わたしがキリスト教の中で好きなところのひとつに、「人は善行積立型」で天国へ行くのではない――ということがあるのですが、現在、「人生百年」とも言われる生活設計の中で、寿命が祝福され、割と健康に過ごして百歳で亡くなったとした場合……もしわたしが死ぬ際に当たって、「人生で起きた素晴らしいこと」と「人生で起きたあまり良くない悪いこと」を天秤にかけ、僅か数グラムの差で「いいこと、素晴らしいこと」のほうが目方として重かったから、わたしの人生は良いものだった――と考えるとしたら、多くの方は「ん?」と思われるのではないでしょうか(^^;)。
これと同じく、わたしが死んで天国へ行くという時……わたしが見えない手に握っているのは「天国へのパスポート、byイエスキリスト」といったところでしょうけれども、もしそうでなかったとした場合――わたしがクリスチャンになる前に考えていたのは、次のような天国でなかったかという気がします。
つまり、雲が幾層にも積み重なる天国へ魂が昇っていくと、そこには検問所のようなものがあって、生前にどのくらい良いことをして、悪いことをしなかったかについて調べられ、まあ空港の手荷物検査とか、そういうのに似てますよね。ゲートを通った瞬間、「ブブーッ!!」と鳴れば、ケルベロスのような地獄の番犬を従えた悪魔警官的な人がやって来て、「あんちゃん、ちょっとこっち来てもらおうか」と、くちゃくちゃガムを噛みながら、手に持った警棒で肩を叩く――そして、ピンポーン!という明るい音とともに無事ゲートを通過できた人々は、地上において悪を行うでもなく、あるいはそんなことがあったにしても、その後悔い改めて自分なりに贖罪をし、善に務めて生きようとした人々であった……というような、何かそんな天国的イメージを持ってた気がします。
でも、キリスト教の考え方というのは、そもそも他の人々とはまったく別のゲートに通されて、特別なVIP待遇を受けられる場所で、そのまま天国行きの飛行機へ乗る……といったもので、わたしはこの考え方や思想を気に入ってクリスチャンになったというわけではないのですが、わたしの手にしている「天国へのパスポート、byイエス・キリスト」には、イエスさまが十字架で流された血潮がついているがゆえに――ゲートを通る時に「イエスは神の子ですか?」と天使に質問されたとすれば、「イエスさまは神の子です」と告白することが出来るゆえに、それでわたしは天国へ行くことが出来る……ということだと思います。
もちろん、ノンクリスチャンの方にしてみれば、「それはそれでなんか変じゃん☆」というお話かもしれません。それはさておき、わたしたちはこんなふうに「悪いことよりも良いことのほうが多かったから、全体としてわたしの人生は良い人生」であるとか、良いものと悪いものを比較して、善が多少上回っていれば良いとか、人生トントンだとか、そんなふうに考えるところがありますよね。
ところが、人間の好き・嫌いに関することで言うと、どうも話が変わってきます。わたしたちは、「あの人はあんなにも善ばかりを行っていて、なんと良い人なのだろうか」という人を好きになったり尊敬する場合もありますが、そうした理屈で誰かを好きになることはむしろ少ないのではないでしょうか。昔、心療内科でカウンセリングを受けていた時、職場の人間関係について相談していて、精神科医の先生にこう言われたことがありました。「その人のプラスがマイナス(性格の欠点や悪いところ)を上回っていれば、その人はいい人なの?」と。こう書くと何か、わたしが職場の気の合わない人の欠点を上げつらい、「だからアイツは悪い奴なのだー」と、えなりかずきくんのような口調で言ってたように誤解されそうですが(笑)、そうしたことではないんですよね。というかわたし、その時々で働いていた職場の誰かしらの悪口とか、そんなに言ったような記憶もなければ、不満を持った記憶のようなものもあまりなく……ゆえに、なんの話でそう言われたのだったか忘れてしまったものの、その言葉にはちょっとハッとするところがあったので、それで覚えていたわけです。
でも、ある人との人間関係において、マイナスよりもプラスが上回っていたら、その人との人間関係はうまくいっていると考えるべきだ――という理論で納得できる方は、おそらく少ないのではないかと思います。夫婦関係、友達関係、職場の人間関係など、おそらくどの人間関係においても、わたしたちはその人のマイナスが大きいがゆえに好きになるということが、実際のところ結構ありうる……それは自分の性格的マイナスと相手のそれとによって共感するからかもしれませんし、そんなマイナスがあってもこんなに頑張っているという姿に愛を覚えるといったような、そんな場合もあるのではないでしょうか。
さて、キリスト教徒が救われ、イエスさまが十字架上で流された血潮のゆえに天国へ行けるのは、イエスさまがそこまでの犠牲を、愛を持って払ってくださったからでした。わたし個人のことに限っていえば、人の吐き捨てたガムを誰も見向きもしないように、犬のうんこ☆の横あたりにあったそれを、「可哀想だから助けてあげよう」とイエスさまが、わたし(ガム☆)が何かの拍子にうんこに付着して埋もれる前に助けてくださった――何かそんなことのような気がします。
まあ、「そのたとえはどうなんだ……」という話ではありますが、簡単にいうと、イエスさまの人間に対する愛はそのくらい深いものでした。つまり、「取るに足りない」、「手にのせて救う価値すらない」者たちのために、イエスさまは十字架上で血を流され、わたしたちを救ってくださったのです。
神さま、イエスさまの視点から見れば、わたしたち人間というのは、わたしのように「味のしないガム☆」というほどひどくなくても、再利用できなくなったプラスチック製品であるとか、今はもうボロボロになって誰も着なくなった服や靴、ゴミ屋敷の片隅で蠢くゴキブリの群れ……などなど、マイナスだらけで救う価値のない人間を丸ごと受け容れ愛してくださったほどの、それほどに深い愛によってイエスさまはわたしたちを愛してくださいました。
>>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書、第3章16節)
>>まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである」
神はこれを、御霊(聖霊)によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
(コリント人への手紙第一、第2章9~11節)
神さま、イエスさまの愛のご計画は、わたしたち人間の理解を遥かに越えるものでした。わたしたちは、誰か人を好きになる時、ある程度のマイナスを愛ゆえに愛し、目を瞑ることが出来る場合もあります。でも、自分がいかに愛を与えようとも、相手がそのことを当たり前と思い、あぐらをかくのみならず、こちらが100与えるのに対し、1の見返りもないとしたら……いえ、人間の感情としては、親子の愛情の場合などは別として「こちらが100与えるのに対して10の返報もない」としたら――それがまるで当たり前のこととして、相手のほうでもふんぞり返っていたら、大抵の場合はもうその人の携帯の番号には出ないとか、ラインにも返事しないとか、たぶんそんなふうになっていくのではないでしょうか。
でも、イエスさまにはおそらくそもそも、プラスもマイナスもないのだと思います。「あなたにとってはやみも暗くなく、夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。」と詩篇にあるように、神さまは昼間はプラスで夜はマイナスだ……といった考え方すらされないでしょう。海外の刑務所ものには大抵、「悪を行ったがゆえに、そこでイエスさまの愛に触れ、悔い改めた」といった人物が出てくるものですが、イエスさまはそうしたマイナスも魂の底の底から支えるように愛されます。
すべてのマイナスは愛に変わることが出来る――でも、愛に変わったからプラスになったのだという理論的なことではなく、イエスさまの愛は、そうした人間の理論の枠さえも壊す、どんな地獄の底の深みすらも越えて、もっと深いものであることを感謝します
それではまた~!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます