【死と墓堀人】カルロス・シュヴァーベ
>>目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
(コリント人への手紙第一、第12章21~27節)
人の脳の重さは、多少個人差はあるにしても、大体男性で1350~1500グラム、女性は1200~1250グラムくらいだそうです。
つまり、人の体を解剖して脳だけを取りだし、秤で量ったとしたらそのくらいだということですよね。また、何かのミステリー系のドラマなどで、死因を探るのに解剖医の方が胃の重さを量ったり、あるいは胃の中の内容物を調べたり――といったシーンがあるわけですが、やっぱり、ああしたお仕事をされている方の中には、ある特定の宗教を信じている……といった方は少なく、無神論の方のほうが多い、といったように以前聞いたことがあります。
わたしも、小説で、ですが、こうした解剖の手順的なものを読んでいて、「これで同時に神さまのことも信じられるとしたら、その方は狂人ではなかろうか」といったように感じたものでした(^^;)
ところで、人類の歴史上、人間の体を解剖して具体的に調べようとしたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチだと言います。やはり、昔の人というのは迷信深いといったこともありますし、「死とは穢れ」であると同時に、「人の死は神聖なものである」といった信仰的な理由、あとはもちろん、ご遺族の方の心情といったことを考えると、わざわざ墓を掘り起こして人体を切り刻むなどもってのほか、という意識が極めて高かったということですよね。
けれども、レオナルド・ダ・ヴィンチの場合は、医学的なことが理由で解剖しようとしたのではなく――彼の場合はあくまで、芸術的な動機が人体解剖の理由だった言います。つまり、人の筋肉などの組織がどのようになっているのか、細かく解剖的に調べて描けなければ、それは正確性を欠いていることになるわけですよね。「えっ、そんな理由!?」と驚いてしまいますが、レオナルド・ダ・ヴィンチは無神論だったと言いますから、その点については「なるほど」と少しばかり納得できる点もあります(でも、レオナルド・ダ・ヴィンチもケロリ☆とした顔で墓泥棒的なことを行い、死体を切り刻んでいたわけではなく、わたしの見たテレビの再現だと、「おええ~っ!」とか最初は吐いたりしつつ、なんかそんなことしてましたね^^;)。
さて、こうして考えていくと、人間は取りも直さず物質的な存在であって、そこに「心」なるものが宿っているのは、ただの我々の共同幻想に過ぎないのではないか……との疑いが生じるわけですが、これはまあなんと言いますか、「自分という存在は何故他でもない自分という存在として存在しているのだろう」といったような疑問と同質で、時々ふとそのような考えが脳裏を掠めたにせよ、明確な答えなどはどこからも得られません。
冒頭に引用したのは、コリント人への手紙第一のパウロの言葉ですが、確かにわたしたちは眼球だけで存在することも出来なければ、肝臓や膵臓、膀胱だけで存在していても、ほとんど意味のない存在です。「そんなん、当たり前やろ☆」という話でもありますが、けれども、これほど様々な器官が互いに結びついて有機的に働いているということは、知れば知るほど「奇跡!!」としか思われないことのような気がしてなりません。また、人間に「我思う、ゆえに我あり」という意識があるのが何故なのかも、脳科学といった研究がかなりのところ発達した現在でもよくはわかっていないそうです。
でも、人間に<意識>というものがある以上、その意識の閉じ込められた脳の中、肉体の中でわたしたちは生きていくしかないわけですよね。何故といって、この限定された脳や体から出ていきたいとか、自由に出入りしたいと思ったところで、そうすることは出来ないわけですから……。
>> たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない 永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。
その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからでは ありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。
そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
(コリント人への手紙第二、第5章1~7節)
キリスト教においては、人間の内にあるこの意識、心、魂、霊といったものは死後も永続すると教えています。正直、わたしがクリスチャンになったのは、「死後に自分はどうなるのだろう。心配だ……」といったことが理由ではまったくなかったのですが、「キリスト教について詳しくなろう!」といった動機の内には、この「人間存在の<意識>の問題」といったことがあったかもしれません。
というのも、その頃某脳神経外科病院で看護助手の仕事をしていて、患者さんの中に交通事故に遭って以降植物状態になられた方や、あるいは脳梗塞などによって病院に搬送されて来たものの、その後意識不明の状態が続いておられる方が病棟全体の率として高かったからなんですよね。。。
正直、わたしがその患者さんの家族であったとしたら、「神さまがいるのなら、何故……」と嘆くばかりであって、「神さまというのはこうしたことをどう考えているのか」といった考え方は出来なかったかもしれません。けれども、あくまで介護する側として、心の支えというのでしょうか。「神仏にでも縋りたい」といったこととは別に、ただ直感として「これは宗教の力が必要だな」と感じ、特にキリスト教徒になったり、熱心な仏教徒になったりしたいといったことではなく、こうした事柄の「答え」に相当するもの、あるいはそれに近いことを宗教ではどう教えているのかを知りたいと思ったわけです。
