ、何人なのォ~?
生きる価値がない クズの廃人 ですよ! 決まってるじゃありませんか! 本人が、そう言うのだから。。。!
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(すぐ下のページへ続く)