ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

母の納骨

2015年04月20日 21時50分59秒 | 生活

母の納骨で一心寺に行った。

ここはあらゆる宗派の納骨が可能で、
お骨をずらっと並べて供養する方式ではなく、
納骨されたお骨を何年か分を集めて、
骨仏を作ってくれるそうだ。

もちろん父もここに納骨した。

次に骨仏を作るのはまだもう少し先だから、
両親ともお骨が一つに融合して仏となるはずである。

いわゆるお骨の同級生というわけだ。

大きな紙袋にお骨を治めて電車に乗った。
普段カバンをあまり持ち歩かないdoiron。
持ったとしてもショルダーやリュックだから
手に持った紙袋を忘れないようにしないといけない。

よくJRの忘れ物のことが報じられるときに
「忘れ物の中にはお骨もあります」
と言われていたりする。
かつてはなんて不届きな奴がいるものだ
と思っていたが、
いざ自分のこととなると
「ああ、そういうわけだったのかもしれない」
と変に納得してしまう。

折しも、桜満開の季節。



母のお骨に花見をさせてあげようと
天王寺公園を抜けて行くことにして、
天王寺の駅から一心寺まで歩いていった。



思えばここは子供の頃、
動物園に連れて行ってもらったときに
母と歩いた道だったかもしれない。

遊歩道は桜が満開で、



あふれる命の中を
亡くなった命を持って歩くのは感慨深い。

もしかしたら大阪都立美術館に



なるかもしれない建物を抜け、
茶臼山に向かった。



この茶臼山は大坂冬の陣では
家康の本陣となり、
夏の陣では真田幸村の激戦地となり
全員討死した地である。



今は人も少なく、
華やかに咲き誇る桜が
いっそう寂しさを際立たせているように見えた。



風呂敷に包まれたお骨を取出し、
動物園に連れてきてもらったお礼ではないけど、
母にも花見をさせてあげることにした。

花びらがちらちら舞う中、
最後の一緒の花見だ。

「さあ、父さんとこに行こか」
と再び歩きはじめ、
ようやくたどり着いた一心寺には
南門から入っていった。



納骨の手順はまだ記憶に新しいので、
まっすぐ受付所へ。



あらかじめ用意してきたメモを見ながら
必要事項をスラスラ書き、
持参した書類を渡すと、受付完了である。

納骨料を治めて、本殿へ向かう。

場所もよくわかっているので動きに無駄がない。
こんなに慣れた納骨者も珍しいものである。

次々と名前が呼ばれ、
やがて順番が回ってきた。

母の戒名は、生前に授戒や五重を済ませているから、
浄土宗の中でも位の高いものである。
丁寧に詠みあげていただいたような気がする。

読経が終われば、経木を受け取って
納骨殿に向かう。

そこでまた読経がある。

「もうお骨は返せませんがよろしいですか」
と注意事項の説明を聞いてすべて完了。

母の遺骨は父と同じ仏となるべく
無事におさめられた。

そういえば、実の親父だけでなく義父さんも
骨仏の同級生だな。
みんな仲良く暮らしてもらいましょう。

この亡くなった三人で、
残る儀式は墓への埋葬だけとなった。

義父さんの墓は、
本人が生前買ってあった墓地が
奈良県の当麻寺にあり、
今月その墓の開眼式がある。

そしてdoironの両親は、
泉O津の先祖代々の墓で
眠ってもらう予定なのだが、
こちらも新たに花立てや
線香台などの整備をしてからと思っている。

少しずつゆっくりと、
みんなの日常が平穏へと向かいつつある今日この頃です。

合掌。


熊野古道 南部と田辺で学べ 4

2015年04月19日 21時40分13秒 | ウォーキング

「芳養(はや)」の地名は
よく難読地名に登場しますが
その由来はよくわかりません。

唯一資料に載っていたのが、
この地を流れる芳養川が流れの
「速い」川だったことから・・・云々
という記述を見つけましたが、
なぜそれが「芳養」という漢字に
なったのかまではわかりませんでした。

