【羊飼いの少女】ジャン=フランソワ・ミレー
一応、文章の流れ(?)的には、前回の「マーリン・キャロザースさんの感謝と讃美の教え-【8】-」の続きということで、よろしくお願いします(^^;)
>>神へのいけにえは、砕かれたたましい。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇、第51編17節)
わたしたちの毎日は忙しく、朝起きたら食事の準備や身支度など、その後学校や職場へ行き、そこに付随する人間関係等のことで心がいっぱいで、その間神さまのことなど考えてもみない――というのは、<普通の日常の風景>ではないかという気がします。
わたしも、イエスさまのことを知る前はずっとそうでしたし、それらのことがありながらも、常に優先順位として神さまのことを一番上に持ってくる……というのは、もしかしたら難しいことなのかもしれません。
けれども、一度聖霊さまが注がれて、イエスさまが内住されると、それらのことすべてと同時に、神さまが共におられる……ということが、だんだんにわかってくるかと思います。
また、わたし自身の場合、常に心が苦しみとともにありましたから、その苦しみを通して神さまに助けを求めることで、そのような聖霊さまによる感覚が養われていったという側面があったかもしれません。
常にいつでも砕かれた心を神さまに捧げる……と聞くと、やっぱり神さまを信じるといったそうした信仰の道は、仏教にせよキリスト教にせよ、何やら苦しくて大変そうだなあみたいに思われるかもしれません。けれども、これは多くの方が誤解し、物事を逆さまに考えているそのせいなのではないでしょうか。
マーリン・キャロザースさんの感謝と讃美の教えのところで見てきたとおり、人の心は毎日何がしかの不平や不満、あるいは心配ごとでいっぱいです。また、それらをすべて神さまに委ねて感謝せよ、と言われても、自分の預金通帳が3円しかない時に、三千万くらい貯金のある人にそう言われたかのように、何か信頼できないものです(笑)
そこで、わたしたちは神さまに泣き叫びます。「神さま、このわたしの預金通帳を見てください。たったの3円しかありません。これで一体どうやって暮らしていけというのでしょう。夫は稼ぎが悪く、わたしは働きたくても病気で、子供たちは言うことを聞きません……etc.etc」といった感じのお話が本当にたくさんあるかと思います(^^;)
でも、預金通帳に3円しかないというのは、ある意味感謝なことだというのは本当です。もちろんわたしだって、「三百万とは言いませんよ、神さま。せめて三十万くらいあったら、少しは余裕のある生活を送れようというものではありませんか」と言いたい気持ちはとてもよくわかります。
そして、信仰生活のはじめというのは、そのたったの3円を捧げるというところからはじまるといっていいのではないでしょうか。
>>それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」
(マタイの福音書、第12章41~44節)
どのみち、たったの三円ならば、神さまに捧げても捧げなくても同じこと――と、多くの方がそう思うでしょう。
「よろしいです、神さま。このたったの三円でいいのならば、捧げましょう」ということを決意し、神さまに感謝し讃美することをはじめたところ、その後色々なことが変わってきたという、マーリンさんが「讃美の力」や「獄中からの讃美」といった著書に書かれていることは、そうした証の数々といっていいのではないでしょうか。
先ほどわたしは、3円しか神さまに捧げるものがないというのは感謝なことだ……と書きましたが、この理由は実は簡単です。
何故なら、わたしに今仮に三千万円あって、それなりに問題がありながらも、それなりにまあまあの安定した人生というのを送っていたとしたら――そのうちから果たして、3円でも神に捧げようという発想が思い浮かぶものでしょうか?