もちろん、こうした人の植物状態(正確には遷延性意識障害と言います)といった症例というのは、人工呼吸器が誕生して以後の問題でもあり、キリスト教や仏教、あるいはイスラム教などが成立した頃には、「そのような場合は~~しなさい」といったことについて書き記しようのないことではあります。ただ、倫理的な問題として何か助けになるようなことは書いてあるだろう……といったように直感的に思ったんですよね。
そして、結局のところ、聖書などを読みつつ自分で勉強するのは無理だ、と思い、教会へ行くことにしたところ、主の十字架クリスチャンセンター(現在のライト・オブ・エターナル・アガペー教会)というところで救われる、ということが出来たわけです
といっても、わたしの場合、何か啓示的なことがあって信じたとか、何かそうした劇的なことがあったわけでもなんでもなく……教会におられた方々が「本当に心から神さま、イエスさまのことを信じ礼拝している」といった神聖な雰囲気があり(今にして思えば、聖霊さまの導き、結びつきだったとわかります)、「とにかくここには来なくてはならない」と感じた、いったことがありました。
そのですね、他のところでも随分前に書いたのですが、最初は本当に「ちょっでもおかしいところがあったら逃げ帰ろう」といった気持ちで教会へは行ったわけです。けれども、神さまの憐れみの業は完璧でした。「人が救われることは神の恵みに他ならない」という方法によって、わたしの場合もまたイエスさまのことを信じることが出来たのですから……。
寝たきりの方や植物状態の方を介護するに当たって、わたしがどういったふうに考えるようになったかは、「はるかな国の兄弟」という記事のところに書いたのですが、人間の<意識>の問題について、その後わたしがどう考えるようになっていったかというと――キリスト教徒にさえ一度なってしまえば、その点の問題はすべて解決してしまうわけですよ(^^;)
何故かというと、クリスチャンの魂は死後、天国へ行ってイエスさまとともに安らい、憩うことが出来るわけですし、聖霊さまを与えられると「そんなの、ほんとかなあ」といった疑いは、雲散霧消してしまいます。というより、生きている今現在もまた、神さまの御心に適う生き方をするなら、「この地上もまたもうひとつの天国」といったような人生を送ることが出来るでしょう。
もっともわたしの場合、己の罪深さにより、なかなか神さまの御心に適う生き方に至っていないというのが問題なのですが(汗)、そのようなゴミ虫というのか、クズ虫のような存在のことをも、イエスさまは恵み深く取り扱ってくださる方なので、この方に信頼さえしていたら、とにかくすべてが安心なのです♪
それではまた~!!
個人的に「怖いな」と感じるのが、天国へ行ける人々だけでなく、地獄へ行く人々の意識といったものもまた、死後にも永続し続ける、といったことだったでしょうか(^^;)
>>目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
(コリント人への手紙第一、第12章21~27節)
人の脳の重さは、多少個人差はあるにしても、大体男性で1350~1500グラム、女性は1200~1250グラムくらいだそうです。
つまり、人の体を解剖して脳だけを取りだし、秤で量ったとしたらそのくらいだということですよね。また、何かのミステリー系のドラマなどで、死因を探るのに解剖医の方が胃の重さを量ったり、あるいは胃の中の内容物を調べたり――といったシーンがあるわけですが、やっぱり、ああしたお仕事をされている方の中には、ある特定の宗教を信じている……といった方は少なく、無神論の方のほうが多い、といったように以前聞いたことがあります。
わたしも、小説で、ですが、こうした解剖の手順的なものを読んでいて、「これで同時に神さまのことも信じられるとしたら、その方は狂人ではなかろうか」といったように感じたものでした(^^;)
ところで、人類の歴史上、人間の体を解剖して具体的に調べようとしたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチだと言います。やはり、昔の人というのは迷信深いといったこともありますし、「死とは穢れ」であると同時に、「人の死は神聖なものである」といった信仰的な理由、あとはもちろん、ご遺族の方の心情といったことを考えると、わざわざ墓を掘り起こして人体を切り刻むなどもってのほか、という意識が極めて高かったということですよね。
けれども、レオナルド・ダ・ヴィンチの場合は、医学的なことが理由で解剖しようとしたのではなく――彼の場合はあくまで、芸術的な動機が人体解剖の理由だった言います。つまり、人の筋肉などの組織がどのようになっているのか、細かく解剖的に調べて描けなければ、それは正確性を欠いていることになるわけですよね。「えっ、そんな理由!?」と驚いてしまいますが、レオナルド・ダ・ヴィンチは無神論だったと言いますから、その点については「なるほど」と少しばかり納得できる点もあります(でも、レオナルド・ダ・ヴィンチもケロリ☆とした顔で墓泥棒的なことを行い、死体を切り刻んでいたわけではなく、わたしの見たテレビの再現だと、「おええ~っ!」とか最初は吐いたりしつつ、なんかそんなことしてましたね^^;)。
さて、こうして考えていくと、人間は取りも直さず物質的な存在であって、そこに「心」なるものが宿っているのは、ただの我々の共同幻想に過ぎないのではないか……との疑いが生じるわけですが、これはまあなんと言いますか、「自分という存在は何故他でもない自分という存在として存在しているのだろう」といったような疑問と同質で、時々ふとそのような考えが脳裏を掠めたにせよ、明確な答えなどはどこからも得られません。
