クラシック鑑賞 20 (PART 1)
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デンマンさん。。。、どういうわけでオイラと たびたびクラシック鑑賞するのですかァ~?
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実は、僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。
それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?
オマエは不満なのォ~?
いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るような気持ちです。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?
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あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!
分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのクラシックの曲を鑑賞するのですか?
オマエが“前奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!
11.1 Igor Strawinsky (1882-1971)
大きなガラス窓のむこうでは、雪がふっている。窓の手前、つまり部屋の中では音楽が響いている。この家の中には今、私を除いては、誰もいない。一週間に一度だけの、一人になれるとき、土曜日の午前中である。そして、雪はsempre pianoで静かに降りてくる。
不思議だ、と思った。雪のうごきが、あろうことか、鳴り響いている音楽にsynchronizeしているのだ。そんな筈はない、と思う。曲は、I. Stravinskyの<<火の鳥>>である。もちろん、この音楽はsempre pianoでは響いていない。またまた、眼が悪くなったのだろうか。そうではない、そのせいであったのならば、雪のうごき、静かにふりしきる雪が、少しの風にゆらいでいるのすら見えないはずである。
視覚が聴覚に同調しているのだと思う。偶然ではあるが、先入観なしに聴けば<<火の鳥>>だって冬の雪景色に、冬の雪景色だって<<火の鳥>>に調和するのである。この調和こそ、広い意味でのハーモニーではないだろうか。これを美しいという、と私の意識がそっとささやいた。音楽の律動に同期している雪片の動きだけが知覚されているのだ、と思った。
音楽は何ものをも表現しない。唯、時間に秩序を設定する、とは他ならぬStravinskyの言葉であった。その<時間に秩序を設定する>、が解らなかった。今も一寸分らない。ただ、私は、この様に言い換えたい。音楽は時間に秩序を設定する。故に、音楽は何ものかを表現する、と。その何ものかは、無論、必ずしも<火の鳥>或いはその物語ではないし、雪でもあり得ないことは、私も承知している。どちらをも表現する、ということはどちらをも一意的には表現できない、ということであり、逆に、どちらをも表現していない、ということは可能な全てを表現している、ということにならないか。音楽が<抽象芸術>と言われている所以はそのへんにある、と私は考えている。ことわるまでもないが、私はここで、<表現>という言葉を、<表現主義>の場合の<表現>、というような狭い意味では使ってはいない。もしかしたら、Stravinskyは(ドイツ)表現主義に対して、何かを言おうとしてたのかも知れないが。
ガラス窓は、巨大な砂時計であり、雪は、その純白な砂であった。一様に降る雪にはrythmeはない。その意味で、私は、sempre pianoといってみたのである。とすると、音楽と雪のsynchronizationも必要がなかったのかも知れない。ただ、<音楽が時間に秩序を設定>して雪がそれと対比、それを強調していた、或いはその逆だったのにすぎなかった、つまり、静かに降る雪は、謂わば座標に於ける時間軸であったのか、と思い直した。
音楽が、何ものかを表現するか否かの問題は実際的(生産的)ではない、とP. Boulezが言っていた。作曲家、演奏家の彼としては、当然の発言かもしれない。いや、私はやはり、L.v. Beethovenの<<Symphonie in F-dur>>(Op. 68)の初演時の、あの有名なごたごたが気になる。そもそも、<実際的>であろうがなかろうが、この問題は音楽美学の発生以来の問題であって、各々の時代の各々の様式の、更に各々の作曲家の、これが音楽だ、と提示された作品をありのままに受けとめよう、とする私にとっては、今なお問題であり続けている次第である。しかしながら、誰も偉い人は私に答えを与えてはくれなかった。だから、自分で考える楽しみが残されていた(いる)。
追記。音楽が、言葉やその他の束縛から逃れて自立する迄に長い年月がかかったように、絵画に於いてもその自立が果たされたのは、写真が発明された後ではなかったか。しかしながら、それ以前に於いても、写真的な意味での見える、音楽でいえば、聴える対象を、作品の中に再構成したいという欲求、しようとする意志は、創作者にあった、と私は推察する。
蛇足(コーダ):
私には、Strawinsky の<<Trois Movements de Pétrouchka >>の方がballet 音楽<< Pétrouchka >>よりもoriginarityがあると思われる。Balletからも自立しているからである。
ところで、Stravinskyは、ほんとうに転向を重ねていたのであろうか。仮に、そうであったとしても、私は必然性のある転向は否定したくはない。まだ、考える楽しみが残されている。
49-50 ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やラテン語が入り混じっている。。。
デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。
それは、オマエの極めて個人的な見解だと思うのだよ! むしろ独断と偏見だと言っていい。。。 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!
134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?
いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。
マジで。。。?
僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。
11.1 イーゴリ・ストラヴィンスキー
(1882 - 1971)
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大きなガラス窓のむこうでは、雪がふっている。
窓の手前、つまり部屋の中では音楽が響いている。
この家の中には今、私を除いては、誰もいない。
一週間に一度だけの、一人になれるとき、土曜日の午前中である。
そして、雪は常に静かに降りてくる。
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不思議だ、と思った。
雪のうごきが、あろうことか、鳴り響いている音楽に同期しているのだ。
そんな筈はない、と思う。
曲は、ストラヴィンスキーの<<火の鳥>>である。
もちろん、この音楽は常に静かに弱くは響いていない。
またまた、眼が悪くなったのだろうか。
そうではない、そのせいであったのならば、雪のうごき、静かにふりしきる雪が、少しの風にゆらいでいるのすら見えないはずである。
視覚が聴覚に同調しているのだと思う。
偶然ではあるが、先入観なしに聴けば<<火の鳥>>だって冬の雪景色に、冬の雪景色だって<<火の鳥>>に調和するのである。
この調和こそ、広い意味でのハーモニーではないだろうか。
これを美しいという、と私の意識がそっとささやいた。
音楽の律動に同期している雪片の動きだけが知覚されているのだ、と思った。
音楽は何ものをも表現しない。
唯、時間に秩序を設定する、とは他ならぬストラヴィンスキーの言葉であった。
その<時間に秩序を設定する>、が解らなかった。
今も一寸分らない。
ただ、私は、この様に言い換えたい。
音楽は時間に秩序を設定する。
故に、音楽は何ものかを表現する、と。
その何ものかは、無論、必ずしも<火の鳥>或いはその物語ではないし、雪でもあり得ないことは、私も承知している。
どちらをも表現する、ということはどちらをも一意的には表現できない、ということであり、逆に、どちらをも表現していない、ということは可能な全てを表現している、ということにならないか。
音楽が<抽象芸術>と言われている所以はそのへんにある、と私は考えている。
ことわるまでもないが、私はここで、<表現>という言葉を、<表現主義>の場合の<表現>、というような狭い意味では使ってはいない。
もしかしたら、ストラヴィンスキーは(ドイツ)表現主義に対して、何かを言おうとしてたのかも知れないが。
ガラス窓は、巨大な砂時計であり、雪は、その純白な砂であった。
一様に降る雪にはリズムはない。
その意味で、私は、常に静かにといってみたのである。
とすると、音楽と雪の同期も必要がなかったのかも知れない。
ただ、<音楽が時間に秩序を設定>して雪がそれと対比、それを強調していた、或いはその逆だったのにすぎなかった、つまり、静かに降る雪は、謂わば座標に於ける時間軸であったのか、と思い直した。
音楽が、何ものかを表現するか否かの問題は実際的(生産的)ではない、とピエール・ブーレーズが言っていた。
作曲家、演奏家の彼としては、当然の発言かもしれない。
いや、私はやはり、ベートーヴェンの<<交響曲 第6番 ヘ長調 「田園」>>(作品68)の初演時の、あの有名なごたごたが気になる。
そもそも、<実際的>であろうがなかろうが、この問題は音楽美学の発生以来の問題であって、各々の時代の各々の様式の、更に各々の作曲家の、これが音楽だ、と提示された作品をありのままに受けとめよう、とする私にとっては、今なお問題であり続けている次第である。
しかしながら、誰も偉い人は私に答えを与えてはくれなかった。
だから、自分で考える楽しみが残されていた(いる)。
【追記】
音楽が、言葉やその他の束縛から逃れて自立する迄に長い年月がかかったように、絵画に於いてもその自立が果たされたのは、写真が発明された後ではなかったか。
しかしながら、それ以前に於いても、写真的な意味での見える、音楽でいえば、聴える対象を、作品の中に再構成したいという欲求、しようとする意志は、創作者にあった、と私は推察する。
蛇足 (コーダ):
私には、ストラヴィンスキー の<<ペトルーシュカからの3つの楽章>>の方がバレー音楽<<ペトルーシュカ>>よりも独創性があると思われる。
ペトルーシュカからの3つの楽章
バレー音楽:ペトルーシュカ
バレーからも自立しているからである。
ところで、ストラヴィンスキーは、ほんとうに転向を重ねていたのであろうか。
仮に、そうであったとしても、私は必然性のある転向は否定したくはない。
まだ、考える楽しみが残されている。
(赤字はデンマンが強調)
49-50 ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
オイラが書いた上の文章のどこにデンマンさんはムカついたのですかァ~?
