神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

悪魔の誘惑-2-

2014年10月09日 | キリスト教
【堕天使を駆逐する聖ミカエル】ラファエロ・サンツィオ


 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。

 そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。

 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい」

 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」

 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。

「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
 ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう」

 イエスは答えて言われた。

「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある」

 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。

「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。
『神は御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです」

 するとイエスは答えて言われた。

「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている」

 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。

 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。

(ルカの福音書、第4章1~14節) 


 ええと、前回はマタイの福音書からの引用だったんですけど、今回引用したのはルカの福音書の部分です。

 なんていうか、信者の方であれば礼拝などで牧師さんが同じようなメッセージするのを何度も聞いている&自分でも聖書を引いて学んでいる……という感じだと思うんですけど、これはわたしの場合、自分に対する勉強用のような文章です(^^;)

 もうひとつ、マルコの福音書では、


 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

(マルコの福音書、第1章12~13節)


 とあるんですよね。

 マタイやルカとなんといっても表現が違うのは、御霊はイエスを荒野に追いやられた。っていうところかなって思ったりします。

 イエスさまは、いわゆる公生涯と呼ばれる人生のはじまる前までは、御両親によく仕え、つましい生活を送っておられたと思うのですが、さらにこの「神の国(天国)を宣べ伝える」という伝道をはじめる直前に、まずこの悪魔の誘惑を受けてるんですよね。

 悪魔のほうの目的としては、神の子であるイエスさまのメシア(救世主)としての資格を剥奪するために、あらゆる手を尽くしてイエスさまを誘惑したわけですが……次に、イエスさまの完璧なファイナル・アンサーについて、聖書箇所を順に見ていきたいと思います。

 まずひとつ目、『人はパンだけで生きるのではない』(ルカの福音書)
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』(マタイの福音書)


 これは旧約聖書は申命記の第8章3節からの引用となります。

 ちょっと長いですが。。。


 私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。

 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

 それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

(申命記、第8章1~5節)


 そしてふたつ目が、『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』

 こちらは、申命記の第6章13節からの引用となります。


 あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、

 あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった堀り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、

 あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。

 あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。

(申命記、第6章10~13節)


 それから三つ目が、『あなたの神である主を試みてはならない』

 こちらは、申命記6章16節からの引用となります。


 ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。

 あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。

 あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。

 あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。

 主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。

 そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。

(申命記、第6章14~19節)


 それと、ここにプラスして、悪魔(サタン)が引用した聖書の御言葉については、詩篇91編の11、12節。


 いと高き方の隠れ場に住む者は、
 全能者の陰に宿る。
 私は主に申し上げよう。
「わが避け所、わがとりで、
 私の信頼するわが神」と。
 主は狩人のわなから、
 恐ろしい疫病から、
 あなたを救い出されるからである。

 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。
 あなたは、その翼の下に身を避ける。
 主の真実は、大盾であり、とりでである。
 あなたは夜の恐怖も恐れず、
 昼に飛び来る矢も恐れない。
 また、暗やみに歩き回る疫病も、
 真昼に荒らす滅びをも。

 千人が、あなたのかたわらに、
 万人が、あなたの右手に倒れても、
 それはあなたには、近づかない。
 あなたはただ、それを目にし、
 悪者への報いを見るだけである。
 それはあなたが私の避け所である主を、
 いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

 わざわいは、あなたにふりかからず、
 えやみも、あなたの天幕には近づかない。
 まことに主は、
 あなたのために、御使いたちに命じて、
 すべての道で、あなたを守るようにされる。
 彼らは、その手で、あなたをささえ、
 あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、
 若獅子と蛇とを踏みにじろう。

 彼がわたしを愛しているから、
 わたしは彼を助け出そう。
 彼がわたしの名を知っているから、
 わたしは彼を高く上げよう。
 彼が、わたしを呼び求めれば、
 わたしは、彼に答えよう。
 わたしは苦しみのときに彼とともにいて、
 彼を救い彼に誉れを与えよう。
 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、
 わたしの救いを彼に見せよう。
 

 ルカの福音書の欄外注を読むと、「サタンは、聖書の約束を神のみこころに反して引用するために、「すべての道で」という句を省いている」と書いてあるのですけど、わたしが牧師さんのお説教で教えていただいたのは、ようするに「故意に高い建物から身を投げても、神さまは助けてくださるんでしょうから、本当に信仰があるのなら、そうして見せてくださいよ」……という、これはある種の虚栄心をくすぐる悪魔の誘惑なんですよね。

 この御言葉の箇所に関連する聖句としては、出エジプト記の第23章20節があると思うのですが、


 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。

 
 つまり、人間が自分の自由意志で欲望に負け、どんどん堕落していったとしても当然神さまはそうした状態からも救ってくださるわけですが、ここはそうした捉えというより、神の方向に顔を向け、その道を踏み行おうとする、心を清く正しく保とうと努める人々には、といったニュアンスがあると思うんですよね。

 そしてそうした人々というのは、あえて神さまのことを試みるため、高い建物のてっぺんから身を投げ出し、「これでわたしの命が助かったとしたら、あなたこそ神です」といった愚かなことは決してしない、というか(^^;)

 よく映画などで、聖書の御言葉を口にしたら悪魔・悪霊といった存在が退散した……といったように描かれますけれども、ここでは悪魔(サタン)自らが聖書の言葉を口にしているあたり、彼らという存在は相当狡賢い、恐ろしい存在なのだなと感じます。

 神さまを試みる罪、と聞いてもすぐにはちょっとピンと来ないかもしれないんですけど、この箇所にはおそらく「もし宝くじで三億円当たったら神を信じてもよい」といったような、「もし神さまが~~だったら」、「~~してくれたら」という条件を人間の側で出すといったことも広く含まれるような気がしたり

 さて、聖書の御言葉により、悪魔の誘惑のすべてをはねつけたイエスさまは、ここから宣教を開始して言われます。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
(マタイによる福音書、第4章17節)

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコの福音書、第1章15節)

 
 では、次回は弟子の召命についての箇所から、と思いますm(_ _)m

 それではまた~!!




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