ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

ぶらチャリ14 海辺のチャーリー編

2015年04月29日 21時41分56秒 | スポーツ全般

一等三角点を持つ日本一低い山を目指して、
オジチャリ2号で家を出た。

往きは、1年くらい前に新しく開通した
南海中央線を行けるところまで
北上するという作戦を取った。

家を出て、まず「足神さん」に
オジチャリ旅の安全をお祈りだ。



南海中央線には歩道と車道の他に
自転車道(青い部分)が設置されているので快適だ。



おお~2月に母が亡くなった病院が見えてきた。



心のどこかにさざ波が立つ。

その病院を横目にどんどん北上していこう。

高石市の気になる加茂という街から
東羽衣に入るあたりで、
自転車道はおしまいになるが、



道は続いている。

こんな公園を横に見ながらさらに北上。



JRの東羽衣線をくぐっても道は続いているものの、



途中から一方通行を逆行するようになる。



車に気をつけて進んでいこう
(本当は自転車でも逆行は×)。

あ、マンふたに南蛮船と共に描かれてあるのは、
旧堺港灯台ではないか。



そう、今日はここも行く予定だ。

そして直進する道がなくなっても、
ちょっとグイチでほぼ直線で進めそうなら
その道に無理やりはいって行くことにした。
(子ども連れの女性が出てきた道)



しかし、ついに浜寺小学校のところで
どうにも突き当たってしまった。

かくなる上は、
昔歩いた紀州街道の方に西進だ。





諏訪ノ森で紀州街道に合流し、



しばらく北上すると石津川に架かる
太陽橋にさしかかる。



この地域は昔木綿業が盛んで、
石津川では木綿を晒していたそうだ。



その川に明治5年、この太陽橋がかかった。
当時、この橋は通行料(橋銭)を取り、
それで建設・管理が成り立っていたそうだ。

今も橋の南詰には当時の橋柱と



橋銭を徴収していたことを刻んだ道標が立っている。



またその道標の横には、
ここ石津の戦いで没した南北朝時代の武士である
北畠顕家と南部師行の供養塔がある。



以前紀州街道を北上している時に、
自転車で南下している若者と
ここで逢ったことを思い出した。
彼は今頃どうしているだろうか。

その橋の少し北に「石津太神社」がある。



海から漂流してきた戎様が
携えていたという五色の岩がこれ。



普通の石に見えるんですけどねえ。
普通の時は茶色、
雨の日には黒、
雪の日には白、
夕暮れには赤、
そして太陽の降り注ぐときには黄金に
輝いたりするのかな。

そこから少し北上してから、
紀州街道を離れて
石津川の駅前から臨海方向に向かった。



これが旧26、海岸通りと名付けられている。



そして石津北の交差点から



しばらくこの海岸通りを北上すると
コンビニがあったので、少しコーヒー休憩。

隣にあるラーメン屋さんの窓越しに



楽しそうなお客さんの影が・・・絵でした。



出島中の交差点から臨海道路に向かう。



おお、臨海道路沿いに
こんな気持ちのいい道が・・・



ずっと続いていくかと思ったら
出島漁港の「とれとれ市」のところで終点。





たんなる回り道だと。



漁港の様子もパチリ。



堺のこんな中心地に近い所にも、
漁船のたくさんある港がある。

あ、漁船にこんなシールが貼られているよ。



「小さな魚は海へ帰そう」だって。

かつては「茅渟(ちぬ)の海」と言われた大阪湾。
限りある漁業資源を大切に、ということだろう。

ああ、あちこち寄り道してたら
なかなか目的地にたどり着かない。

ここから一気に北上しよう。



楽しそうに釣りをしている海沿いを走り、



旧堺港から出る堅川の対岸に、
こんな大きな壁画が見えたら



「旧堺港灯台」に到着だ。



堺旧港南波止場に明治10年に築造された
高さ11.3mの六角錘形の灯台で、
埋め立てが進み役割を終えた後、
堺のシンボルの一つとして保存され、
現地に現存する日本最古の木造洋式灯台として
国指定史跡になっている。



大阪湾に沈む夕日をバックに
写真を撮ったらよさそうだが、
時間的に無理だから、
逆光で海辺のチャーリーの記念写真をパチリ。



ここから蘇鉄山まではもう少しとなる。

チリンチリンと続く