愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

シェラがいてくれるから…の本当の意味

2011-07-31 02:47:06 | シェラの日々


 むぎの死を知る何人かの方々から、お悔みの言葉とともに、「大丈夫ですか?」とご心配をいただいている。
 「大丈夫です。シェラがいてくれるから……」と答えるが、その本当の意味までは伝えていない。解説する必要もないし、なまじその意味をしゃべりだしたら哀しみを新たにするかもしれないからである。
 
 これは聞いた話だが、仲のいい二頭のうちの一頭が死んだあと、残された子が、散歩に出かけるとき、ひとしきり相棒をしきりに呼ぶそうである。あとは餌をもらうときもまた、呼んでいるという。
 一年たち、二年たっても、三年を数えてもまだ呼んでいるという。忘れないのだ。
 
 シェラとむぎも仲のいい同士だったが、シェラはそこまでやらない。しかし、あらゆる面で明らかに変わってしまった。
 もっとも如実なのがぼくや家人のそばにいたがるようになったことであり、もうひとつが、以前、むぎがよく寝ていた場所に寝るようなったことだ。
 
 そんなシェラの変化が痛いほどわかるだけに、ぼくも家人もそれぞれの内なる哀しみをシェラに悟られまいと懸命になっている。シェラが起きているときにむぎの話はしないし、シェラの表情に寂しさが滲めば、強いて明るくシェラに接してやろうとする。
 シェラがいてくれるから……そう、ぼくたちはシェラのためにも哀しみを封印せざるをえない。


 
 むぎのあっけない最期を思い出すたびに、なぜ、もっと早く不調の原因を精査しようとしなかったのだろうかの悔いが、ずっとぼくにも家人にも湧き上がっている。しかし、それをいってみたところでなんの慰めにもならない。ただ、惨めさが増すだけだ。
 しかし、シェラがいなかったら、ぼくたちは、不毛と知りながら何度もこの悔恨を口にして自らを傷つけることでむぎへの贖罪にしようとしてきただろう。「むぎ、ごめんね」と涙にくれて……。
 
 そんな飼主の姿とシェラが無縁でいるとは思えない。まだむぎがいなかった当時も含め、シェラとの16年間の歳月に遭遇した哀しみの心模様をシェラはいつも察知して、ぼくたちにさまざまな寄り添い方をしてくれた。だからこそ、いまや老いて、身体の自由もままならないシェラによけいな負担はかけまいと飼主は思うのである。


 
 あんなに仲のよかったふたりである。むぎはシェラに依存し、シェラはその依存をすべて受け容れてきた。外へ出ればむぎを守ろうと常に神経をピリピリさせていたシェラである。守るべきむぎが消えてしまって平気なはずはない。
 
 だからこそ、ぼくたちは悲しみにくれていてはいられない。いや、いけないのだ。シェラがいてくれるから……。
 泣きたくなったらシェラのいない場所でひっそりとやるしかない。ほんとうにいまだにシェラに助けてもらっている。


罪作りな幻影

2011-07-28 23:46:19 | シェラの日々


 一昨日、家人がシェラを連れての夕方の散歩のときのことである。
 とある道筋でシェラが立ち止まり、じっと前方を見つめていた。その先にはこちらへ向かってくる犬連れのおじさんの姿があった。シェラの目はおじさんが連れている犬に注がれている。遠目にも犬のシルエットはコーギーだった。
 シェラは身じろぎもせずにコーギーを見ていた。

 シェラの目にコーギーの姿がどんなふうに見えていたのだろうか。彼女の耳がだいぶ遠くなったのはわかっているが、目がどのくらい衰えてしまっているかまでは判然としない。歩くとき、何かにぶつかったりはしていないが、16歳という年齢を勘案すれば視力も落ちていると思っていたほうがいいだろう。
 朝夕の散歩で以前にも増してにおいを嗅ぐ時間が長くなったのも、聴覚と視覚の劣化を嗅覚でカバーしていると思えてくる。もしかしたら、嗅覚自体に衰えがきて、しつこくなっているかもしれないのだが……。

 シェラはどんな想いでコーギーのシルエットを眺めていたのだろうか。
 見えはするものの、きっとぼやけた視覚の中にコーギー独特のフォルムを捉え、立ち止まったはずである。シェラの想念がむぎを連想していなかったと考えるほうが不自然だ。やっぱり、「むぎかもしれない」と思い、立ち止まって待ったのだろう。

 すぐ近くまでやってきたコーギーがむぎではないとわかったとたん、シェラは激しく吠えついて連れているおじさんをびっくりさせた。
 むぎが帰ってきたとの期待が裏切られて吠えたと思うのが擬人化に過ぎるとしても、シェラの中に失望が生まれたのは確かだろう。罪作りな邂逅だった。

