愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

たくさんのあたたかいコメントへ感謝をこめて

2012-02-11 23:49:44 | 残されて
☆コメントへの御礼 
 シェラの永別(6日)と前後していただいたコメントにご返事できないままできました。あらためて読み返してみると皆様のあたたかいお言葉の数々に不覚の涙なしには読めません。


くんずほぐれつ遊ぶシェラとむぎ(2009年9月長池公園)

 きょうもシェラやむぎとさんざん遊びにいった八王子にある「長池公園」へ出かけました。ここはルイがきたばかりのころ、シェラと一緒にきたことのある公園でもあります。公園近くにある、シェラも大のお気に入りだった「珈琲屋 柚子木庵」でいつものようにランチをいただきました。
 
 ルイをクルマに待たせてお店の中へ入りました。テラス席しか使ったことがないので、はじめての店内です。そこで再びiPhoneで皆様のコメントを再読いたしました。読み進むうちに顔があげられなくなってしまいました。励ましやお悔みのあたたかいコメントの内容にうれし涙がとまらなくなってしまったのです。


八王子「喫茶店柚子木庵」のテラスにて(2009年9月)

 前の席の家人は事情を察して黙ってくれていましたが、ほかのお客さんやお店の方にそんな顔を見せるわけにはいかず、しばし、iPhoneを見るふりをして涙がかわくのをひたすら待ちました。
 
 本来なら、ひとつひとつのコメントにきちんとお礼のコメントをお返ししなくてはなりませんし、そのお約束もしましたが、今回だけはご容赦ください。不快なコメントはひとつとしてなく、すべて心にしみるものばかりでした。
 ありがとうございました。
 
 シェラの生前中は、いただいたコメントのごアドバイスにどれだけ助けられてきたかはかりしれません。皆様方からのアドバイスが、同じく愛犬の病と闘っておられる方々の有効なご助言として役立ってくださることを信じております。


緑の季節の長池公園は美しい緑に輝いている(2009年9月)

☆あの日から食欲不振のルイ 
 きょう、シェラのいない休日をはじめて迎えました。シェラが消えてしまった寂しさに落ち込んでばかりいられないまま迎えた週末でもあります。と申しますのが、シェラを送った月曜日の朝以来、ルイがすっかり食欲を失くしてしまっているのです。シェラがいなくなったショックからではなく、あの日の朝からすでに食べようとしないのです。まるで、シェラの永の旅立ちをさとっていたかのように……。


きょうの長池公園でのルイ

 放っておくこともできず、いろいろ工夫してなんとか食べさせるために四苦八苦しています。ただ、遊ばせてやると元気ですし、ウンコやオシッコも異常がないので、きょう、病院へシェラのお礼をかねていくつもりでいたのですが、祭日(午後の診療がありません)だというのを失念していていきそびれました。
 
 詳しいレポは明日のエントリーで上げるつもりですが、ルイにヤキモキさせらた一週間でした。
 
 まずはいただいたコメントの御礼かたがた近況のご報告まで。


かくして愛する娘はやすらかに旅立った

2012-02-10 22:34:55 | 残されて

☆心配しなくてもいいだよ
 シェラを送って最初の週末を迎えようとしている。
 先の日曜日の昼間をどのようにして過ごしたのか、思いだそうとしてもほとんど記憶がない。ずっと家にいて、ひたすら、シェラの最期の瞬間を迎えるべくぼくたちは息をひそめるようにして時間を送っていたはずだ。

 ときおり、眠っているシェラに目を向け、呼吸が止まっていないかを確認する。去年7月にむぎがあっけなく絶命してしまった恐怖が明らかにトラウマになっていた。
 日曜日の昼は、シェラの痙攣があまりなかったような気がする。眠っているあいだは呼吸も苦しげではない。呼吸している証にお腹のあたりの毛がかすかに動くのが確認できて安心するのだが、少しでも目を凝らして見ていると気配を感じ取ったシェラが目を覚まして見返してくる。その鋭敏さは驚くばかりである。

