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今回は、前回の記事『キリストの復活』に関連して、少し思いだしたことがあったので、そのことでもと思います(^^;)
ええと、かの有名なリンドグレーン女史の素晴らしい小説に、「はるかな国の兄弟」というお話がありまして
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ただこのお話、あんまり素晴らしい、いいお話なので……軽くあらすじを書くとしても、まだお読みになってない方の今後の感動が台無しになってはいけないと思うので、そのあたりは気をつけつつ、先にあらすじを書いてみたいと思いますm(_ _)m
>>物語の主人公は、ヨナタン・レヨンイエッタとカール(クッキー)・レヨンイエッタというふたりの兄弟です。
そしてお話の語り手はクッキーで、彼は小さい頃から体が弱く、足にも障害があって、いつも台所にある長椅子で寝ていることの多い子でした。
兄のヨナタンは成績優秀で友達も多く、それでいて弟のことを色々気遣うことの出来る、心の優しい少年です。
ある日クッキーは、お母さんと彼女のところに来たおばさんとが、自分は長く生きないだろう……と言っているのを偶然聞いてしまいます。
そのことをクッキーは悲しく思い、ヨナタンに泣きながら告白するのですが、ヨナタンは十にもならない弟に対し、少し不思議なことを話すのでした。
人は死んだらナンギヤラという国に行けるので、死ぬなんてそんな大したことじゃないよ、むしろすてきなことだと思うな、と言うのです。
さて、日本人的な言語感覚でいくと、「ナンギヤラへ行くのは難儀やな☆」といった親父ギャグが浮かんでしまうのはどうでもいいとして……このナンギヤラへは実は、病気で間もなく死ぬと思われていたクッキーではなく、ヨナタンが先に行くことになってしまいました。
クッキーたちが住んでいた住宅で火事があり、ヨナタンは弟のクッキーを背負って三階の住居から飛びおり、死んでしまうのです!!
ヨナタンが死ぬ間際に言った言葉は、「ナンギヤラでまた会おう!」というものでした。
そしてクッキーは、やがて本当にそこへ行くことになります……死後の国であるらしいナンギヤラという場所へ。
作者のアストリッド・リンドグレーン女史は、おそらくクリスチャンだったでしょうし、このナンギヤラというのは<本当の天国>へ行く手前の場所として描かれているのではないかと、読んでいて個人的にはそのように感じました。
さて、さらにこのお話の続きです
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>>ナンギヤラで最愛の兄、ヨナタンと再会したクッキーは、もう足にも障害はなくていくらでも歩いたり泳いだり出来ますし、そこにある<サクラ谷>という場所で、ふたりは暮らすことになるのでした。
ふたりは<騎士屋敷>という名の素敵なお屋敷で暮らし、馬に乗ったり、魚釣りをしたり、可愛いうさぎにエサをやったりして楽しく過ごすのですが、実はこのナンギヤラという場所には、難儀な(笑)問題があるのでした。
というのも、<サクラ谷>の近くにある<野バラ谷>には、テンギルという名の圧制者がいて、そこに住む人々を苦しめているのでした。そして、<サクラ谷>の人々は互いに力を合わせ、<野バラ谷>に住む人々を解放しようということで、一致団結しています。
ええと、読者はここで少し不思議になると思うんですよね。天国にも悪人がいて、善良な人を困らせたりなんだりという問題が存在するなんて……って。
でもここで、ヨナタンの口からナンギヤラという国の他にナンギリマという場所も存在するのだ、ということが前もって読者には知らされています。
え?ナンギヤラとナンギリマってどう違うの??という感じですが、お話をかなり最後のほうまで読んでくると、なんとなくこの違いがわかってくるような気がするんですよね(^^;)
☆ナンギヤラ=良い人の魂も、そうでない人の魂も、ともにある世界。
☆ナンギリマ=本当に本当の天国。
もちろん、このことはクリスチャンの死生観とは異なることかもしれません。
でもそのことを踏まえた上で、『死んだあとはこうなのじゃないかしら』ということが、児童文学とは思えないくらいのリアリティを持って読み手に迫ってくる……というのが、<はるかな国の兄弟>というお話の素晴らしいところだと思います。
