乃木神社、御祭神は乃木希典大人之命(ノギマレスケウシノミコト)、
言わずと知れた(?)乃木希典、大日本帝国陸軍 陸軍大将。僕らの世代でも
もうそれほど馴染は無いのですが、日露戦争の英雄と言われた乃木大将です。
第10代学習院院長も務め、昭和天皇を養育されたことでも知られています。
函館、那須、東京、善通寺、下関にも乃木神社がありますが、京都では
明治天皇陵の麓にあります。
京都に乃木神社が建てられたのは、明治天皇の崩御に際しての「殉死」の一言
にあります。「うつし世を神去りましし大君の御あと慕いて我は逝くなり」
この辞世の句を残しての殉死に、人々の京都の明治天皇陵の傍に“乃木さん”
を祀り、威徳を尊仰し、その赤心を後世に伝えたいという一念からでした。
〔HPより引用〕
日露戦争で活躍した巡洋艦”吾妻”の主錨をモニュメントにした旧海軍将兵慰霊碑
乃木少年が長府(山口県)で父母妹達と慎ましい生活をしていた時代の旧宅
日露戦争時に旅順柳樹房で第三軍司令部として使われた民家を移築した建物
境内には神社としては、ちょっと変った建物や石碑が目につきます。
乃木大将関係のもので、記念館・史料館もあります。
この神社に訪れるのは初めてじゃなく、乃木希典については以前に簡単に
触れたこともあるので割愛しますが、そのプロフィールで今やっている
大河ドラマ「花燃ゆ」に関連した事柄があるので・・・
江戸時代、長府藩藩士の家に生まれた乃木希典(1849-1912)。
吉田松陰の叔父・玉木文之進の塾に入門、長州藩の学問所の明倫館文学寮でも
学んだ経歴があり。所属していた長府藩報国隊は1865年に奇兵隊と合流し
幕府軍と戦っています。
ちょっとムリからですが、吉田松陰(1830-1859)とは叔父の玉木家を介して
親戚関係にありました。(乃木希典の弟が玉木文之進の養子になっている)
それだけでなく、希典も玉木文之進の弟子でしたので、松陰と希典は
相弟子ってことになりますね。もちろん共に学んだわけでは無いですけど。
ちなみに松下村塾は1858年、松陰が野山獄に再投獄され廃止されています。
吉田松陰が斬首刑になったのはその翌年で、松陰29歳、希典10歳の時です。
〈拝殿〉
絵馬額には乃木大将の愛馬、璞号(あたらまごう)と壽号(すごう)が
彫られています。
乃木家の家紋は「持ち合い四つ井筒」ですが、ここの神紋には乃木玉木家の
「市松四つ目結」が使われていますね。近江源氏、佐々木氏の流れですかね。
「全てに勝ちま栗」、馬とくれば競馬ファンも来るのでは・・・?
ロシアの将軍ステッセリから贈られた白馬の壽号とその子・璞号の銅像が
拝殿前、左右に置かれている。
「勝ちま栗」他にも「幸せになり鯛」ってのも・・・(^_^ゞ
〈本殿〉
伏見桃山御陵(明治天皇陵)を仰いで建っているため北面している。
※本来、神殿は南面もしくは東面。
さて、乃木神社には境内社として山城えびす神社があります。
元「静魂七福社」(シズタマシチフクシャ)として乃木静子刀自之命と
七福神が合祀されていましたが、後年、乃木静子刀自之命の御霊は御本殿へ
遷され、七福神のみを祀る御社となりました。〔HPより引用〕
〈拝殿〉写真は2年前のものですが。
乃木神社もここも拝殿までは、拝観料も駐車料も要りませんが、
本殿に行くには、無人のコインボックスに100円入れて・・・
〈本殿〉
〈乃木大将、静子〉胸像。
1912年9月13日。明治天皇大葬の日、東京赤坂の自宅にて割腹殉死。
妻、静子も夫の後を追い自害。
そんな重苦しい像があるかと思えば・・・
〈和み地蔵〉
思いっきり可愛い、キャラクターみたいなお地藏さんが♪
亀さんも何か可愛い・・・
七福神の名コンビ? 大黒さんと、えべっさん。
春には花が咲き競う気軽に行ける神社。もちろん、乃木大将、日露戦争などの
貴重な史料も見られたりする面白いスポットです。
2015.3/21、乃木神社にて。
言わずと知れた(?)乃木希典、大日本帝国陸軍 陸軍大将。僕らの世代でも
もうそれほど馴染は無いのですが、日露戦争の英雄と言われた乃木大将です。
第10代学習院院長も務め、昭和天皇を養育されたことでも知られています。
函館、那須、東京、善通寺、下関にも乃木神社がありますが、京都では
明治天皇陵の麓にあります。
京都に乃木神社が建てられたのは、明治天皇の崩御に際しての「殉死」の一言
にあります。「うつし世を神去りましし大君の御あと慕いて我は逝くなり」