 横になったまま目を開いて見返すシェラにぼくは微笑みかけてやる。「ここにいるよ。どこへもいかないからね」と心のなかで語りかけながら……。それでもシェラは横たわったままだるそうにぼくを見つめている。シェラに不安を与えないようにと、ただそれだけを考えていた。


☆たくさんの思い出を語りあう
 日曜日の夕方から夜にかけて、シェラの状態がガクンと落ちた。痙攣の発作が増え、そのたびに苦悶するシェラを力づけ、吐瀉物の始末をくりかえす。
 「なぜ、こんなに苦しめなくちゃならないの。もう、いいじゃないの。楽にしてやって!」
 夜、何度めかの発作のあと、家人が全身をふるわせてぼくに訴えた。迷いながらぼくも同じことを考えていた。そのくせ、感情的な物言いでこたえている。
 「わかった、そうしよう。だけど、あとになって悔やんで愚痴るなよ。その約束だけはしておけ」
 
 不本意にも、シェラの前でぼくたちは口論をしてしまった。
 ぼくが冷静さを失ってしまったのも、苦悶するシェラの姿に明らかに動揺してしまったからだ。
 ――もうこれまでだ。シェラをぼくの意思で楽にしてやろう。
 そう思いはじめてはいても決断の踏ん切りがつかずにいた。想いは家人と同じだった。

 「やっぱり(安楽死は)できないわ。さっきの話は撤回します。最後までシェラを見守ります」
 しばらくして、家人が凛としていった。しかし、すでにぼくの決意はかたまっていた。
 「だれのせいにもしない。オレの判断で、オレの意思でシェラを楽にしてやりたいと思う。だからひと晩、シェラと一緒に寝かせてくれ」
 もう躊躇はなかった。明日の朝、シェラを病院へ連れていくつもりだった。

 ぼくは寝袋にくるまり、朝までシェラに添い寝して過ごした。キャンプでいつもシェラと寝た寝袋である。キャンプとちがうのは、顔が触れんばかりにして、シェラの身体を撫でながら、ときには頬ずりしてやりながらということだった。
 目の前にいるぼくの顔をシェラはまばたきもせず、ずっと見つめていた。まっすぐに向けられているシェラの黒い目がぼくにはひとしお愛しくてならなかった。


☆ぼくを見つめるシェラの瞳
 たくさんのことを声にだして話しかけた。シェラとの出逢いから17年間の来し方の思い出のあれこれを思いつくままに語った。わが家の旅の途上にはかならずシェラやむぎがいた。
 まだむぎがわが家にくる前、ぼくとシェラはふたりだけでたくさんキャンプに出かけていた。奥日光や水上の奥の山中、富士五湖周辺、裏磐梯の湖畔……。ふたりだけのアウトドアの思い出は楽しさやスリルで濃密な思い出になっている。むぎが加わって、また別の楽しさが得られた。どんなに幸せな日々だったかをぼくを見つめるシェラに語った。
 身じろぎもせずに聞き入っているシェラに手を伸ばし、頭を撫で、耳に触れ、背中をさすった。今夜が最後の愛撫である。この手のひらに残るビロードのような柔らかな感触を、ぼくは決して忘れないよと誓いながら。

 ときおり、朦朧とするのかシェラが目を閉じ眠りについたときだけぼくも撫でるのをやめて目をつむった。しかし、イビキというか、気管からの異音に心が痛んで眠りにはつけない。あるいは、呼吸が細くなり、いつ消え入てしまうのかとハラハラすると、やっぱり不安でとても眠れなかった。
 やがて、イビキこそ混じっているが、呼吸が太くなったと感じてぼくがウトウトとすると決まってシェラの痙攣がはじまる。苦しげに、悲しげに「お父さん、痛いよォ~!」と訴える声が響く。リビングのケージのルイが呼応して火がついたような烈しさで吠えてシェラの異常を告げた。