おそらく、三千万円の中から3円捧げてどうなる……といった人間的理屈から、おそらくは神を知る機会、イエス・キリストを体験する道といった恵みを知らずに一生を終えることになるかもしれません。
わたしたちが物事を逆さまに考えている――というのは、本当のことです。列王記に、預言者エリシャに空のつぼを満たしていただいた未亡人のお話が出てきます(こちらの記事をご参照ください。『ひび割れた油の壷』m(_ _)m)
聖書にある、>>罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました(ローマ 人への手紙、第5章20節)という言葉は本当なのです。
このご夫人は空のつぼに油を満たしてもらうことで、夫の残した借金をすべて返済しました。けれども、このつぼが空であったからよかったのです。けれども、わたしたちの日々の心配ごとやら隣人に対する醜い嫉妬やら何やら、色々なものがいっぱい詰まっていたとしたらどうでしょう。
神さまは、わたしたちの空の器をご自身の愛で満たしたいと、これほど熱望しておられるのに――わたしたちがそんな色々なものの詰まったつぼしか御前にお持ちできないとしたら、油の注がれる量というのは、空の器になみなみと注がれる時よりも、わたしたちに心配事やら悩みごとやらがある分、間違いなく減ってしまうのです。
ですから、自分がまったくの空っぽで何もないという状態の方は、その状態のまま神さまの前に出ていけるのですから、ある意味これ以上幸せなことはないのではないでしょうか。
けれども、わたし自身もそうですが、人には大抵ひとつかふたつ、必ずといってもいいくらい「これだけは離したくない」とか「神さまにお委ねしたくても、その心配ごとが自分の身の一部になっているため、その部分を切り離してお捧げすることが(自分でそうしたくても)出来ない」、「あれことこれとそれについては神さまに感謝できますが、このことだけは感謝しろというのは絶対無理だ。残酷だ」ということが必ず何かあると思います。
そして神さまは、そうしたものを全部、わたしの元へ持ってきなさいと言っておられると思います。
>>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイの福音書、第11章28~30節)
心の重荷をすべて神さまに委ねましょう。そして、そのかわりに神さまのくびきを負うのです。
このくびきとはなんでしょうか。家畜が畑を耕す時などに、首にかけられている窮屈な器具のことです。
【2頭の牛をつなぐくびき】(ウィキペディアよりm(_ _)m)
人というのは大抵、それが運命に強いられたものであるにせよ、人に強要されたものであるにせよ、あるいは自分自身で望んでそのような状態に陥らざるをえなかったにせよ――こうした罪の状態から逃れられない何かによって苦しんでいます。
けれども神さまは、そのようなくびきから解放し、わたしたちを罪から自由にした上で、わたしについて来なさいとおっしゃいました。もちろん、わたしたちにはそこから逃げる自由も与えられています。神の恵みからむしろ逃げる、というのは少しおかしなことかもしれませんが、「イエス・キリスト?あいつのことはよくわからない」という感じで、実際神さまの恵みから逃げるという方は本当にいらっしゃるのです(笑)
イエスさまは、わたしたちに負えないくびきを背負わせるような方ではありません。それどころか、良い牧者として、わたしたち羊の世話をよくしてくださり、良質の餌を与え、放牧地でのびのびと散歩までさせてくださることでしょう。
>>主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
(詩篇、第23編)
イエスさまのことを信じ、聖霊のバプテスマを受け、このようなところまでやって来る時――わたしたちが持つ不信仰の問題というのは、その多くが少なくとも半分以上は解決されてくるのではないでしょうか。
それではまた~!!
一応、文章の流れ(?)的には、前回の「マーリン・キャロザースさんの感謝と讃美の教え-【8】-」の続きということで、よろしくお願いします(^^;)
>>神へのいけにえは、砕かれたたましい。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇、第51編17節)
わたしたちの毎日は忙しく、朝起きたら食事の準備や身支度など、その後学校や職場へ行き、そこに付随する人間関係等のことで心がいっぱいで、その間神さまのことなど考えてもみない――というのは、<普通の日常の風景>ではないかという気がします。
わたしも、イエスさまのことを知る前はずっとそうでしたし、それらのことがありながらも、常に優先順位として神さまのことを一番上に持ってくる……というのは、もしかしたら難しいことなのかもしれません。
けれども、一度聖霊さまが注がれて、イエスさまが内住されると、それらのことすべてと同時に、神さまが共におられる……ということが、だんだんにわかってくるかと思います。
また、わたし自身の場合、常に心が苦しみとともにありましたから、その苦しみを通して神さまに助けを求めることで、そのような聖霊さまによる感覚が養われていったという側面があったかもしれません。
常にいつでも砕かれた心を神さまに捧げる……と聞くと、やっぱり神さまを信じるといったそうした信仰の道は、仏教にせよキリスト教にせよ、何やら苦しくて大変そうだなあみたいに思われるかもしれません。けれども、これは多くの方が誤解し、物事を逆さまに考えているそのせいなのではないでしょうか。
マーリン・キャロザースさんの感謝と讃美の教えのところで見てきたとおり、人の心は毎日何がしかの不平や不満、あるいは心配ごとでいっぱいです。また、それらをすべて神さまに委ねて感謝せよ、と言われても、自分の預金通帳が3円しかない時に、三千万くらい貯金のある人にそう言われたかのように、何か信頼できないものです(笑)
そこで、わたしたちは神さまに泣き叫びます。「神さま、このわたしの預金通帳を見てください。たったの3円しかありません。これで一体どうやって暮らしていけというのでしょう。夫は稼ぎが悪く、わたしは働きたくても病気で、子供たちは言うことを聞きません……etc.etc」といった感じのお話が本当にたくさんあるかと思います(^^;)
でも、預金通帳に3円しかないというのは、ある意味感謝なことだというのは本当です。もちろんわたしだって、「三百万とは言いませんよ、神さま。せめて三十万くらいあったら、少しは余裕のある生活を送れようというものではありませんか」と言いたい気持ちはとてもよくわかります。
そして、信仰生活のはじめというのは、そのたったの3円を捧げるというところからはじまるといっていいのではないでしょうか。
>>それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」
(マタイの福音書、第12章41~44節)
どのみち、たったの三円ならば、神さまに捧げても捧げなくても同じこと――と、多くの方がそう思うでしょう。
「よろしいです、神さま。このたったの三円でいいのならば、捧げましょう」ということを決意し、神さまに感謝し讃美することをはじめたところ、その後色々なことが変わってきたという、マーリンさんが「讃美の力」や「獄中からの讃美」といった著書に書かれていることは、そうした証の数々といっていいのではないでしょうか。
先ほどわたしは、3円しか神さまに捧げるものがないというのは感謝なことだ……と書きましたが、この理由は実は簡単です。
何故なら、わたしに今仮に三千万円あって、それなりに問題がありながらも、それなりにまあまあの安定した人生というのを送っていたとしたら――そのうちから果たして、3円でも神に捧げようという発想が思い浮かぶものでしょうか?