冒頭に引用したのは、コリント人への手紙第一のパウロの言葉ですが、確かにわたしたちは眼球だけで存在することも出来なければ、肝臓や膵臓、膀胱だけで存在していても、ほとんど意味のない存在です。「そんなん、当たり前やろ☆」という話でもありますが、けれども、これほど様々な器官が互いに結びついて有機的に働いているということは、知れば知るほど「奇跡!!」としか思われないことのような気がしてなりません。また、人間に「我思う、ゆえに我あり」という意識があるのが何故なのかも、脳科学といった研究がかなりのところ発達した現在でもよくはわかっていないそうです。
でも、人間に<意識>というものがある以上、その意識の閉じ込められた脳の中、肉体の中でわたしたちは生きていくしかないわけですよね。何故といって、この限定された脳や体から出ていきたいとか、自由に出入りしたいと思ったところで、そうすることは出来ないわけですから……。
>> たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない 永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。
その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからでは ありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。
そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
(コリント人への手紙第二、第5章1~7節)
キリスト教においては、人間の内にあるこの意識、心、魂、霊といったものは死後も永続すると教えています。正直、わたしがクリスチャンになったのは、「死後に自分はどうなるのだろう。心配だ……」といったことが理由ではまったくなかったのですが、「キリスト教について詳しくなろう!」といった動機の内には、この「人間存在の<意識>の問題」といったことがあったかもしれません。
というのも、その頃某脳神経外科病院で看護助手の仕事をしていて、患者さんの中に交通事故に遭って以降植物状態になられた方や、あるいは脳梗塞などによって病院に搬送されて来たものの、その後意識不明の状態が続いておられる方が病棟全体の率として高かったからなんですよね。。。
正直、わたしがその患者さんの家族であったとしたら、「神さまがいるのなら、何故……」と嘆くばかりであって、「神さまというのはこうしたことをどう考えているのか」といった考え方は出来なかったかもしれません。けれども、あくまで介護する側として、心の支えというのでしょうか。「神仏にでも縋りたい」といったこととは別に、ただ直感として「これは宗教の力が必要だな」と感じ、特にキリスト教徒になったり、熱心な仏教徒になったりしたいといったことではなく、こうした事柄の「答え」に相当するもの、あるいはそれに近いことを宗教ではどう教えているのかを知りたいと思ったわけです。
もちろん、こうした人の植物状態(正確には遷延性意識障害と言います)といった症例というのは、人工呼吸器が誕生して以後の問題でもあり、キリスト教や仏教、あるいはイスラム教などが成立した頃には、「そのような場合は~~しなさい」といったことについて書き記しようのないことではあります。ただ、倫理的な問題として何か助けになるようなことは書いてあるだろう……といったように直感的に思ったんですよね。
そして、結局のところ、聖書などを読みつつ自分で勉強するのは無理だ、と思い、教会へ行くことにしたところ、主の十字架クリスチャンセンター(現在のライト・オブ・エターナル・アガペー教会)というところで救われる、ということが出来たわけです
といっても、わたしの場合、何か啓示的なことがあって信じたとか、何かそうした劇的なことがあったわけでもなんでもなく……教会におられた方々が「本当に心から神さま、イエスさまのことを信じ礼拝している」といった神聖な雰囲気があり(今にして思えば、聖霊さまの導き、結びつきだったとわかります)、「とにかくここには来なくてはならない」と感じた、いったことがありました。
そのですね、他のところでも随分前に書いたのですが、最初は本当に「ちょっでもおかしいところがあったら逃げ帰ろう」といった気持ちで教会へは行ったわけです。けれども、神さまの憐れみの業は完璧でした。「人が救われることは神の恵みに他ならない」という方法によって、わたしの場合もまたイエスさまのことを信じることが出来たのですから……。
寝たきりの方や植物状態の方を介護するに当たって、わたしがどういったふうに考えるようになったかは、「はるかな国の兄弟」という記事のところに書いたのですが、人間の<意識>の問題について、その後わたしがどう考えるようになっていったかというと――キリスト教徒にさえ一度なってしまえば、その点の問題はすべて解決してしまうわけですよ(^^;)
何故かというと、クリスチャンの魂は死後、天国へ行ってイエスさまとともに安らい、憩うことが出来るわけですし、聖霊さまを与えられると「そんなの、ほんとかなあ」といった疑いは、雲散霧消してしまいます。というより、生きている今現在もまた、神さまの御心に適う生き方をするなら、「この地上もまたもうひとつの天国」といったような人生を送ることが出来るでしょう。
もっともわたしの場合、己の罪深さにより、なかなか神さまの御心に適う生き方に至っていないというのが問題なのですが(汗)、そのようなゴミ虫というのか、クズ虫のような存在のことをも、イエスさまは恵み深く取り扱ってくださる方なので、この方に信頼さえしていたら、とにかくすべてが安心なのです♪
それではまた~!!
個人的に「怖いな」と感じるのが、天国へ行ける人々だけでなく、地獄へ行く人々の意識といったものもまた、死後にも永続し続ける、といったことだったでしょうか(^^;)
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