 たとえ犬であっても寂しさを感じる感受性は持っているとぼくは信じて疑わない。シェラとのこれまでの16年間の節々で、犬だとて見くびらないほうがいいとの実例をさまざま見せつけられてきた。
 むしろ、犬のセンシビリティはヘタな人間以上である。

 その日の夜中、ぼくが目を覚まし、自分の部屋へこもっていると、少し開いたままの扉の向こうから片目がじっとぼくの背を見つめていた。シェラがぼくの様子をうかがいにきたのである。その目にいい知れぬ哀しみと寂寥が宿った午前2時のシェラだった。

 もしかしたら、ぼくのことを心配してのぞきにきてくれたのか? それもまた過ぎたる擬人化だ。
 「シェラ、どうした? 入っておいで」と声をかけてやるとシェラの目が消えた。やがて、家人のベッドの際へいき、いたたまれないような声で家人に吠えた。何を訴えたかったのだろうか。

 12年間、いつも一緒にいたむぎという相棒を見失えば、どこへいってしまったのだろうかと探すだろう。
 夕方、むぎの幻影を見てしまったのは、やっぱりシェラにとって残酷だった。


変わりゆく哀しみ

2011-07-27 01:42:16 | 残されて
 むぎの死は、ぼくたちにとって予期しなかった突然の出来事であり、ただ、「そんな……」と絶句し、以来、うろたえながら茫然自失の日々を送ってきた。
 まさかむぎをこんなに早く失うとは……しかもシェラよりも先に……。

 この夏を迎えたころから、ぼくと家人はシェラの衰えが加速しているのに気づき、避けては通れない最悪のときがそう遠くないだろうとひそかに怖れ、なかば覚悟をかためつつ息を呑んで見守ってきた。犬にとっての16歳という年齢がどういうものかそれぞれに正しく認識しているつもりだった。



 口にこそ出さないものの、「この夏を乗り切れるだろうか?」と危惧した。夏さえ乗り切ってくれたら少なくとも今年いっぱいは生き延びてくれる。そうすれば、来年も前半は大丈夫だ……なんの裏づけもないまま漠然とそんな期待を抱いて衰えていくシェラを見守ってきた。
 その分、むぎへの心配りがおろそかになったわけではないはずなのだが、突然、12歳のむぎを先に死なせてしまった。

 むぎを失ったショックに続く新たな表情の日常が重なっていくにしたがい、より重い悲しみが押し寄せてきた。名状しがたい寂しさをともなった、烈しくではなく沁み入るような哀しみとでもたとえたらいいのだろうか。号泣は嗚咽に、そしていま、哀切へのしのび泣きへと変容した。

 むぎのレインウェアを片づけていて、そこに残るむぎのにおいに、とうとうこらえ切れなくなってむせび泣く家人に、ぼくは慰める言葉を見つけられず、無言でともに泣いてやるしかなかった。ぼくがいちばん怖れていたことだった。
 だが、いまはまだシェラがいてくれる。やり場のなくなってしまったむぎへの愛情もシェラに注いで、家人もぼくもなんとか哀しみを希釈している。



 休日、出かけるとき、家人はむぎの遺骨をバッグに入れて家を出る。ふだんは棚に飾り、花を捧げ、供物と水を絶やさない。
 人間の葬儀ならば、悲しみが癒えはじめた時期に納骨という方法で未練を希薄にすることができる。むぎの場合も、いずれ何らかの方法で遺骨をどこかへ納め、気持ちを切り替えなくてはならないだろう。だが、当面は難しい。

 本来、遺骨など持ち帰るべきではなかったのかもしれないが、もし、持ち帰らないでいたら、それはそれでまた悔いを残すことになっただろう。
 気がすむまでそばに置いてやればいい。やがてシェラの骨が並び、自分たちが骨になる前に踏ん切りをつければいいだけのことだ。

 ペットを失った悲しみはあらたなペットによってしか癒されないと人はいう。だが、どんなに悲しくても、辛くても、ぼくたちは悲しみから逃れるために犬であれ、猫であれ、新しい子を迎えるつもりはない。
 「シェラやむぎ以上にかわいい子なんているわけがないよ」と自分たちに言い聞かせつつ、本音は新たに迎える子を最後まできちんと面倒をみてやれる自信がないからである。これからおよそ15年、自分たちが80歳過ぎまで元気で生きて、その子をまともに世話してやれるだろうか。こちらが先に逝ってしまうかもしれない年齢である。

 だからいま、たとえペットロス症候群に墜ちて呻吟しようとも、なんとか自力で乗り越えなくてはならない。早晩、やってくるシェラとの永別――そのときが正念場になるだろう。


