愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

きみたちはいまも身近にいるんだね

2013-07-21 22:12:43 | 残されて

 ほんの100ページほどの一冊の書籍との出逢いが、むぎとシェラを喪って落ち込んでいたぼくたちの気持ちを明るいものに変えてくれた。いまもまだ悲しいけど、どれだけ救われたかはかりしれない。そして、いまも身近にシェラとむぎがいると信じることができるようなった。
 
「第20回東京国際ブックフェア」が、今年も7月3日(水)から6日(土)までの4日間、東京・有明の「東京ビッグサイト」で開かれた。今年は4日と5日の2日にわたって会場を訪れた。
 本来、ここでは本の販売が目的ではないので、いままで会場で書籍を購入したことはなかったが、今年は違った。5日の帰りがけ、まるで導かれるようにして一冊の本を手に取り、買っていた。そのタイトルに惹かれるものがあったからだ。会社へ戻る地下鉄の中でその本を開き、ぼくはたちまち虜になっていた。

 『ペットたちは死後も生きている』(日本教文社)というタイトルにうさんくさいものを感じる方々も少なくないだろうが、ぼくは無意識のうちに祈るような気持ちでこの本を手にしていた。なぜならば、もし、自分の死後にシェラやむぎとまた再会することができたら、といつも思ってきたからである。

 リアリストを自認し、死後の世界に懐疑的というよりも、信じないできたぼくだったが、シェラやむぎとまた会いたいという願いがいつのまにか死後の世界があってくれたらいいのにと祈るように願っていた。
 人間のみならず、動物たちにも死後の世界がある、と本書は説く。「イギリスで約半世紀にわたって愛読されてきた、愛するペットを失った人たちに贈る癒しの名著」(本書の帯のキャッチフレーズから)だそうである。

 心霊とか霊能力を信じない方々には無駄な本である。しかし、ここに紹介されているいくつもの事例に興味があったら、手にしてみる価値はある。
 本書と出逢うひと月ほど前、家人が占いを得意とする知人に久しぶりに会ったとき、「あなたの肩に茶と黒のトラ猫が乗って、あなたを守ってるわよ」といわれた。その猫こそ、まぎれもないちょびただ。とりわけ家人を慕い、彼女が溺愛していた気弱でおとなしい、とっても不器用なオス猫である。3歳のときにクルマにはねられて死んでしまった。


 では、シェラとむぎはどこにいってしまったのだろうか? 
 まったく霊能力のないぼくだが、二度ばかり玄関にシェラとむぎを感じたことがある。たしかな姿ではないが、影のようなものも見ている。そのとき、直観的にシェラとむぎだと感じた。むろん、会いたい! と願う気持ちが幻影を見たといえばそれなりの説明になる。だが、あれは錯覚ではなかったと確信している。
 本書に逢ったのはそのあとである。もしかしたら、シェラたちが、この本の前に案内してくれて、「父さん、錯覚じゃなくて、わたしたちはいつも横にいるんだよ」と教えてくれたのかもしれない。
 
 ぼくたちのもとから旅だっていったシェラとむぎが、死後の世界でいまもかたときも離れずに一緒にいてくれたら、どんなにか素晴らしいだろう。きっとそうしているにちがいない。 
 むぎの死に続くシェラとの別れはたしかに辛かったが、むぎのもとへいかせてやったと思えばむしろ喜びになる。そして、自分が死んだとき、シェラやむぎ、そして、ちょびた、ファラ、ダダの猫たちがぼくを迎えてくれたらどんなに素晴らしいだろう。
 ぼくはそれを信じたい。


シェラの笑顔に逢えるとき

2012-02-29 21:50:51 | 残されて
☆今朝の雪に亡きふたりの子を想う
 東京は未明から雪になった。朝の外界は白の世界である。ルイにとっては初めての雪だ。公園の真っ白な広場を駆けまわっていたシェラとむぎの姿が目に浮かぶ。そんな思い出がつまった公園を、今朝はルイと訪ねた。シェラを最後に連れていった公園であり、それ以来だからルイにとっては二度目になる。