いや。。。 ムカついたわけじゃない。。。 実は、図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのだよ。。。
オリジナリティーについて
今現在15歳の少年がビートルズやビーチボーイズの音楽を
初めてラジオで耳にして「これ、すごいなあ」と感激したとしても、
その音楽を「前例のないもの」として劇的に体感することは、
事実的に不可能になるかもしれない。
ビートルズ
ビーチボーイズ
同じことはストラヴィンスキーの『春の祭典』についても言えます。
1913年にパリでこの曲が初演されたとき、そのあまりの斬新さに聴衆がついてこれず、会場は騒然として、えらい混乱が生じました。
その型破りな音楽に、みんな度肝を抜かれてしまったわけです。
しかし演奏回数を重ねるにつれて混乱はだんだん収まり、今ではコンサートの人気曲目になっています。
今僕らがその曲をコンサートで聴いても、「この音楽のいったいどこが、そんな騒動を引き起こすわけ?」と首をひねってしまうくらいです。
その音楽のオリジナリティーが初演時に一般聴衆に与えた影響は「たぶんこういうものであったのだろうな」と頭の中で想像するしかありません。
じゃあ、オリジナリティーというのは時がたつにつれて色褪せていくものか、という疑問が生じてくるわけですが、これはもうケース・バイ・ケースです。
オリジナリティーは多くの場合、許容と慣れによって、当初の衝撃力を失ってはいきますが、そのかわりにそれらの作品は(もしその内容が優れ、幸運に恵まれればということですが)「古典」へと格上げされていきます。
(83-84ページ)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
YouTubeはデンマンが貼り付けました。
写真はデンマン・ライブラリーより)
『職業としての小説家』
著者: 村上春樹
2015年9月17日 第1刷発行
発行所: 株式会社 スイッチ・パブリッシング
デンマンさんは村上春樹にハマッているのですかァ~?
いや。。。 僕はハルキストではないのだよ!
それなのに、どういうわけで村上春樹の本を読んだのですか?
オマエも知っていると思うけれど、「現実主義者」と名乗る愚か者と僕はこの半年余り コメントのやり取りをしながら交流しているのだよ。。。
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■『現実主義者と第2の人生』
この上の馬鹿が村上春樹に代わって、今年の秋、ノーベル文学賞がもらえると言って、スキップして喜んでますよねぇ~。。。
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わァ~~ うれしいなあああァ~。。。
やはり、仏のデンマンさんは
すばらしいです。。。
オイラが友達もなく、40ヅラさげて
結婚もできずに
狭い部屋に閉じこもっているにも拘らず
一生懸命に記事を書いて
第2の人生を踏み出して
オイラがまともな人間になるように
応援してくれるのです!
もしかすると、村上春樹に代わって
今年の秋にはノーベル文学賞がもらえるかも…
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オイラは偏差値30台のクソ大学を
卒業して以来、初めて
生きる喜びを感じています!
もうこうなったら、恥も外聞もなく
天にも舞い上がる気持ちで
スキップしたいと思います。
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わァ~~ うれしいなあああァ~。。。
ルンルンルン ランランラ~♪~ン
もう一つおまけに
ルンルンルン ランランラ~♪~ン
ああァ~、うれしいなあああァ~。。。
デンマンさん! いつまでも こういう馬鹿と付き合っている場合じゃないですよ。。。
オマエは、反対するのォ~?
日本には“馬鹿を相手にするな!”という格言があるのですよ。。。 だから、「現実主義者」と名乗っている馬鹿とは絶交した方がいいですよ!
オマエは絶交するのを趣味としているようだけれど、「生きる価値のないクズの廃人です」と自分で認めている この男は実に哀れなんだよ!
それで、この男が、村上春樹に成り代わって今年の秋、ノーベル文学賞をもらいに行くと言っているので、デンマンさんも村上春樹の本を読む気になったのですか?
そうだよ!
馬鹿バカしい! デンマンさん! いい加減にした方がいいですよ。。。 “朱に交われば赤くなる!”という格言もあるのですよ。。。 あのバカと付き合っていたら、デンマンさんもバカになるということですよ。。。
マジで。。。?
そんなことより、なぜストラヴィンスキーを取り上げたのですか?
だから、上の村上春樹の本を読んでいたら、彼がストラヴィンスキーの『春の祭典』について書いていたからじゃないかァ。
ただ、それだけのことで ストラヴィンスキーを取り上げてオイラを呼び出したのですか?
もちろん、それだけじゃないよ。。。 お前の記事の中でも独創性に触れている。。。
それで、村上春樹が書いたオリジナリティーについてを引用したわけですかァ~?
そうだよ。。。 オマエは不満なのォ~?
不満ではありませんが、せっかく格調高い話題を取り上げたのに、「現実主義者」を持ち出したのは間違いですよ。。。
でもさァ~、この男は「生きる価値のないクズの廃人であることをネットで広めたい」と言うのだよ!
それで、わざわざ その馬鹿をこの記事で紹介したのですか?
オマエは不満なのォ~?
デンマンさんは、“バカに交わってバカになっている!”のですよう。。。 今後、おいらを呼び出す時には、この愚か者のことは一切口にしないでくださいねぇ~。。。
オマエがそう言うのであれば、これからは「現実主義者」と名乗る馬鹿を連れてこないようにするからねぇ~。。。
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(すぐ下のページへ続く)