☆漏らしてしまったのを知らせにきたのかい
半開きのドアを引っかく音で振り向くとシェラが立っていた。
風呂から上がり、自分の部屋のPCでメールやフェースブックのチェックをしているうちにもう午前12時半を過ぎてしまった。そろそろ切り上げて寝なくてはと思っていた矢先だった。
風呂へ入る前に散歩着に着替え、廊下で寝ているシェラに、「散歩へいこうよ」と何度か声をかけてみた。いかにもけだるそうに薄眼を開けてぼくを見るが、まったく動く様子がない。こうなったら、明け方だろうがなんだろうが、シェラの催促があったら応じてやればいい。よしんば、家の中でやってしまってもいいじゃないかと家人と話し、夜の散歩はいかないで風呂へ入ってしまった。
シェラの体調の状態から、わざわざ呼びにくることがぼくには意外だった。「わかった。すぐにしたくするからな」といって部屋を飛び出す。先ほどまでシェラが寝ていたあたりの床の、シェラが歩くときの滑り止めのためのカーペットが濡れていた。その滲みの大きさからみて、失禁したというより漏らしてしまった程度であり、それを教えにきたのかもしれない。ぼくの部屋の前の、シェラが立っているあたりの床もいくらか濡れていた。
その健気さに涙がこみあげてきた。遠慮なくやってしまえばいいものを……。
風呂へ入っていた家人が慌ただしく出てきて、ぼくの話を聞いてやはり泣いた。ぼくたちのただならぬ気配にルイがケージの中で烈しく鳴いている。
このルイもまた、シェラに迫る異常さを察知してナーバスになっているようだ。ぼくが風呂へ入る前に、ケージから出してやったのに、家人の脇に寄り添うだけでまったく遊ぼうとしないのである。いつもなら、ケージから出せばたちまち突貫小僧と化して部屋の中を全力疾走して、閉じ込められている鬱憤を晴らすのに……。どこか身体の具合が悪いんじゃないかとぼくも家人も本気で心配したほどだった。
☆延命はしないでいいよな
シェラがもう歩けなくなるだろうと思い、マンションの構内の移動に使うクレートの上部を外し、夕食後に風呂場で洗って干しておいたばかりだった。上部を外せば、シェラを抱いて乗せることも容易である。さっそく使ってみるとなかなか調子いい。もっとも、シェラのほうは寄りかかるところがないので戸惑っている。
そのまま外へ連れ出し、いつもオシッコをする場所までいって下ろしてやった。クレートの上半分を外しても、20キログラムの体重をなんとかするには、やっぱり家人ひとりでは無理だとわかる。
冷たい風が吹く中で、シェラはオシッコをすませ、よろけながら少し移動してじっとしている。こういうときのシェラはたいてい便意を催すのを待っているはずだ。
ぼくはシェラを抱え上げ、30メートルほど先の、シェラが好んでウンコをする場所まで運んでいった。そこでもシェラはしばらく立ち尽くしていたが、待っていた便意は湧いてこなかったらしい。
家に戻り、玄関へと抱いて運んだ。足を拭いてやろうにも、すっかり腰が砕けている。家人がシェラの身体を横に寝かせ、形だけ足を拭いた。口臭がまたいちだんときつくなっている。毒素が身体をまわっているのだろう。水を持ってきて口の前に置いてやったが横を向いてしまった。
☆もう覚悟はできている
シェラが嫌がるので途中でやめてしまったが、まだ数回分残っている点滴液のことが頭をよぎる。
「点滴、やらないでいいよな」
ぼくは家人に確認した。「もうやめて」と家人も同意してくれた。
この期に及んで、ぼくたちはシェラの身体のバックギアを入れたくない。苦悶しているわけではないのなら、もう、シェラの天命に従い、あるがまま、なすがままに見守り、静かに送ってやりたい。ぼくたちが別れの覚悟を決めるだけの時間をシェラはじゅうぶんがんばって生き延びてくれた。
午前2時、せがれが心配してきてくれた。朝までシェラの横で寝ようと思っていたが、「いいよ、オレが見てるから……」というせがれにシェラを託し、ベッドで寝ることができそうである。「なんかあったらいつでも起こしてくれ」
午前4時過ぎ、ルイの鳴き声で目が覚め、のぞきにいくとまだせがれがシェラに付き添ってくれている。2時間後の午前6時、起きていくと彼が徹夜でシェラを見守ってくれていたことを知る。シェラはリビングでウンコをしてしまったらしい。それでルイが騒いだのだろう。
「下痢してるからがんまんできなかったらしいよ」という報告を聞き、一晩付き添ってくれたことへの礼をいった。
だが、これは31日に待っていた波乱の序章に過ぎなかった。