そうですねえ、
河内と八尾市が重なるのは、
前に書いた河内木綿や
この河内音頭が熱心
というのがありますねえ。
doironところで行われる盆踊りは
「江州音頭」がよく歌われますがね。
まあいろんな音頭取りが上がりますから、
河内音頭や伊勢音頭も歌われますが、
まあ中心は「江州音頭」です。
でもこの八尾あたりは完璧に
「河内音頭」でしょうねえ。
公園にはこんなステージもありますし、
季節が近づいたら飾りなんかも
あるのかなあ。
そしたら河内のおっさん連中も
もっと集まるんやろなあって感じです。
公園のベンチでビール飲んでる
おっさんの頭には
「エーさては一座の皆様へ
チョイと出ました私は
お見かけ通りの若輩で~」
といつも響いているんでしょう。
そんな公園を過ぎて
しばらく線路沿いに進むと、
右側の路地奥に神社が見えてきます。
ここが「穴太神社」です。
祭神を「天照皇大御神、
住吉4座大神、春日4座大神」
と9つの神にしています。
出資の細かいところは
わからないそうですが、
ここが聖徳太子の生母が
生まれた聖地であることからみて、
かなり古い時代からの
神社であることはわかります。
八尾市が指定した保存樹木である
クスノキも立っていましたよ。
まあこれだったら樹齢は
200年くらいじゃないかなあ。
そして立派な本殿が建っています。
そして境内には、
こんな鳥居の笠木のような
椅子が置かれていますねえ。
ちょっと腰かけるには
勇気がいりそうですなあ。
河内のおっさんには平気なんかな
で、この寺の名前の「穴太」ですが、
つい最近このブログに出てきましたよねえ。
そうです。
比叡坂本を歩いた時に
石組を作った一族が
「穴太衆」でしたね。
だったらここもそんな彼らの
立派な石組を見てみましょう
と思いましたが、どうも残って
なさそうでしたね。
でもまああの穴太衆の御親戚が
たくさんいたのでしょう。
地名がそんな感じになっています。
では、もうひとつこの「穴太」の名前の付いた
遺跡も見ておきましょう。
すこし西に歩いて「穴太南」の
交差点に行きますと、
こんな碑がありました。
「穴太の借り滑走路」
大正飛行場の遺跡です。
ここを通る府道21号
八尾枚方線が元は阪神飛行学校の
借りの滑走路だったそうです。
写真の突き当りのところぐらいから
まっすぐに距離は約1500m
続いていたそうで、
ああ、こんな街中の道も
そんな過去を持ってたんですねえ。
さあではまたコースを進んでいきましょう。
その先で到着したのが「常光寺」です。
中に入っていくと
まずは「八尾別当顕幸墓」と
いうのがあります。
八尾僧正といわれた顕幸は
楠木の家来として活躍した
武士兼僧正であったといわれています。
そしてこれが「森本行誓宝篋印塔」で、
八尾地内村の開発を進めた人らしいです。
いやあこの寺は八尾に
大きな影響を与えた人たちの
墓や供養塔がありますねえ。
それもそのはず、この寺は
「八尾の地蔵さん」でと言われていて、
行基の創建で聖武天皇の
勅願所であったそうです。
ではここでひとつ疑問を持ちました。
「八尾」の由来は何でしょうか。
八本のしっぽを持つ竜が現れた、
なあんてのではありません。
いくつか説があります。
ひとつは弓矢などの武器を
製造する種族がいたので、
矢を背中に背負うところから
「矢負う」→「八尾」になった説。
そしてもう一つは鳥の尾羽が
八本でいい鳴き声をしてたところから
「八尾」といわれるようになった
などいくつか説があるようです。
地名の由来は面白いものですねえ。
そして常光寺の境内には
広い空き地がありますので、
きっとここでは盆踊りなんかが
熱心に行われるようですね。
河内のおっさん連中がたわむれるんでしょう。
なにせこの寺当りが
「河内最古之音頭発祥地」で、
その当時文部大臣だった
塩川氏の石碑が立っていました。
続く