むぎの死を知る何人かの方々から、お悔みの言葉とともに、「大丈夫ですか?」とご心配をいただいている。
「大丈夫です。シェラがいてくれるから……」と答えるが、その本当の意味までは伝えていない。解説する必要もないし、なまじその意味をしゃべりだしたら哀しみを新たにするかもしれないからである。
これは聞いた話だが、仲のいい二頭のうちの一頭が死んだあと、残された子が、散歩に出かけるとき、ひとしきり相棒をしきりに呼ぶそうである。あとは餌をもらうときもまた、呼んでいるという。
一年たち、二年たっても、三年を数えてもまだ呼んでいるという。忘れないのだ。
シェラとむぎも仲のいい同士だったが、シェラはそこまでやらない。しかし、あらゆる面で明らかに変わってしまった。
もっとも如実なのがぼくや家人のそばにいたがるようになったことであり、もうひとつが、以前、むぎがよく寝ていた場所に寝るようなったことだ。
そんなシェラの変化が痛いほどわかるだけに、ぼくも家人もそれぞれの内なる哀しみをシェラに悟られまいと懸命になっている。シェラが起きているときにむぎの話はしないし、シェラの表情に寂しさが滲めば、強いて明るくシェラに接してやろうとする。
シェラがいてくれるから……そう、ぼくたちはシェラのためにも哀しみを封印せざるをえない。
むぎのあっけない最期を思い出すたびに、なぜ、もっと早く不調の原因を精査しようとしなかったのだろうかの悔いが、ずっとぼくにも家人にも湧き上がっている。しかし、それをいってみたところでなんの慰めにもならない。ただ、惨めさが増すだけだ。
しかし、シェラがいなかったら、ぼくたちは、不毛と知りながら何度もこの悔恨を口にして自らを傷つけることでむぎへの贖罪にしようとしてきただろう。「むぎ、ごめんね」と涙にくれて……。
そんな飼主の姿とシェラが無縁でいるとは思えない。まだむぎがいなかった当時も含め、シェラとの16年間の歳月に遭遇した哀しみの心模様をシェラはいつも察知して、ぼくたちにさまざまな寄り添い方をしてくれた。だからこそ、いまや老いて、身体の自由もままならないシェラによけいな負担はかけまいと飼主は思うのである。
あんなに仲のよかったふたりである。むぎはシェラに依存し、シェラはその依存をすべて受け容れてきた。外へ出ればむぎを守ろうと常に神経をピリピリさせていたシェラである。守るべきむぎが消えてしまって平気なはずはない。
だからこそ、ぼくたちは悲しみにくれていてはいられない。いや、いけないのだ。シェラがいてくれるから……。
泣きたくなったらシェラのいない場所でひっそりとやるしかない。ほんとうにいまだにシェラに助けてもらっている。