神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神さまの御心はどこに?~その2~

2020年05月01日 | キリスト教

 先日、某テレビ番組内において……「新型コロナウイルスによって、どの宗教の神にも力のないことがわかった」みたいにおっしゃっておられる方の発言を聞いて、ちょっと思うところがありました(^^;)

 いえ、カトリックのフランシスコ教皇も祈りを捧げておられますし、イスラム教徒の方や仏教徒、ヒンズー教徒の方だってそうでしょう。ただ、わたし自身は他の宗教に関して詳しいわけでもなんでもありませんので、あくまでキリスト教に関しては、さらにはその中の一信徒としてはこう思う、といったような、今回はそんなお話です。

 前回書きましたとおり、もし仮にわたしひとりが祈っても、まあバケツに三分の一くらい入った水が、ようやく(新型コロナウイルスの)炎が燃え盛っている城に届いて、その水をかけたくらいの効果しかないようなところがあるわけです。では、もっと祈る人の人数が増えればいいのだろうか……ということになりますが、その答えは「イエス」でもあり、「わからない」ということでもあります。

 聖書には義人の祈りは応えられるとありますが、キリスト教の義人というのは、その行いに何ひとつ悪いところのない、心正しい人とは少し違う――というと語弊がありそうですが(汗)、長くなりますので簡単に説明しますと、「イエス・キリストの十字架とその贖いを信じる人」はその犯した罪と背きのすべてを赦され、神さまにあって義とされる……といった意味での「義人」です。

 つまり、そうした義の人が祈れば聞かれるはずですし、そうした立派な信仰の人というのは全世界的な規模で見ればたくさんいらっしゃると思うんですよね。また、世界の終わりの時には天変地異や飢饉など、相当ひどい危機的状況があったのちにイエス・キリストが来られる――と聖書にはありますから(※艱難前携挙ではなく、艱難中携挙説を取っています)、実際に神さまの救いが訪れるまでに人は相当待たされることになるわけです。

 ゆえに、こうしたキリスト教信仰に立っている方というのは、こうした世界の終わりの前触れ、こうした世界の終末の艱難に対する備えとして新型コロナウイルスを捉えておられる方も多いと思うんですよね。また、今後経済が悪くなることに伴って、最悪戦争が起きる可能性というのもありえます。今、マスクやある特定の医療資源の不足によって、その奪い合いというのが実際に世界で起きています。

 その……このことで神さまに感謝する、などと書くと、反発を覚える方は多いと思いますが、今のところ「まだそのくらいで済んでいる」ことには、とりあえず個人的に感謝しています。もちろん、こうした必要なすべての物資が必要なところにすべて行き渡るように祈る必要というのは絶対的にありますが、「十分備蓄がありますよ」と言われているティッシュペーパーやトイレットペーパーでさえも、一時棚から消えたりしましたよね(^^;)

 自分的に恐ろしいと思うのは、わたしたちの過去の歴史の時代にはよくあったように、これが「食べ物」だった場合、事態は相当悲惨なことになりますし、人を殴ったり殺してまでも奪うのが当たり前――というくらい治安が悪くなったりと、その昔の時代には割とよくあったわけです。

 でも、今はもうそうした時代も過ぎ去り、「わたしたちはよりよくこうした事態をみんなで知恵を絞りあえば乗り越えていけるはずだ」と、経済学者の方などがおっしゃっているのを聞いて、本当にその通りだと思うんですよね。

「与え合えば満ちたり、奪い合えば事欠く」と言いますが、仏教の説話に、三尺三寸箸というお話があります。

 三尺三寸……一尺は約30センチ、一寸は約3センチだそうですから、三尺三寸というと、99センチですが、まあキリよく約1メートルの箸ということですよね(^^;)

 さて、目の前のテーブルにたくさんのご馳走が並んでいたとして、この約1メートルの箸を使って食事しなさいと言われた場合、当然、この1メートルの箸を使ってでは自分の口までこのご馳走を運ぶということは不可能です。

