カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

楽園?もうひとつの顔。

2014-09-22 23:35:38 | 旅アルバム
第二次世界大戦以前から終戦まで、この島では毒ガスが
製造されていました。世界的に使用を禁止されていた兵器なので、極秘裏に。
そのため地図からも消され、海岸線を走る列車もこの島が見えないよう
窓を被っていたとか・・・

1927(昭和2)年、陸軍が毒ガス製造を目的に全島を管理下に置き(それまで
数戸の農家があっただけ)。1929(昭和4)年、ジュネーブ議定書(1925年)で
すでに戦争での使用を禁じた化学兵器の製造を始めた。(※開発保有は合法、
日本は議定書に署名はしたものの批准はしなかった)

戦時下は地元の農民や漁民、勤労動員学生など6500人ほどが従事、終戦の
年まで続けられ、大量に製造されたとか。ただし従事していたほとんどが、
何を造っているかは知らされず、まるで強制労働のようだったそうです。
※国家総動員法の徴用令状(青紙と呼ばれていた)により、ほとんどが
16-17歳という未成年でありながら、強制的に大久野島行かされたとか。




この事実が報道により日本国民に知らされたのは、なんと戦後40年近くも経った
1984(昭和59)年でした。それまで日本人“だけ”が知らなかったってことですね。

この風化させてはいけない事実を今に伝えるため1988(昭和63)年、ここに
『大久野島毒ガス資料館』が建てられました。ぜひ立ち寄って下さい。

工員手帳、男子・女子用作業服、液体毒ガス製造装置などが展示されている他
多くの写真パネル展示、映像による「証言でつづる大久野島」などが
放映されています。

〈陶磁器製毒ガス製造器具展示場〉




〈研究所跡〉


〈毒ガス貯蔵庫跡〉と思われる。

製造作業においても、戦後の処理作業でも被毒し、亡くなったり、後遺症に
悩まされた方も多くいたそうです。



今は平和そのもののウサギちゃんの姿を見られますが・・・
このウサギ、当時は実験動物だったのでは?の疑惑も。
確かに実験用にウサギも使われていたようですが、戦後の処理作業で
全て処分され、その時の子孫は残っていないとのことです。



島内探索のため展望台への徒歩道を選びました。途中にも何やら・・・



うさちゃんが道案内?してくれますが、これがまた結構な山道でして。(^_^ゞ



なかなか展望台へ辿り着けず、何度、ひと休みをしたことか・・・
その都度、うさちゃんが現れて癒してくれましたが♪



風景も上々、しかし道は途中からブッシュに!まだか展望台、もうヘトヘト。
特に家内はヒールのついたミュールってやつで、辛そう・・・



ここが展望台?いや、まだ先のようです。もうひと登り!
途中何組かの若者に出会い言葉を交わしましたが、若者でもヒイヒイw

やっと辿り着いた展望台。もう汗だくだく・・・









ここまで来た甲斐はあったかなぁ・・・脱水症になりかけ。(-。-;)
こんなにキツイとは思わなかったので、飲み物用意せずw






ここでもウサギちゃん、発見♪ちゃんと餌も水ももらっているようです。
ちなみにこの近くまで舗装した自転車道あり。レンタサイクルは電動アシスト!
・・・それにすればよかった。(^_^ゞ






やっとの思いで下まで降りてきました。
ちょうど島の西側を縦断したことになるのかな・・・
毒ガス関係で残されている建物としては一番大きいと思われる発電所跡は、
南東部にあるので(来る時に船窓から見えていました)行けませんでした。
短時間で島内を回るのは、電動アシストサイクルのレンタルをお勧めします!



〈長浦毒ガス貯蔵庫跡〉島の北西部にあります。



ええっ~!!まだ毒ガスが残ってたの?

・・・ご心配なく。花の下で、すやすやお昼寝ちう♪平和やのぉ~ヽ(´∀`*)ノ

ただ、この毒ガス。沖縄戦後、敗戦濃厚となるや本土決戦を想定して
全国にばらまかれました。
遺棄されたままのこの化学兵器のため全国各地で事故が発生しています。

島では戦後、GHQや政府により施設解体や残された化学兵器の処分が、周辺
海域への海洋投棄、火炎放射器による焼却、島内での地中処分といった方法で
行われ、除毒措置も施された。しかし処分は充分ではなく、現在でも島内地下
4~5mの土壌で高濃度のヒ素が検出されるなど、負の遺産を受け継いでいる。

中国戦線での使用を考えて製造された毒ガス、当然のことながら中国では
旧日本軍が遺棄した化学兵器によって多くの犠牲者が出たとか・・・
ちなみに1993(平成5)年、「化学兵器禁止条約」は10年以内に国内並びに
他国に遺棄した化学兵器を処分しなければならないと規定しています。
1995(平成7)年、日本政府は中国に遺棄されている毒ガス弾が日本陸軍のもの
であったことを公表し、調査により日本政府は過去の戦争で日本陸軍が
中国において化学兵器を使用したことを認めました。

僕らの知らない過去の戦争、では済まされない「戦後」はまだ終わってない
のだなと痛感させられます。
同時に、多くの犠牲者を出すに至ったこと,この痛ましい事実を今に伝える
この島の存在は大きいと思います。
理想論であることは重々承知ながら、この地上から悲惨な化学兵器を無くし
二度と使用しない、世界の恒久平和を希求して止まないのは日本人としての
使命では無いでしょうか。

カッパにしては重いテーマでした。大久野島探索はまだつづきます。(^_^ゞ



2014.9/6、大久野島にて。