 ぼくは起き上がり、寝袋から脱けだして、しかし、ただ首を抱き、駆けつけてきた家人とともに身体をさすってやるしかなすすべがなかった。リビングでは吠えつづけるルイを、泊まり込んでくれたせがれがなだめていた。

 シェラが落ち着き、ふたたび顔をつきあわせて寝るたびにぼくはシェラに約束した。
 「ごめんよ、シェラ。朝になったらもう苦しまずにすむように先生に頼むからね。これはお父さんが決めたことだ。だからいいよね。わかってくれるだろ。もう、辛い思いをしないでゆっくり寝ようね。楽になって眠れたら、きっとむぎちゃんと会えるよ。だからわかってくれるね」
 ぼくを見つめるシェラの耳元に何度となく語りかけた。きっとわかってくれたと思う。


☆やっぱりぼくの娘だよね
 夜が明けはじめた。シェラとの永別の時間が迫っている。何度めかの痙攣のあと、家人がルイの首を抱いて子守歌をうたってやっていた。シェラも満ち足りた顔で家人の腕に身体をゆだねている。
 寝袋から脱けだしてトイレへ入り、戻ってみると家人の腕の中で不自然に首をまわしてぼくが戻ってくるのを待っているシェラがいた。
 「ダメよ、あなたの姿がないと探してばかりで……。また、お父さんのシェラに戻っちゃってるわ」

 むぎがシェラに依存して生きていたように、シェラもまた家人に依存して生きてきたはずだった。ことあるごとに、ぼくは「だれがおまえを拾って連れてきてやったと思っているんだよ」とシェラをからかってきたものだった。
 17年前の早春の朝、あのとき、捨て犬だった子犬のシェラは、抱き上げてやるとまたたくまにぼくが着ていたブルゾンのなかへもぐりこみ、わき腹から背中のあたりで寝込んでしまった。

 最後の最後にやっぱりぼくのところへ戻ってきてくれたらしい。いや、心はいつもぼくを一番に置いていてくれた。そんなことは百も承知で過ごしてきた17年間だった。言外にぼくたちの心はいつも重なりあっていた。

 だれかからシェラをほめられるとき、いちばんうれしかったのが、「まるで人間の親子のように(ぼくと)似た顔をしてる」との言葉だった。そう、ぼくたちは親子、シェラは文字どおりのマイ・ガールなのである。


☆そして別れのときがきた
 病院が開くのは午前9時、ぼくたちが家を出たのもそのくらいの時刻だった。せがれがクルマを運転し、ぼくがリアシートでシェラにつきそった。病院までの最後の時間を家人がゆずってくれた。
 すっかりわかっているのか、シェラは静かだった。もう発作が起きなかったのが救いだった。病院でもシェラは目を伏せ、おとなしくそのときを待ってくれた。

 「立ち会いますか?」という先生のことばに、「もちろんです」とうなずく。この期におよんでシェラをひとり逝かせるわけにはいかない。
 最期のときは家人とせがれにまかせた。家人が頬ずりし、せがれが身体を撫でて別れに立ち会った。ぼくはふたりの背後からのぞきこみ、シェラが幸せな眠りにつくのを見とどけた。

 ぼくの愛しい娘シェラ、17年間、ありがとう。
 ゆっくりおやすみ。
 また会うそのときまで待っていておくれ。
 
 
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お読みくださりありがとうございます。心から感謝しております。


「安楽死」という思いもよらなかった決断をするまで

2012-02-09 23:28:16 | 残されて

2010年11月12日の山中湖にて

☆こんないい子なのだから
 苦しむようなら「安楽死」という方法もある――癌の発見から腎不全に陥り、シェラの命も風前の灯火と覚悟したぼくたちに、お世話になっている動物病院の先生は、今後の見通しの最後に安楽死の選択もあると静かに、しかし、凛然と教えてくれた。去年12月18日のことである。