この辞世の句を残しての殉死に、人々の京都の明治天皇陵の傍に“乃木さん”
を祀り、威徳を尊仰し、その赤心を後世に伝えたいという一念からでした。
〔HPより引用〕
日露戦争で活躍した巡洋艦”吾妻”の主錨をモニュメントにした旧海軍将兵慰霊碑
乃木少年が長府(山口県)で父母妹達と慎ましい生活をしていた時代の旧宅
日露戦争時に旅順柳樹房で第三軍司令部として使われた民家を移築した建物
境内には神社としては、ちょっと変った建物や石碑が目につきます。
乃木大将関係のもので、記念館・史料館もあります。
この神社に訪れるのは初めてじゃなく、乃木希典については以前に簡単に
触れたこともあるので割愛しますが、そのプロフィールで今やっている
大河ドラマ「花燃ゆ」に関連した事柄があるので・・・
江戸時代、長府藩藩士の家に生まれた乃木希典(1849-1912)。
吉田松陰の叔父・玉木文之進の塾に入門、長州藩の学問所の明倫館文学寮でも
学んだ経歴があり。所属していた長府藩報国隊は1865年に奇兵隊と合流し
幕府軍と戦っています。
ちょっとムリからですが、吉田松陰(1830-1859)とは叔父の玉木家を介して
親戚関係にありました。(乃木希典の弟が玉木文之進の養子になっている)
それだけでなく、希典も玉木文之進の弟子でしたので、松陰と希典は
相弟子ってことになりますね。もちろん共に学んだわけでは無いですけど。
ちなみに松下村塾は1858年、松陰が野山獄に再投獄され廃止されています。
吉田松陰が斬首刑になったのはその翌年で、松陰29歳、希典10歳の時です。
〈拝殿〉
絵馬額には乃木大将の愛馬、璞号(あたらまごう)と壽号(すごう)が
彫られています。
乃木家の家紋は「持ち合い四つ井筒」ですが、ここの神紋には乃木玉木家の
「市松四つ目結」が使われていますね。近江源氏、佐々木氏の流れですかね。
「全てに勝ちま栗」、馬とくれば競馬ファンも来るのでは・・・?
ロシアの将軍ステッセリから贈られた白馬の壽号とその子・璞号の銅像が
拝殿前、左右に置かれている。
「勝ちま栗」他にも「幸せになり鯛」ってのも・・・(^_^ゞ
〈本殿〉
伏見桃山御陵(明治天皇陵)を仰いで建っているため北面している。
※本来、神殿は南面もしくは東面。
さて、乃木神社には境内社として山城えびす神社があります。
元「静魂七福社」(シズタマシチフクシャ)として乃木静子刀自之命と
七福神が合祀されていましたが、後年、乃木静子刀自之命の御霊は御本殿へ
遷され、七福神のみを祀る御社となりました。〔HPより引用〕
〈拝殿〉写真は2年前のものですが。
乃木神社もここも拝殿までは、拝観料も駐車料も要りませんが、
本殿に行くには、無人のコインボックスに100円入れて・・・
〈本殿〉
〈乃木大将、静子〉胸像。
1912年9月13日。明治天皇大葬の日、東京赤坂の自宅にて割腹殉死。
妻、静子も夫の後を追い自害。
そんな重苦しい像があるかと思えば・・・
〈和み地蔵〉
思いっきり可愛い、キャラクターみたいなお地藏さんが♪
亀さんも何か可愛い・・・
七福神の名コンビ? 大黒さんと、えべっさん。
春には花が咲き競う気軽に行ける神社。もちろん、乃木大将、日露戦争などの
貴重な史料も見られたりする面白いスポットです。
2015.3/21、乃木神社にて。
この神社、重かったり軽かったり・・・面白いところです。
ちょっと似てまっせ、大黒さんに。
乃木大将、名将か愚将か・・・この人の生き様だけで
何冊も小説になっていますね。
殉死は当時でも驚きの行為だったようですね。
近代史の顔ですから、もう少し知る必要があるかもね。
乃木さん、堅物そうだけど意外とウケていたりして。
その間違った自信が後の・・・?
経済的にも限界、あてにした賠償金ももらえずですから。
今も税金だらけですよね、総合すれば結構な%になっているかも。
で、福祉を削って増えているのは軍事費・・・
こんな顔で毎日過ごせたらさぞかし幸せでしょうね。
・・・別に勝ちまくらんでも・・・
乃木大将、名前は知っていますが、詳細は全然でした。
割腹自殺されるとは、いったいどれだけの覚悟で仕事をされていたのか、想像もできないですね。
いまでは、知らない人がおおいでしょうね。
こんなところにも変なキャラがいっぱい。
乃木さん、苦笑しているでしょう。
小さいころ名前は聞かされいましたね。
贅沢は敵だ!
麦飯に日の丸弁当とか・・・
大正時代は税金が50%くらいだったそうな
軍事費がすごかったんでしょうね。