そして、クッキーとヨナタンとは、死後の世界だというにも関わらず、ここでも「生きるか死ぬか」というくらいの冒険をし、最後には――という、ざっと話したとすれば、<はるかな国の兄弟>というのは、そんな物語かなと思います。
読み終わった時の感想としては、ただとにかく感動を持って読み終わったということの他に、個人的に色々と考えさせられることがありました。いわゆる植物状態というのでしょうか(正確には遷延性意識障害といったほうがいいかもしれません)。そうした方の<意識>の問題について、このお話は介護する側にとってとても心の支えになる物語ではないだろうかと、そんなふうに感じたんですよね。
というのも、以前他のところでも書いたかもしれませんが、わたしがキリスト教と仏教とイスラム教について思想的に詳しくなりたい……と思ったことの背景に、こうした問題がありました。もっともその病院にいたのはほんの一年とかそのくらいなんですけど、脳梗塞などでそのまま意識不明になってしまった方や、交通事故に遭ってのち植物状態……といった方のいる病院だったので、お世話をする過程でやっぱり色々と考えることがありまして(^^;)
その中には、人口呼吸器を抜去してしまったらそのままお亡くなりになるだろうという方が何人もいらっしゃいましたし、こうした医療があまりに進んでしまったがゆえに、ある意味死なずに生かされている方の<意識状態>がどうなっているのか――また、介護する側はこのことをどう捉えてお世話をすべきかというのでしょうか。
もちろん、最初に「意識がないように見えるけれど、耳だけは聞こえていてこっちの話してることはわかってるかもしれないと思ってお世話してくださいね」といったことを説明されましたし、寝たきりの方のオムツ交換の仕方、病衣交換の仕方、清拭の仕方など、色々なことを教えていただきました。
でもやっぱり、その中の<心>の部分は自分で考えるしかないというか(^^;)
「○△さん、体拭きますよー」とか、「体位交換しますねー」とか、一応声かけなどはするものの……やはりこちらが話しかけて何も返事が返ってこない方が相手となると、ある部分ただ事務的に声かけだけして、あとは職員同士で私語をぺちゃくちゃしゃべりつつ体位交換とか、あるいは病棟に人がいなくて超忙しい時など、声かけすらなくただいきなりオムツ交換して体位を変える――そんなこともあったなあと思います。
介護という事柄に関して理想論をぶつのは簡単なのですが、現場レベルのものの考え方としては、こうしたことっていうのはある程度避けられないというのが現実だと思うんですよね
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でも自分的にはそれでもやっぱり色々考えるところがありました。寝たきりの方の介護をする際、そこの病院では必ず職員が「ふたり一組」で2~3時間くらいおきに体位交換するのですが、どこの職場というのも「人間関係」というのがあるので、ある程度相手に合わせるというのが出てきます。たとえば、仮に便をしていた場合、基本的にそのあと陰部洗浄するということになっているのですが、自分の側にでなくて相手の側に「面倒くさい。やりたくない」という意志がはっきりある場合、お湯で濡らした布でお尻を拭いて終わりということになります。でも個人的にこれは嫌なんですよね。陰部洗浄までやったほうが自分的には絶対的にスッキリする。それでも組んだ相手次第でそのあたりは空気を読んで対応することになりますし、介護の何が大変といって、わたし個人は体力的にとかそうしたことより何より、職員間のそうした人間関係が一番面倒くさかったです
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話が少し逸れてしまいましたが、ナンギヤラという場所がもし、死後にすべての人が存在する世界であるとしたら、ナンギリマにはどんな人が行くことができるのでしょうか?これは『はるかな国の兄弟』を読んだ、わたし個人の感想なのですが、<ナンギヤラ>にはおそらく死後誰もが、どんな人もが行ける世界なのだと思います。でもそこでもまた人は、苦難を通して魂を<精錬>されねばならないのではないでしょうか。