はじめての雪に興味しんしんのルイ
 
 2センチばかり積もった雪の上には野鳥の足跡があるくらいのきれいなままだった。はじめての雪に喜んで走りまわるルイの姿をぼくは笑顔でながめていた。それに気づいたルイが、「遊ぼうよ」といわんばかりにぼくに跳びいてくる。
 持参のポケットカメラをムービーに切り替えようとしていたが、あまりしつこく跳びついてくるのであきらめて一緒に遊ぶことにした。追いかけてやったり、逃げてみたりと、ルイの相手をするのもなかなか大変である。すっかり汗をかいてしまった。
 
 そのノリが残ってしまったのか、家に帰ってもやんちゃぶりを発揮して、とうとう家人の堪忍袋の緒が切れ、哀れケージに閉じ込められてしまった。そういうわけで今朝はルイの見送りなしで家を出た。
 このところ、家を出るときは玄関までルイがついてきて、一緒にいきたいとアピールする。それを押さえ、家人に渡してから外へ出る。

☆シェラ、心配しなくていいからね
 毎晩、帰ってくると玄関ポーチの門扉の開け閉めでぼくの帰宅を知ったルイが玄関まで出迎えにくる。何度も跳びついて喜びを示してくれるのがうれしい。むぎが逝ってしまってなにが寂しかったかというと、だれも出迎えにきてくれなかったことだった。シェラはすでに耳が遠くなっていたので、ぼくの姿が見えないと反応できない。

 ルイがやってきてからも、ケージの外へ出すとシェラに「遊ぼう!」攻撃をかけるので、目が届いていないかぎりはケージから出せず、ぼくが帰り、着替えてからようやく出してやっていた。だからやっぱり玄関への出迎えはなかった。
 シェラがいなくなってルイはかなり自由を得た。そして、ぼくはルイの見送りと出迎えをしてもらえるようになった。シェラがいない寂しさの代償として、せめてこのくらい享受できても許されるだろう。


雪に喜んでゴロンするシェラに跳びつくむぎ

 もし、いま、ルイがいなかったら、シェラが消えたあとの寂しさがどれほどかと思うだけで背筋が凍る。今朝のように雪を見ながらシェラやむぎをなつかしみ、休日の行く先々でシェラとむぎのビジョンを感じてしまう始末である。
 元気でやんちゃなルイに手こずればてこずるほど、ぽっかり開いたシェラとむぎのいない心の空白がぼやけてくれる。
 
 そのたびにぼくはそっと口ずさむ。
 「シェラ、ルイのおかげでなんとか耐えているから心配しないでいいよ」と――。
 ふと、ぼくを見上げたシェラの笑顔がまぶたに浮かんで消える。



「日本ブログ村」でおつきあいくださった皆様へ

2012-02-22 22:04:38 | 残されて

一緒に会社へいきたいとばかり玄関でぼくに跳びつく今朝のルイ

☆ようやくコメントの返信が完了しました
 これまですっかりためてしまっていたコメントへの返信が、昨夜でようやく追いつき、ホッとできました。このブログをやめてしまうわけではないのですが、コメントをいただいてそのまま時間が経ってしまうのは無礼千万ですし、何よりも「日本ブログ村」の「老犬・高齢犬」のカテゴリーから出るつもりでおりましたので、その前にレスコメを終えておきたかったのです。

 というのも、「老犬・高齢犬」のカテゴリー経由でこのブログにお越しいただいた方も少なくないうようなので、このカテを出ることでそれきりになってしまう方もおられるかもしれず、まずはレスコメだけはすませておきたかったというわけです。

☆「日本ブログ村」に感謝をこめて
 シェラを送ってすでに半月になります。かたや、7月生まれのルイは元気いっぱいで、このルイの日々も話題にするとなると、やっぱり「老犬・高齢犬」のカテゴリーにとどまったままでは居心地がよくありません。それと、いつまでもぐずぐずしているのはいかにも未練がましく思えます。すっかりお世話になった日本ブログ村ではありますが、シェラとの別れを潮に一度離れてみるのもいいかなと思った次第です。