焼肉の「はや」も語源はこれなんでしょうか。
うまいもんはうまいけど、
わからんもんはわからん。

さて古道は井原川を越えた所で
分岐を右折、左折とカクカクと歩いて、



春たけなわの景色をキョロキョロ眺めながら
やがて松井橋に出ます。



地名は芳養ですが歩行はのんびりです。

これが「芳養川」です。



さほど速い流れのように見えませんでしたが・・・。

その先で道は42号に合流します。
そこが「芳養」の交差点です。



お、南東の隅に何か石が置かれています。



行ってみると・・・「南海道地震津波潮位標識」
と書かれてありました。



長い海岸線を持つ和歌山には
津波災害のモニュメントが多くあります。

湯浅には「稲村の火」という伝説も残っていましたし、
深專寺の前には津波のことを書いた石板も立っていました。

海南の手前には人々を呼んで
津波から助けたという「呼び上げ地蔵」もありました。

このシリーズの最初に出てきた鹿島の話も
津波に関係しています。

近々南海東南海地震の発生もいわれている中、
こういういわれや
4年前の東北大震災を教訓に
防災意識を持ち続けたいものです。

その交差点から海の方に向かったところにあるのが

「芳養王子」です。





彫刻と彩色の多彩に施した社殿を持つ



「大神社」という名の神社の中にこれがありました。



芳養王子社址と熊野古道紀伊路スタンプです。

例の熊野ブルーの案内板はありませんでした。
どういう基準で設置しているんでしょうねえ。

さあ、今回の歩行もあとわずかです。
神社のところから古道は左に折れ
南下していきます。

芳養の街道筋に入ってすぐのところに
善徳寺がありました。



境内にそびえる樹齢400年といわれる
ビャクシンが見所の神社です。

これ。



樹齢400年ということは
先ほどの津波潮位標識のところに書かれてあった
1600年代の大津波にも耐えて
生き残っているわけですね。

でもこれはこれまでに見たビャクシンと違って、
背が低く横に広がって育っています。

津波時のお助けにはなりにくいかもしれません。

その横には「弘法大師腰掛石」があります。



弘法大師といえば700年代から800年代の人ですから、
この石はビャクシンよりさらに
800年も前の石ということになります。

どーれ、doironも腰掛けてみましょう・・・
なあんてばちあたりなことはしませんよ。

そしていよいよ最後に
「芳養一里塚」を訪ねましょう。

この季節に早くも渡ってきたツバメが
たくさん飛び交う街道筋を
さらに南下していきましょう。




軒下にツバメの巣がいくつもある家です

これがその一里塚。



地元の人からは「塚の地蔵さん」
と呼ばれているそうです。

地蔵堂の前には、異様な形をした
でっかいエノキが立っています。



これも津波に耐えたのでしょうね。

さて、これで今回の区間は終わりです。
芳養の駅に行ってみますと、



南部への電車が出るまで45分ほどありますので、
遅い昼食にすることにしましたが、
食堂が見当たりません。

駅前でみかんを売ってたおじいさんに訊くと、
浜の方に行けばお弁当屋さんがある
とのことなので行くことにしました。

そして買ったのが、

このサンマ寿司。



これぞまさしく磯の味って感じで最高でした。
食べてから駅を少し探索。



するとホームの待合室の壁に
こんな絵が描かれてありました。



「芳養」だけに速さ比べをしている絵ですね。

そうこうしているうちにやってきた電車に乗ってみなべに戻り、

車で帰宅の途についたdoironなのでした。

みなべと田辺でいろいろ学んだ
このシリーズ終わり。


熊野古道 南部と田辺で学べ 3

2015年04月18日 21時55分39秒 | ウォーキング

堺漁港が見渡せるところにあるのが



「堺地蔵堂」です。

写真を撮ろうと思ったのですが、
ソテツやらボケの花やらが生い茂っています。



かといって近づくと画面におさまりきれないので、
仕方なくソテツ越しに写しておきました。



この地蔵尊のいわれがユニークです。
岬の先端にちょこんと突き出た場所があり、
そこは「森の鼻」といわれています。
この森の鼻に流れ着いた
島根県は隠岐の島の地蔵が
地元漁師の夢に現れ、
はやく見つけて祀ってほしい
と言ったそうじゃ。