 では、どうするのかというと――地獄では、このご馳走を奪いあうために箸でお互いを刺しあい、極楽ではこの1メートルの箸を使って誰かの口へご馳走を持っていき、また、別の誰かが、わたしの口元へ箸でご馳走を運んでくれる……こうしてお互いの口元へご馳走を運びあうことによってその場にいる全員が満腹することが出来る、という、そうしたお話でした(※参考にさせていただいた、こちらの記事のイラストを見ていただけるとすごくわかりやすいと思います→『仏教辞典』様より)。

 ですから、キリスト教や仏教やイスラム教、ヒンズー教などでも、遥か昔から続く豊かで深いこうした思想性があり、そもそも西洋哲学の基礎はキリスト教が土台になっていますから、そうしたところから知恵を発展させて、今現在人類が直面している数々の問題について考える……というところが必ずあると思うんですよね。

 この中のどの神を信じるのかといったことは、その方が生まれた環境といったこともあるでしょうし、巡り合わせや運命といったこともあるかもしれません。わたしも、自分がキリスト教徒になる前までは、「もしこの世界に神が本当にいるのなら」、自分こそがあなた方を生んだ神である、わたしを信じなさい的に必ず全人類を導くはずだ、にも関わらずそうなっていない現在、この世界に真実本当の神などという存在はいないのだ……といったように考えていたものでした。

 このあたりのことに関しては、ずっと前に書いた記事との重複になりますが、たとえば、この世界には蟻という生物がいますよね。で、わたしが死のうかどうしようか、自殺しようかどうしようかと考え、また、この世に神はいるのかいないのかと悩んでいた頃――この蟻が何匹もいるのを見て、ふとこう思ったことがありました

 人間から見たら、蟻なんて足の裏で踏み潰せるくらいの小さな存在、命でしかないかもしれません。しかも、時には踏んだことにも気づかず、殺していることさえあるかもしれないわけですよね。それのみならず、わたしが蟻の中の一匹を手のひらにのせ、足の一本をもいで戻したとしたら――その蟻にとっては一撃で踏み潰されるよりも、より無駄な苦しみを長時間感じつつ最後には死ぬ、ということになるかもしれません。

 その瞬間、わたし思ったんですよね。「あ、この世に神はいない」って。仮にいたとしても、人間なんて神さまにとっては人間から見たこの蟻のようなもので、わたしがもし明日交通事故に遭い、片足を失ったにせよ、無関心に放っておくだろう……つまり、問題は「真実本当に神はいるのかいないのか」ではない。もし仮にいたにせよ、今すぐにわたしたちに必要な力や助けを送ってくださらないなら、そんな神はいたところでなんの意味もない――というわけで、実際わたしは自殺しよう、とはっきり心に決めました。

 長くなるので、このあたりの詳しいことは端折りますが、とにかく、「新型コロナウイルス」にしても、「神さまなんていないな」というのは、特定の信仰を持たない方にはそのようにしか思われないことだと思います。そして、わたしもかつて自分がそうだったので、その気持ちもとてもよくわかるのです。

 ただ、いわゆる神学的深遠というのでしょうか。確かに、神学の世界というのはとても深いものであり、キリスト教においては、「神さまというのは、御自身で人間に自分を現そう」とお思いにならない限り、決して人間の側ではその存在を見出すことが出来ない……という、そうした存在なんですよね(^^;)

 説明すると長くなるのですが(汗)、そうした意味において神さまは、旧約聖書の創世記において、まずはアダムやエヴァに姿をお現しになられ、その後、彼らに続く子孫にも、特に有名な人物としてはノアやアブラハムやソロモンなどにその存在をお知らせになりました。新約聖書のマタイの福音書は、イエス・キリストの系図からはじまりますが、イエスさまというのはこれらの人々の子孫と言われています。

 そして、旧約聖書にはメシア預言という、イエス・キリストに関して預言された箇所がたくさんあり、イエスさまは救世主としてそれらの預言のすべてを成就するために、十字架にかかって全人類のために血の贖いをなされました。このことが何故神の愛なのか、二千年くらい前に今のイスラエルのあたりに存在し、十字架にかかった男の生涯と、今という現在を生きるわたしたちにいったいなんの関わりがあるのか……こう聞かされてもさっぱりわかりません。