 これまでたくさんの方々と交流することができました。一度だけ、見当違いなコメントをもらって大笑させてもらったくらいであとは心のこもったステキなコメントばかりいただき、世間のあたたかさを実感することができたと思っています。コメントをいただいたみなさまはもとより、お読みくださった方々すべてに御礼申し上げます。

☆これからもおつきあいいただければ…
 そして、シェラとむぎは送り出してしまい、ひたすら回想するしかすべがありませんが、これからはルイとの刺激に満ちた日々も記録していきたいと思っています。もし、これからもおつきあいいただける方がおられたら何よりの喜びです。

 もっとも、そのうち、日本ブログ村の「老犬・高齢犬」以外のカテゴリーにひょっこり出てくることもあると思いますが、もし、そんなときにそこで再会することができる方がおられましたら、その節はまたよろしくお願いいたします。

 それでは週明けには、悪がきわんこのルイが案内役となる「愛犬と生きる幸せ」に生まれ変わってお目にかかります。もちろん、シェラやむぎの思い出もおいおいつづってまいります。


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これまでたくさんのアクセスをありがとうございました。心から御礼申し上げます。


むぎ、シェラより先に旅立ててよかったね

2012-02-19 10:34:42 | 残されて

クルマのなかでのむぎはたいていこんなふうに張りついていた

☆わんこたちの心の深さをあらためて知る
 ルイの食欲が復活しつつある。まだ完全ではなく、そのときどきによってムラがあるのはしかたなかろう。シェラを失くして受けた心の傷がそう簡単に癒されてしまうとも思えない。やっぱり、それなりの時間が必要だろうから。

 言葉が通じない分、そして、ぼくたち人間がわんこよりも鈍感な分、彼らのそのときそのときの心模様を、彼らがぼくら人間の心の動きを素早く理解するようにはわかってやれない。そんな人間の鈍感さは、なまじ言葉というコミュニケーション・ツールを得たがゆえの、人間たちの退化のあらわれとも思える。
 老犬と幼犬の深淵なまでの心の交流を目の当たりにして、ぼくはそれを確信した。彼らの心の深さは人間の想像を絶するものがある。

 わが家のむぎが去年の3月にシェラよりも先に不帰の旅に発ったのは、いまにして思えば、むぎのためにはむしろよかったのだと思う。
 シェラに依存して12年間を生きてきたむぎが、この1年近くのシェラの衰えに絶望していたのではないかとぼくたちは思っていたが、これは正しかったと思えるようになった。わずか3、4か月しかシェラとともに過ごしてこなかったルイにして、シェラの死を前にしたとき、大好きなご飯が食べたくなくなるほどのショックだったのだから。

 ルイの食欲減退は愛は、シェラの死で、ぼくたちの心がルイから離れたからでは断じてない。あれは、ルイ自身がシェラの死を悟り、それが何を意味するのかを感じたあげくの心の慟哭である。ぼくたち以上に寂しさに打ちひしがれていたのだ。


隙さえあれば、むぎはシェラに寄り添っている(キャンプでの昼下がりで)

☆時間で解決できない哀しみだってあるだろう
 もし、これがむぎだったら……?
 シェラが先立ち、むぎが遺されたときのことを想像すると、背筋が凍りつく。ルイの哀しみの比ではないはずだ。むぎは絶望に心をズタズタに引き裂かれ、確実にシェラのあとを追ったろう。まさしく、「絶望死」である。
 ぼくたちのほうも悶死するむぎをどうにもできずにただオロオロして見守るしかなかっただろう。そして、去年の3月以降よりもさらに深い哀しみにくれて過ごすことになっていたはずだ。

 ようやくルイがエサを食べるようになったとはいえ、心の傷が完全に癒えてはいない。これまでのルイの回復は、時間が傷を癒してくれたのだろうし、ぼくたちの愛情もまた少しはルイに通じてくれたからだと信じたい。