おそらく、三千万円の中から3円捧げてどうなる……といった人間的理屈から、おそらくは神を知る機会、イエス・キリストを体験する道といった恵みを知らずに一生を終えることになるかもしれません。
わたしたちが物事を逆さまに考えている――というのは、本当のことです。列王記に、預言者エリシャに空のつぼを満たしていただいた未亡人のお話が出てきます(こちらの記事をご参照ください。『ひび割れた油の壷』m(_ _)m)
聖書にある、>>罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました(ローマ 人への手紙、第5章20節)という言葉は本当なのです。
このご夫人は空のつぼに油を満たしてもらうことで、夫の残した借金をすべて返済しました。けれども、このつぼが空であったからよかったのです。けれども、わたしたちの日々の心配ごとやら隣人に対する醜い嫉妬やら何やら、色々なものがいっぱい詰まっていたとしたらどうでしょう。
神さまは、わたしたちの空の器をご自身の愛で満たしたいと、これほど熱望しておられるのに――わたしたちがそんな色々なものの詰まったつぼしか御前にお持ちできないとしたら、油の注がれる量というのは、空の器になみなみと注がれる時よりも、わたしたちに心配事やら悩みごとやらがある分、間違いなく減ってしまうのです。
ですから、自分がまったくの空っぽで何もないという状態の方は、その状態のまま神さまの前に出ていけるのですから、ある意味これ以上幸せなことはないのではないでしょうか。
けれども、わたし自身もそうですが、人には大抵ひとつかふたつ、必ずといってもいいくらい「これだけは離したくない」とか「神さまにお委ねしたくても、その心配ごとが自分の身の一部になっているため、その部分を切り離してお捧げすることが(自分でそうしたくても)出来ない」、「あれことこれとそれについては神さまに感謝できますが、このことだけは感謝しろというのは絶対無理だ。残酷だ」ということが必ず何かあると思います。
そして神さまは、そうしたものを全部、わたしの元へ持ってきなさいと言っておられると思います。
>>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイの福音書、第11章28~30節)
心の重荷をすべて神さまに委ねましょう。そして、そのかわりに神さまのくびきを負うのです。
このくびきとはなんでしょうか。家畜が畑を耕す時などに、首にかけられている窮屈な器具のことです。
【2頭の牛をつなぐくびき】(ウィキペディアよりm(_ _)m)
人というのは大抵、それが運命に強いられたものであるにせよ、人に強要されたものであるにせよ、あるいは自分自身で望んでそのような状態に陥らざるをえなかったにせよ――こうした罪の状態から逃れられない何かによって苦しんでいます。
けれども神さまは、そのようなくびきから解放し、わたしたちを罪から自由にした上で、わたしについて来なさいとおっしゃいました。もちろん、わたしたちにはそこから逃げる自由も与えられています。神の恵みからむしろ逃げる、というのは少しおかしなことかもしれませんが、「イエス・キリスト?あいつのことはよくわからない」という感じで、実際神さまの恵みから逃げるという方は本当にいらっしゃるのです(笑)
イエスさまは、わたしたちに負えないくびきを背負わせるような方ではありません。それどころか、良い牧者として、わたしたち羊の世話をよくしてくださり、良質の餌を与え、放牧地でのびのびと散歩までさせてくださることでしょう。
>>主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
(詩篇、第23編)
イエスさまのことを信じ、聖霊のバプテスマを受け、このようなところまでやって来る時――わたしたちが持つ不信仰の問題というのは、その多くが少なくとも半分以上は解決されてくるのではないでしょうか。
それではまた~!!
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