 お話はうかがったが、ぼくはシェラの最期は自然死しか頭になかった。どんなに手がかかろうと、最期のときまで面倒をみてやるつもりだった。病状が進むなかで、「決して見捨てないからね」と何度も声にだしてシェラに約束した。

 ぼくたちはこれまでわが家の子として迎え、ともに生活した何匹かの動物たちの死に立ち会った。巻き毛のモルモット、ハムスター、そして、三匹の猫たち、犬はむぎといったかわいい子たちの旅立ちを見守ってきた。そのたびに悲しく、辛い想いを経験したが、交通事故で不慮の死をとげた若いオス猫のチョビ太をのぞいてほかの子たちはすべて天寿をまっとうし、静かに去っていった。
 
 わが家のみならず、身近の知りあいの家のわんこやにゃんこたちも、「最期は苦しまずに眠るように亡くなりました」という話ばかりを聞いてきた。だからシェラが苦しむ姿を想像することができなかった。
 こんないい子なんだから、きっと、眠るように逝けるにちがいないと信じて疑わなかった。実際、あの夜までは。


4日(土)のシェラ

☆家人がシェラの安楽死を決意した日
 先月31日の昼間に下痢で苦しんだシェラをぼくは自分の目で見ていない。知っているのは家人だけである。幸いせがれがクルマに乗せてシェラと家人を病院へ連れていってくれたので、ぼくが帰ったころにはシェラもすっかり落ち着いていた。
 
 だが、この日のことを家人はいまも平静に語れないでいる。
 お腹が痛いと苦悶し、不自由な足にもかかわらずみずからクレートに飛び込み、家人が押して外へ急ぐあいだも断末魔のような悲鳴をあげ、まわりの人びとが何が起こったのかと驚くほどの修羅場を演じている。しかも、短いあいだで都合4回である。
 このとき、家人はシェラの安楽死を決意したという。むろん、このまま苦しみつづけるならばという前提だったが。

 だが、このときを例外として、ぼくと家人が留守にして、シェラがルイのケージの横へ移動していた夜までのシェラからは痛みや苦痛を訴える様子が希薄だった。すでに、歩けない辛さや、ご飯が食べられない、水が飲めなくなっているという症状ははじまっていたので、いまにして思えば、シェラががまんしていただけだったのかもしれない。こんなとき、犬は、さとられまいとして痛みを隠そうとするという。

 すでに口からのにおいはかなりひどくなっていた。きついにおいを放つオシッコの中に塩酸を垂らしたような、尿毒症という呼び名がぴったりの悪臭である。口の周りの汚れを拭いてやると、それまでの黄色い汚れに変わって血の赤い色が布ににじんだ。シェラの身体が腎不全から多臓器不全へと移っている証に思えた。
 
 まだ、差し迫った危篤状態には見えないものの、むろん、去年7月のむぎのときのように、突然、絶命してしまうことだってあるだろうし、それも仕方ないと臍(ほぞ)をかためていた。


これが最後と覚悟の散歩(5日朝)

☆死に目にあえなくてもしかたない
 病院で予告されていた痙攣がシェラを見舞ったのは、シェラがルイのケージの横にいったあとだった。シェラがいたいところに置いてやろうと思い、ケージの脇に置き去りにしてぼくは自分の部屋へ入っていた。まもなく、家人の悲鳴でぼくは飛び上がった。

 リビングへ戻るとシェラが痙攣し、苦しそうに嘔吐している。家人はシェラを抱き上げ、ぼくを突き飛ばす勢いで廊下をシェラのベッドまで運んでいった。まさに火事場のクソ力である。

 痙攣はほどなくおさまったが、明らかに家人は動揺していた。恐れていた発作がとうとう起こったのである。それは、末期に起るかもしれないが、起こらない子もいると聞いていた症状である。音に敏感に反応して怯えたように身体をふるわせる子もいるという。
 いずれにしても、くるべきときがきてしまった事実からをぼくたちは目を背けることができなくなった。つまり、死期が近づいたのである。