そして<ナンギヤラ>でどう苦難と向き合い、対処したかどうかで、本当に本当の天国である<ナンギリマ>へ行けるかどうかが決まる……つまり、わたしが「はるかな国の兄弟」を読んで思ったのは、意識不明で長く寝たきりだったりされる方の意識って、<ナンギヤラ>にいるのではないかということでした。もちろん、こう書くとひどく馬鹿馬鹿しいと思う方もあると思います。でも完全に亡くなってしまった方の意識というか、魂は、<ナンギヤラ>へ行ってそのまま戻ってくることはないにしても――植物状態であったりされる方の意識っていうのは、<ナンギヤラ>の世界とこちらの世界とを行き来している状態ではないかと思ったのです。
そして、こうした形である種の「思想」を持つというのは、介護をする側にとって本当に重要なことじゃないかなと思っています。
もちろんそんな、あるかどうかわからない死後の世界について、信じることは出来ない、あるいはそんもの、たかが児童文学の、物語世界のお話じゃないか――と思う方があったとしたら、是非騙されたと思って読んでみてください
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なんていうか、もし仮に完璧な手技によってオムツ交換するとか、体位交換するといったことが毎日毎回出来たとして……そういうことって結局のところ長く続かず、精神的には絶対燃え尽きると思うんですよね。でも、つらい現実から目を逸らすというのではなくて、「もかしたらこうかもしれない、ああかもしれない」と想像することで、「いつかナンギヤラから帰ってきたらいいな」とか「もし戻ってこなくても、彼はそのままナンギリマへ行ったのだろう」と思えることが……介護する側にとっても心の救いに繋がるというか、もっとより良い看護をしようと思える動機にもなることだと思うんですよね。
今回も少し、キリスト教寄りではなくて、中立地帯(?)のお話になってしまいましたが(汗)、でも読んでいると、黙示録に出てくる竜を思わせる箇所があったりするので、そうした箇所も読んでいてとても素晴らしいと感じられる物語でした
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それではまた~!!
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イスラームのことを知らないときからこの本は一番好きな本です。
少女サラとリンドグレーンの往復書簡がリンドグレーンの死後発見されたものが本になって日本語訳も出てますが
リンドグレーンはサラが「はるかな国の兄弟」の一節を引用してあなたも私と同じ信仰があるはずと迫ったのをリンドグレーンははっきり拒絶してます。
サラの信仰はなんかキリスト教の小さいコミュニティだったようでリンドグレーンがサラの信仰の何を拒絶したのか明確になってません。
そしてリチャード獅子王とそれから多分ダビデとヨナタンがモチーフになってると思いますけれど
リチャード獅子心王の事を史実を考えると私にはリンドグレーンがイスラームに接近していたのだと妄想してしまいます。
うちのブログって滅多にコメントが入らないので、木之本李ファーティマ様からコメントが入っていると気づくのにすっかり遅れてしまいました
ええとですね、わたしも信仰というのは基本的に強制されるものではないと思います。たぶん、こんなことを言ったらキリスト教団体の方に叱られてしまうかも、なんですけど……イスラム教に熱心な方の信仰も、仏教の信仰に熱心な方も、同じように素晴らしく美しいところがあると思っています
わたしも不勉強で申し訳ないのですが……わたし、リンドグレーンさんの作品とか、その御生涯とかに実は全然詳しくないのです(すみません^^;)
なので、サラさんとの往復書簡がどんなものなのかがわからず……リチャード獅子心王というと、とても勇敢なイングランドの王さまだったということくらいしか知らないのですが(汗)、やっぱりヨナタンというと、わたしも聖書のダビデとヨナタンのことを思いだします♪(^^)
でも本当に、ライオンの心のような勇気を持つ、というのはヨナタンとカール(クッキー)のような兄弟のことを言うんだろうな……というところに、「はるかな国の兄弟」の感動が詰まっていると、そんなふうに思っています
木之本李ファーティマ様、コメント本当にありがとうございましたm(_ _)m