あらためて知るむぎの存在感

2011-07-25 22:12:30 | シェラの日々


 むぎは、なんとも手のかからない子だった。
 だが、いくつかの音にだけはしつこく反応して手こずらせた。雷や花火におびえることがないくせに、インターフォンや電話の音に吠え、クルマの中では、駐車のために停まったことをちゃんと察知して、「(車内に)置き去りにしないで!」といわんばかりに激しく吠えて、ぼくに叱られるのが常だった。
 それ以外は家でいたずらするわけではなく、外ではほかの犬にも人間にもきわめてフレンドリーで、いつも褒められていた。

 手がかからなかったために、あっまり気にしてこなかったが、いなくなってみるとその存在感の重みに愕然とする。いつもわが家をにぎやかにしていたかけがえのない家族だったのだと……。

 むぎとの一日を振り返ってみると、この子の果たしていた役割は、シェラ以上だったと思い知る。
 朝6時にぼくのベッドの枕元のサイドテーブルにおいた携帯電話が鳴る。待っていたかのようにむぎが吠えて教えてくれる。20分後、仕度を終えたぼくが、それまでずっとぼくを見守っていたむぎに、「さあ、散歩にいこう」と声をかける。すると、むぎは奥のリビングで爆睡しているシェラに、「とーちゃんが散歩にいくって!」とばかり大声で吠えて知らせに走る。シェラはそれでようやく起きてくる。

 散歩の最中のむぎは従順そのものだ。あっちが嫌だ、こっちへはいきたくないと手こずらせるのはシェラのほうである。ぼくが「帰ろう」といえば、むぎはたちまち家の方角へと歩き出す。

 家に帰り着いたあとのむぎは、朝のエサにだけ関心が移り、ぼくになどまるで無関心だった。ぼくが会社へ出かけようとするとき、たまに玄関まで出てくることはあるが、吠えたりはしない。
 震災後の余震におびえ、いっとき、会社へいこうとするぼくを玄関で待っていた時期もあったが、連れていってくれと追いかけるまでには至っていなかった。聞き分けのいい子なのである。


 
 夜、ぼくが帰宅し、玄関の前までくると、足音を聞きつけて鍵を開ける前から部屋の中で吠えている。玄関のすぐ内側で張り込んでいるからだ。ぼくが帰る頃合いになると、外を誰かが通っただけで間違えて吠えたりしているそうだ。体内時計でボスの帰宅時間を察知し、待ちかまえているわけである。

 ときには、むぎの油断やほかに関心が移っていて張り込みから離れていたためにぼくの帰宅に気づかないこともある。だから、ぼくのほうは玄関の前で、いかにしてむぎに気づかれずに家に入るか、毎日、ゲーム感覚で楽しんだ。
 ご主人さまに気づかずにいたときのむぎの体裁悪そうな顔はいつ見てもおかしい。だが、たいてい鍵をカチリと回しただけで気づかれる。こうして、毎日、家に帰り着く早々楽しませてもらっていた。

 いまも玄関の前に立つと、むぎの声を待つ自分がいる。「お帰りなさい!」とぼくの顔を見て吠え、ぼくが「むぎ、ただいま」と声をかけると、部屋の奥へと駆け込んでいき、シェラへ、「とーちゃんが帰ってきたよ!」と報せている。シェラはその声で玄関へ駆けつけてくる。絶妙な連携プレイだった。

 ぼくは二匹を引き連れてリビングへと移り、ソファに腰を下ろしてまずシェラの「お帰りなさい」の挨拶を受ける。丁寧に、じっくりとぼくの口を舐めてくれる。夕方の散歩から戻って自分のお尻の穴を入念に舐めているかもしれないその舌で……。
 それが終わるまで、むぎはずっと吠えながら待っている。

 ひとしきりシェラの挨拶を受けたあと、「ありがとう」と頭をなでて打ち切り、ぼくは吠え続けているむぎのほうへ左腕を伸ばす。それを待っていたむぎは両前足をぼくの手に預けてシェラに続いてぼくの口を舐める。シェラがゆったり舐めるのとは対照的に性急である。

 かくして、ぼくとわんこたちとのその日のセレモニーは終わる。あとは、夕食後、ぼくの気まぐれでわんこたちとの遊びが加わる。だが、最近ではシェラもむぎも、ぼくのちょっかいが見るからに迷惑そうだった。シェラは怒り、むぎはさっさと逃げていっていた。
 
 夜は、寝室の外に寝そべって、ベッドへ入るぼくを見ているが、呼んでも決してそばへはこない。そのくせ、朝になるとぼくの脇のベッドの下に寝ていた。
 冬だったら、ベッドに上がってきてぼくか家人のどちらかに張りついて寝ている。よほど寒い日にはちゃっかり布団の中にもぐり込んでくる。
 やがて、午前6時の呼鈴が鳴り、むぎが吠えて新しい一日がはじまっていた。

 いま、静まり返ったわが家の中で、改めてむぎがいなくなってしまったのを実感する。


むぎ、帰ってこい!