 午前2時近くなってせがれがやってきた。たぶん、家人がケータイで呼んだのだろう。ぼくはふたりにいった。
 「もう、覚悟しているのだから落ち着こう。みんなが寝ている間にシェラが息を引き取っていても、それはそれで仕方ない。死に目に会えないとか、最期を看取ってやれなかったなんてたいした問題じゃない」

 ふたりともぼくに同意し、うなずいていたが、結局、朝までシェラを見守っていたらしい。シェラは何度か痙攣の発作を起こしては嘔吐し、むろん、家人とせがれが始末し、シェラを励ました。シェラはというと、発作のあとに落ち着き、かと思うと呼吸が細くなって苦しげに身体をふるわせたという。


最後の散歩はまずお気に入りの場所へ

☆これが最後の散歩になるだろう
 それにもかかわらず、日曜日(5日)の朝のシェラは、ぼくが起きていくと散歩へいきたいとばかりよろけながら玄関へ向かった。本当にいきたいのか、それとも習慣性の惰性ゆえの行動なのか判然としないまま、ぼくは急いでシェラを連れ出した。きっと、これが最期の散歩になるだろうと予感しつつ。
 何よりも、この朝、生きて目の前にいてくれるだけでぼくはうれしかった。
 「シェラ、もうちょっと、もうちょっとだけがんばろうな……」
 カートを押しながら、ぼくは心の中でシェラに語りかけた。

 はたしてシェラが歩けるかどうかわからないまま外へ出たぼくは、まずシェラがなじんだ場所までカートで運んで下ろしてみた。二歩、三歩とけんめいに歩を進めるシェラを見て、これが最後の散歩になるだろうとの予感は次第に確信に変わった。
 だが、ぼくのポケットのカメラには、この日にかぎってSDカードが入っていなかった。最後の散歩の姿をぼくはケータイのカメラに収めた。

 家に戻ろうとして、もう一か所、大切な場所を忘れていることに気づいた。それは去年までシェラとむぎが毎朝通った公園である。あそこの芝生を歩かせてやりたい。不意にそれが今朝のシェラの希望のような気がした。
 週末まで生き抜いてくれたシェラに「ありがとう」と感謝しつつ、いまだむぎのビジョンも色濃い公園へ向かった。


本当にいきたかったのはむぎと通ったこの公園だのかもしれない

☆やっぱりもうなすすべはないらしい
 シェラの散歩を終え、つづいてルイの長めの散歩から戻ったぼくに家人がシェラを病院へ連れていきたいと告げた。
 「連れていっても、もはや、なすすべががないだろうから先生たちだって困るだろう」というぼくに、「もう、吐き気止めの薬がないの。それだけでももらいたいから」と家人は強引だった。

 連れていく前に病院へ電話をした家人は大きく失望することになる。吐き気止めの薬はもうむだであり、最期を迎えるにあたってこれからシェラがどんな苦痛に直面する可能性があるかをていねいに教わったという。安楽死についても、むろん、最終決断は飼い主のわれわれにゆだねられているが、再度説明をうけたそうである。

 かくして日曜日から月曜日にいたる長く、ひたすら重い一日がはじまった。


別れの悲しみを忘れさせてくれたシェラが静謐を得た瞬間

2012-02-07 22:06:53 | 残されて

町田市・薬師池公園でのまだ元気だったころのシェラとむぎ(2010年1月10日)

☆家に帰る何が喜びだったのかを知る
 神田でのミーティングを終えて帰路につくとき、定刻ながらいつもより早い時間に帰れると心が弾んだ。こんなとき、いつも真っ先に目に浮かぶのが、大喜びで迎えてくれるシェラの顔である。むぎが元気だったころはそこにむぎの顔もあった。
 シェラは17年間、いつもそうだった。病を得て、身体の自由がきかなくってからも先週の金曜日まで動けないなりに笑顔で待っていてくれた。