 昨日の朝の散歩は家人もいっしょだった。彼女が朝の散歩につきあった記憶がぼくにはない。17年前、シェラを迎えて以来、朝はいつもぼくだけで散歩に出かけてきた。4年後にむぎが加わってからも同じだった。
 それが昨日にかぎって、「いっしょにいこうかな」といいだした。天気がよかったのも理由のひとつだろうし、シェラを喪って、どこかで自分なりに気持ちをきりかえる動きをすべきだという衝動でもあったろう。

 歩きはじめてしばらくは、家人もいるというのでルイが喜んでしつこく彼女に跳びついてなかなか前に進めなかった。空は晴れ上がって快適だったが、風は極寒の冷たさである。それでも起きぬけの散歩は気持ちいい。
 ぼくたちは、いまの地に引っ越してきた10年ばかり前、まだ若かったシェラとむぎを連れてときたま出かけていた川沿いの公園を目指した。彼女は知らないが、ぼくとシェラやむぎはこの公園でオスのキジに出逢っている。『桃太郎』の絵本に描かれたような、それは美しい姿のキジだった。


やっぱりむぎはシェラより先に逝ってよかった(むぎが旅立ちのひと月前)

 この辺りの道は、ぼくのみならず家人もまたシェラとむぎを連れて夕方の散歩に使っていた。いく先々にシェラとむぎの記憶がしみついている。ふたりのことを思い出し、胸に痛みを感じるのはいま少し覚悟しなくてはならない。それもまた、やがて時間が解決してくれるだろう。

 もし、むぎがシェラに遺されてしまったら、時間が解決するより先に絶望がむぎの命の灯火を吹き消していただろう。いや、むぎの嘆きは時間でなんとかなるようななまやさしいものではなかったはずだ。

 むぎ、きみはやっぱりシェラより先に逝けてよかったんだね。


ルイのほうがはるかに寂しい思いをしていたのだろう

2012-02-17 22:29:18 | 残されて

すでにシェラとルイはかけがえのない家族になっていた

☆はじめて迎えに出てくれたルイ
 家の玄関の扉を開けるとそこにルイがいた。ぼくが扉の解錠する音で飛んできたのだろう。昨日夕方の、はじめてのルイの出迎えだった。
 去年の7月までは、むぎが玄関の前に張り込んでいて、ぼくの帰りを待っていてくれたものだ。ドアの外に立っただけで吠えはじめ、鍵を開けて玄関に入るとぼくの顔を見ながらさらに吠え、そのままリビングにいるシェラに知らせに走っていった。むぎがぼくに冷たかったのではなく、どうやらこれは犬社会の当たり前の行動らしい。

 むぎが旅立ってしまい、出迎えてくれるわんこがいなくなったのはなんとも寂しかった。すでに耳が遠くなっていたシェラに出迎えを望むわけにはいかない。
 それだけに、昨日のルイの出迎えのうれしさはひとしおだった。むぎとちがってルイは吠えない。喜んでぴょんぴょんと跳びついてくるだけである。服に毛がつくので、さすがに着替えを終えるまでは抱いてやれないが、頭、首、背中をなでてやる。それで服についてしまったルイの毛はあとでブラシで拭えばいい。

 ぼくが着替えている間もルイはつきまとい、シャツやズボンなどの普段着のひとつひとつを噛んで引っ張りぼくを遊びに誘いこもうとする。それを笑顔で制しながら着替えていく。幸せを実感するひとときである。

 シェラが生前中は、身体が弱っていたシェラに配慮して家にいるほとんどの時間、ルイをケージに閉じこめていた。「ルイ、ごめんな」と詫びながら……。シェラが寝室のほうへいってくれたときだけ、廊下へ通じるリビングのドアを閉め、ルイをケージから出してやる。飛び出していたルイはリビングのなかで全力疾走を繰り返し、ぼくたちをヒヤヒヤさせた。
 狂ったように猛ダッシュして日ごろのうっぷんを晴らしているルイの姿が痛々しいほど哀しかった。


さて、これだけのドライフードを食べてくれるだろうか?