2011-07-23 10:09:15 | シェラの日々
 「むぎ、帰ってこい!」
 心の底から祈ったことがある。
 もう5年ばかり前になるが、食欲不振、貧血で入院し、翌々日の夜、前の晩に続いて面会にいったら、医者のひとりから、「悪くなってます。リカバリーの確率は50パーセント。かなり深刻です」と宣告を受けたときである。

 最初、クリニックの院長から、「餌が食べられるようになるまで入院しましょう」と勧められ、「よろしくお願いします」と軽い気持ちで預けて2日が経過していた。たしかに前の晩の面会のときから好転している様子はなかった。しかも、その医者は、「原因が分からない」ともいう。

 わんこでも貧血を起こしたときは、顔から血の気が引いてしまうというのをはじめて知った。表情から気力が失せ、鼻の先の付け根にかすかに見えていた毛細血管が消えたのである。目も気だるそうで、精気を失っている。深刻な状態から脱していないのは明らかだった。

 そんな状態だというのに、最初の夜、面会にいったぼくと家人の姿を見て、むぎは力を振り絞って大声で吠えた。
 「家に帰りたい! 連れて帰って!」というむぎの叫びをひしひしと感じてその場にいたたまれず、またこれ以上、体力を消耗させまいと思い、未練を残しながらぼくたちはそそくさと面会を切り上げた。
 
 クリニックの外へ出て、クルマの運転席まで逃れても、まだ、むぎが吠え続ける声が聞こえていた。
 せめて吠きやむまでと思い、クルマの中で身じろぎもせずにそのときを待ったが、一向に吠えるのをやめようとしない。「勘のいい子だから、近くにいるのがわかっているのかもしれない」と家人がいう。
 吠え続けるむぎの声に「ごめんよ」と謝りながら、ぼくはクルマのエンジンをかけた。

 そして、「ダメかもしれない」と宣告された二日目の夜も、むぎは帰りたいとばかりけんめいに吠えた。いっそ、連れて帰ってしまおうかと思いたくなるほどだった。
 「むぎ、帰ってこい! 必ず帰ってこい!」
 むぎに背を向け、逃げるように部屋の外へ向かいながら、ぼくは魂を込めて祈った。
 
 翌日、ぼくたちは川崎の梶ヶ谷にある身代わり不動へ願掛けに出かけた。ふだんは無宗教で生きていながら、まさに「苦しいときの神頼み」そのものである。親たちが入院したときでも神頼み、仏頼みはしたことがなかったというのに……。
 その夜の面会はシェラを同行した。あれほど慕っているシェラにせめて会わせてやりたいという気持ちと同時に、シェラにも「むぎがここにいる」と教えてやりたかった。

 だが、ステンレスの檻が並び、それらが無機質な冷たい光を放つ“病室”のただならぬ情景にシェラが烈しくおびえた。
 恋しかったろうシェラの姿にむぎの叫びもいっそう悲痛だった。部屋から逃げ出すシェラへむぎの狂ったような声が追いかけてきた。
 そこに1分といなかった。家人が残ってむぎをなだめた。烈しい吠き声にいたたまれず目を閉じて、「むぎ、帰ってこい!」ぼくはもう一度祈った。

 果たして何が奏功したのかいまもって判然としないが、翌日の夜、むぎは退院した。複数のドクターのうちのひとりが原因を解析し、適切な治療法を見つけてくれたのだろうが、シェラの姿を見たむぎの「家に帰りたい!」という願いも天に通じたのだとぼくたちはかたく信じている。

 はからずも、ぼくが発した「むぎ、帰ってこい!」との連夜の祈りもまた神様はお聞き届けくださったのだ。あれからのたくさんの楽しい日々を思えば、いま、むぎを失った悲しみで天を恨んではならないのかもしれない。
 
 それでもなお、「帰ってこい!」と願い、祈らせてもらえる間もなく慌ただしく不帰の旅へ発ってしまったむぎへの哀惜は、二週間を経てさらにつのる。
 だから、むぎよ、もう少し、もう少しだけ悲しませてくれ。きみとの楽しかった日々を懐かしみ、きみのいない日々の寂しさに耐えていけるように、この悲しみととことん向き合う必要があるのだ。
 いま少しだけ悲しませてくれ。