 だが、もうシェラはいない。
 そう思った瞬間、足から力が抜けて重くなった。ルイが待っていて、やっぱり喜んでくれるとはいえ、まだシェラやむぎの足下にも及ばない。存在感が違うのだ。
 シェラが消えてしまったいまになって、これまでぼくは毎日何を楽しみにして家路をたどってきたのかようやく気づいた。

 午後5時30分過ぎ、神保町の交差点から靖国通りを、うつむくまいと顔を上げてはいるものの憂愁を隠せないで九段方面いく老いた男がいた。きっと気づいた人はだれもいないだろう。
 途中、20年来の親友とすれ違ったが、彼さえもぼくに気づいてくれなかった。彼は去年、愛妻を癌で亡くしていた。颯爽と去りゆく彼に今日のぼくは恥ずかしくて声をかけることができなかった。

☆あの情景を決して忘れない
 家で迎えてくれるシェラの笑顔にはもう会えないが、彼女のいない寂しさを感じたとき、必ず想い出していくであろう光景がある。それは、シェラの永眠の瞬間である。
 身体にゆっくりと麻酔薬が注入され、やがてスーッと眠りについた瞬間のシェラの顔である。その顔を包んでいた家人の手がそっとシェラのまぶたを閉じてやった。

 ほどなく、聴診器で鼓動を聞いていた院長先生が「いま亡くなりました」と静かに教えてくれた。ぼくたちに悲しみは微塵もなかった。穏やかな、安息に満ちたシェラの顔が悲しみを忘れさせてくれた。痛みや苦しみから解放された静謐がシェラに満ちていた。
 「ありがとうございました」
 ぼくたちは心からの謝辞を院長先生へ述べた。

 奥の部屋であとの処置をしてもらうために再びシェラを預けて待合室に戻った。ぼくは家族から離れ、外へ出た。彼らから見えない位置でぼくはつかの間、噎(むせ)んでいた。
 もうシェラがいないという喪失感がこみ上げてきたからだけではない。むろん、それもあったが、最期を迎えたシェラの安らかな姿に「よかった!」との切実な想いが胸に迫っての嗚咽だった。


まともに歩けない足でシェラはルイの脇まできていた(2月4日)

☆留守番のシェラはどこへ……?
 前々日の土曜日の夜、ぼくと家人はシェラとルイを置いてしばし留守にした。家人の店へどうしても取りにいかなくてはならない品物があったからである。ほんの30分あまりのつもりで、「すぐに帰るからね」と何度も言い聞かせて玄関前の部屋で寝ているシェラを置いて出かけた。
 
 もうほとんど動けないシェラだから、かえって心配ないだろうと思っていた。うしろ足が機能せず、立っているのがやっとだった。とりわけ左足は足先が萎えてちゃんと歩けない。歩こうとしても、足先が反り返ってしまうのである。

 30分あまりのつもりが、結局、小一時間経ってぼくたちは帰宅した。玄関のドアを開けると、目に真っ先に飛び込んでくるはずのシェラがいない。シェラのベッドが空になっていた。ぼくはシェラの名を呼びながらあわてて家に飛び込んだ。北側の部屋、寝室、洗面所、そして、シェラの水が置いてあるキッチン……。いるだろうと想像した場所のどこにもいない。
 
 リビングを見回して、ぼくは意外な光景を目にして息を呑んだ。なんとルイのケージの横にシェラがうずくまっているではないか。ぼくは目を疑った。
 「どうしたんだ、シェラ。……おまえ、よくここまで歩いてこれたな」
 シェラもルイも何事もなかっかかのようにぼくの顔を見上げていた。