☆なぜ、破壊獣と化したのか?
 先週の月曜日、シェラがいなくなったあと、ケージから解放されたルイは、最初、どうしたらいいのか戸惑っていた。ダッシュさえしなかった。もうすぐにケージに入れられないのをわかっていたようだ。シェラの姿を探していたのか、それとも単に好奇心からなのか、あっちこっちとのぞいてまわり、ただうろついているだけだった。

 日を追って本来のいたずら小僧の様相を鮮明にしてきた。とにかく手当たり次第、そこにあるものを噛んだり、落としたり、くわえて運んでいったりするようになる。いっときもじっとしていないで、ただひたすらいたずらを繰り返して家人を悩ませ、怒らせ、恐れさせていった。

 一方で、相変わらず自分のご飯を食べようとしなかった。明らかにシェラが消えてしまったショックなのだろうが、そのやんちゃぶりが激化するだけに、ほんとうに心に闇を宿してしまったのか疑わしくなってくる。
 だが、何かの拍子に、ときおり、ふと見せる暗い顔にぼくはルイの寂しさを感じることができる。噛み癖をはじめ、異様なほどにヒートアップする「破壊獣」の様相の裏側にルイのいたたまれないほどの喪失感、寂しさがないとだれがいえるだろうか。


ぼくの手からだとちゃんと食べてくれる

☆ようやく食べてくれる気配が見えた
 昨夜もルイは夜のご飯を全部食べなかったという。活発な分、家人ではないが、「お腹が空かないのかしら?」と不安になる。この二週間足らずでドライフードも新たに二種類変えて、これで三種類めだが、結果は同じである。
 昨夜は、三分の一くらいしか食べていないというので、ぼくが自分の食事のあとに残りの分を新たに用意して昨夜につづいて直接食べさせてみた。

 食事に向かうときにルイは、以前のような溌剌とした顔をしていない。苦渋に耐えるような暗い表情にぼくのほうがたじろいだ。
 それでも、前夜よりスムーズに、殊勝な態度で食べてくれた。後半の三分の一はほとんどプレートから直接食べた。その間もぼくはずっとほめつづけ、身体をなでたりしながらはげましてやった。

 食べ終わると、プレートをしきりになめてもっとほしいといわんばかりだった。黙って見ていると、今度はプレートをくわえて家人のほうへアピールしにいった。どうやらおやつが目的だったらしい。このあと、ボール投げの相手をえんえんとさせられてしまったのには閉口したが……。


今度はおやつをねだりにいった

☆ルイに心の安らぎを与えたまえ
 夜の出迎えを憶えるより早く、朝の見送りが習慣になっている。
 「お父さんもルイを連れて会社へいきたいよ」
 まるでもう一度散歩にいこうというかのように、玄関で待ちかまえているルイに声をかけ、家人に託してぼくは出勤する。天真爛漫、文字どおりの無邪気なルイに癒されて駅に向かう。
 
 そして、今夜、家に帰り、玄関のドアを開けるとルイはいなかった。玄関の前に立ったとき奥のほうからルイの吠える声が聞こえていたのでおおよその察しはついていた。はたして、リビングから廊下へのドアが閉まっていて、出られなかったのである。
 喜んでくれる姿はいつもと変わらなかった。家に帰ってきて癒される瞬間である。 

 もし、ルイがいなかったら、どんな気持ちでこの冬のにびいろの空を見上げているのだろうか? 想像さえできない。こうしてぼくたちが救われているのに、ルイだけにつらさを背負いこませてしまっているとしたら、あまりにもかわいそうである。
 この週末、シェラやむぎに劣らないほどの愛情でつつんでやろうと思う。きっと、それがシェラとむぎの遺志でもあるはずだ。


いま、ぼくの横で安心して眠っているルイ

 ぼくたちの気持が通じてくれたのだろう、今朝からルイの食欲が戻った。いま、これを書いているぼくのかたわらで、ルイは爆睡している。上の写真がそれである。