 けれども、一度教会でイエスさまを受け容れる決意をし、聖霊さまを受けると、「あーっ、なるほど!そういうことだったのか」と、色々なことがわかってきます。でも、神さまはすぐにパッと、「誰もがすぐに聞いてわかる」という形によっては、人間に姿をお現しになることも、その教えについても「封印されたものの封が解かれない限り」、人には「わかる」ということがないといったようにされたのです。

 個人的に、キリスト教には聖書という分厚い聖典があり、信徒はあのすべてを読まなければならないと聞いた時点で、わたしとしては「キリスト教の神は本当の神ではない」という確信が強まったものでした。何故なら、知的障害のある方などはどうするのだろうと思ったからですし、そうした弱い人を排除するような宗教の神が本当の神でなどあるはずがないという強い気持ちがありました。

 でも、こうしたことも大体、信じたあとにはただの自分の偏見だったということがわかります。また、自分が実際にクリスチャンになる前まではわからなかった疑問についても、大体のところ聖書にその答えが書いてありました(^^;)

 これはあくまで、わたしが個人的にそう思う、ということですが、ゆえに「神はいない」とか、「神など信じてもまったく無意味だ」ということにはならないと思うのです。わたしはキリスト教徒で、イエス・キリストの十字架の血の贖いの業、またそのゆえに罪を許され、天国へ行くことが出来るということを信じる者とされた者ですが、仮にこの神がいなかったにせよ、「神がいる」と固く信じるがゆえに人々が生みだしてきたすべての事柄について思ってみても――いないと信じるよりもいたと信じたほうが、どれほど人類にとって有益だったことだろうと思います。

 もちろん、宗教戦争や、宗教の違いゆえに差別や偏見が生まれたりといった負の側面というのもあるかもしれません。ですが、本当の意味で正しくすべての人が今歴史的に残っている宗教の何かを信じるなら、そもそも争いや揉め事自体が起きないはずなのです(^^;)

 けれども、宗教的権威を用いて、何かの軍事行動を起こしたりですとか、間違った方向に国の権力者などが向かった時に、何がしかの戦争なり揉め事なりが起きてきたりするわけですよね。

 わたしはクリスチャンですけれども、先ほどの「三尺三寸箸」のお話などには本当にハッとさせられますし、キリスト教徒の立場から見れば、仏陀は神ではないと言いますか、実際のところ仏陀自身も自分を神と称したわけではないにしても――とにかくそうしたところがあると思うのですが、お互いの宗教を敬いあう、ということは出来ると思うのです。

 さて、新型コロナウイルスのことに話を戻すとしますと、これは信徒の方向けの祈りということになるかもしれませんが、旧約聖書の詩篇より、次のお祈りを特にお勧めしたく思いますm(_ _)m


 >>わざわいは、あなたにふりかからず、
 えやみも、あなたの天幕に近づかない。

 まことに主は、
 あなたのために、御使いたちに命じて、
 すべての道で、あなたを守るようにされる。

 彼らは、その手で、あなたをささえ、
 あなたの足が
 石に打ち当たることのないようにする。

 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、
 若獅子と蛇とを踏みにじろう。

 彼がわたしを愛しているから、
 わたしは彼を助け出そう。
 彼がわたしの名を知っているから、
 わたしは彼を高く上げよう。

 彼が、わたしを呼び求めれば、
 わたしは、彼に答えよう。
 わたしは彼の苦しみのときに彼とともにいて、
 彼を救い彼に誉れを与えよう。

 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、
 わたしの救いを彼に見せよう。

(※えやみ=悪質な伝染病)

(詩篇、第92編10~16節)


 >>私は山に向かって目を上げる。
 私の助けは、どこから来るのだろうか。

 私の助けは、天地を造られた主から来る。

 主はあなたの足をよろけさせず、
 あなたを守る方は、まどろむこともない。

 見よ。イスラエルを守る方は、
 まどろむこともなく、眠ることもない。

 主は、あなたを守る方。
 主は、あなたの右の手をおおう陰。

 昼も、日が、あなたを打つことがなく、
 夜も、月が、あなたを打つことはない。

 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
 あなたのいのちを守られる。

 主は、あなたを、行くにも帰るにも、
 今よりとこしえまでも守られる。

(詩篇、121編)


 それではまた~!!





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