☆ルイ、ぼくはそんなに悪いお父さんか?
 いったいなぜ……?
 身体に不安のあるシェラだけに、留守番が怖くなってルイのそばにやってきたのか、それともこんな身体になってもなおルイを守ろうとしているのか? 安易に断定はできないが、シェラとの長いつきあいの中でのぼくの解釈は、こんな身体になってしまったからなおさらルイの近くにきてルイを守ろうとしたシェラの意志を濃密に感じていた。
 「シェラ、もういいんだよ。自分のことだけ考えていれば……」
 ぼくはシェラに語りかけた。

 また稿をあらためて記すつもりだが、このときの情景が、シェラとの最後の夜に見せたルイのリアクションの激しさに結びついてしまう。
 苦しみ、悶え、ぼくの腕の中で「お父さん、痛いよぉ。助けて……」といわんばかりに訴えるシェラの悲痛な泣き声のたびに、リビングのケージの中にいるルイが火がついたように吠えていた。
 
 わが家の子となって以来の短い時間ではあったが、ルイはシェラを追い、やがてシェラはルイを仲間として受け容れた。間近に迫ったシェラとの永別の意味の深さをよもやルイが感じ取っているとは思えなかったが、異常を感知していたのはたしかだった。
 シェラがいなくなってからのルイは、ぼくに対してなんとも冷ややかな態度である。今日も早めに帰宅したぼくをルイは冷めた目で見つめるだけで喜んで迎えてはくれなかった。


最期は安らかな旅立ちでした

2012-02-06 18:57:39 | 残されて


シェラを応援してくださった皆様へ――

 本日午前9時42分、シェラは安らかに旅立ちました。最後はいつもお世話になっている病院で揺るぎない信頼を寄せている院長先生が静かに旅立たせてくださいました。
 こんなに安らかに最期を迎えることができるのなら週末に苦しませず、もっと早く逝かせてやればよかったとさえ思うほどそれは穏やかな瞬間でした。
 
 シェラの最期を迎えるにあたって、「安楽死」という選択肢はぼくの中にまったくありませんでした。しかし、いまは決断してよかったと心から思っています。そして、これからも悔やむことは決してないはずです。
 ぼく自身、無駄な延命は望まないと家族に伝え続けてきました。この何日かのシェラの苦しみを目の当たりにして、自分のポリシーの正しさを再確認することができました。最期をいかに迎えるべきかまでシェラに教えてもらいました。
 
 病院できれいに処置をしていただいたシェラの亡骸を引き取り、いったん、家に連れ帰りましたが、午後、7月にむぎがお世話になった動物霊園でお骨にしてもらい、夕方にはわが家のむぎのお骨の隣に安置することができました。

 むぎのときもそうでしたが、亡くなったその日のうちにお骨にすることでのご批判をくださった方もおられましたが、これはわたしどもの信念であり、自分のときも、死んだその日のうちといわけには法的にもいきませんが、可及的速やかに火葬にしてもらうのが望みです。
 
 この週末、シェラとぼくたちがどんな時間を過ごしたか、いずれ冷静にこのブログに記録し、検証しておきたいと思っています。どんな煩悶があり、なぜ、考えてもいなかった安楽死を選択したかも記しておくつもりです。 
 また、いただいたままになっているコメントにもちゃんとご返事をさせていただきますが、いましばらくのご猶予をいただきたく、お願い申し上げます。
 
 異変に気づいたルイは、今朝と夕方の食事を摂っていません。もうシェラはいないというのに、シェラを探しているようです。シェラのにおいの痕跡が残っている場所では必死に引っかいています。
 シェラを喪ったわたしたちに寂しさや哀しみが襲ってくるのはこれからなのかもしれませんが、いまは苦しみを取り除いて安らかな眠りにつかせてやれて満足しています。 
 そんなことを書きながら、キーボードの上の手の甲に涙が落ちてきます。情けない爺さんです。
 
 まずは、こんな泣き言ばかりのブログをお読みくださり、シェラにエールを送ってくださっていた皆様に取り急ぎのご報告と心からの御礼を申し上げます。
 
 ありがとうございました。