で、そのお告げ通りに祀ったのが
この堺地蔵といわれています。

そういえば漫画日本昔話によく似た話があったような・・・。

古道が山の辺の静かな道から
交通量の多い42号に迂回しているのは、
この地蔵に参るためと
もうひとつ理由があります。
それが、その先の大屋海岸に転がっている、

袖摺岩

を見るためです。

写真に写っている丸い2個の巨石がそれです。





これは例の「清姫」にまつわる遺構で、
かつて逃げる安珍を追いかけてきた清姫が
ここで着物の袖を摺ったという言い伝えのある石です。

それにしても逃げる安珍の痕跡は
あまり残っていないのに、
追いかける清姫の痕跡は
この袖摺り岩のほか
これまで草履塚や腰掛け岩などが残っていました。

さすがに、女の怨念は深く長く
後世に遺恨を残すということなんですねえ。

大屋海岸に咲いていた、
海浜植物のハマエンドウや



紀州の海べりでよく見られる
ハマダイコンの先祖も、



きっと壮絶な清姫の恋のチェイスを目撃したんでしょうねえ。

さて、堺地蔵と袖摺り岩を眺めたら、
その先でまた静かな山べりを進む
本来の古道に戻りましょう。



右の道から矢印のように
左の道へと進んでいきます。

振り返ったらみなべ町の境界を過ぎていました。

道はいよいよ中辺路の入り口である
田辺市へと入ってきたわけです。

その証拠にほら、
マンふたも梅と松をあしらった
田辺市のものになりました。



田辺でもいろいろ学ばさせて
いただきましょう。

田辺市の案内板の形はこんな感じです。



シンプルでいいですねえ。

お、道の先にトンネルが見えてきました。



大仏鉄道ではありません。
普通の道のトンネルです。

「井原隧道」といいます。



しかしそれにしても、
車が通るトンネルを
歩いてくぐるというのは
あまり気持ちよくないですね。

車が入ってくると後ろからゴゥ~っと
音が迫ってくるのは恐ろしいものです。

それに、下手をすれば首筋に
冷たい水がピッチャンと落ちてきたりして、
ついついトンネルの中は早足になってしまいます。

そして、トンネルを抜けると・・・と書くと
「雪国」とついつい書いてしまいそうですが、
そんなことはありません。
ここは南国和歌山です。

花咲く「井原観音堂」がありました。





ちょっと寄ってみましょう。
きれいに掃除されたお堂前が
気持ちいいところでしたし、
お堂の下には腰掛けるところもあって、
ウェルカム感が満載です。

ここで軽く食事にしましょう。

今日は時間を節約してガスコンロはありません。
ポットに入れたコンビニコーヒーと
おにぎり1個をいただきました。

最近のコンビニではカップコーヒーを
扱うところが多くなりました。

そこで突然ですが、
「コンビニコーヒー比べ」をしてみましょう。

doiron的に一番おいしいと思うコーヒーは
「セBブンイレBブン」のコーヒーです。

適度な酸味とコクがあって
万人向けでしょう。
コンビニ製品はこうでないといけませんな。

次いで好きなのはR-ソンのコーヒーかな。

まろやかな味が
お子ちゃまdoironのお口に合います。

この日のコーヒーは
Fミマのコーヒーでしたが、
これはイマイチでした。

薄くて、それでいてなんとなく苦味が変でした。

コンビニ全体の姿勢としては
このチェーンが一番いいように思うのに
このコーヒーの味は残念です。

といってもdoironの嗜好が
間違っているのかもしれません。

あくまで個人の感想です。

それに店によって違うのかもしれません。
どんな仕組みでコーヒー豆が配置されるのか
まではわかりませんが、
とにかく改善の余地はある
と言っておきましょう。

休憩が終わったら、
本日唯一の王子である
「芳養(はや)王子」に向かいます。

続く


熊野古道 南部と田辺で学べ 2

2015年04月17日 22時17分51秒 | ウォーキング

海の方に出てみると、
その日は風もあまりなく
海は静かに凪いでいました。

海を見ると鹿島はひと目でわかります。

三つの山で構成されるひとつの島が
デーンと座っていました。

前回、「南部(みなべ)」の名前の由来が、
飛んできた三つの鍋に由来する
と書きましたよねえ。
まるでUFOみたいだと。

その三つの鍋がこの島の山なんです。



(これは南部の駅下がりから撮った写真です)

今は「鹿島」と呼んでいますが、
かつては「三鍋島」といわれていたそうです。

熊野古道を歩く前には
このあたりも車で何度か通っているはずですが、
沖に島があることなんか、
またそれが南部の名前の由来になっているとは
まったく頭になかったものです。

熊野古道はこうして好奇心を持って歩いていると
いろんな発見があるものですねえ。

これを「クマノミクス」と言いましょう。

神社に戻って境内を探索してみますと、
この神社で毎年8月1日に
鹿島の怪火にちなんだ花火大会が
行われていることが書かれてありました。

残念ながらdoironの方の地方で
8月1日といえばPLの花火ですから、
その陰に隠れてあまり有名ではありません。

これは巨大なヤマモモの樹です。



雨山城址にあったのとヒケをとりません。
実が成るのでしょうかねえ。

鳥居は形は一見して伊勢鳥居か
靖国鳥居何ですが
笠木が角材ということで、
原始的な素木鳥居といえるでしょう。



先日知り合いの神社の神主に訊くと、
神社側はさほど鳥居の形には
こだわっていないような気がしました。

末端神社だといわれと鳥居はさほど厳密には
結びつかないのかもしれません。

おお~、この狛犬は何となく
南洋の雰囲気を漂わせています。





さすが南国和歌山。

さてひと通り探索したところで、
神社の裏手を通る熊野古道に戻りましょう。



しばらく歩くと、梅畑の下に紫色の花が咲いているのが
目に入りました。



「ジロボウエンゴサク」です。

どこにでもある花のようですが、
doiron的には結構珍しい花です。

というのも、あちこち歩いていますが
この花を見るのは、
季節の巡り会わせかもしれませんが
実は初めてなのです。

アップでも撮っておきましょう。



その先で道は植田川



に架かる「南茶屋橋」を渡ります。



いわくのありそうな名前なので
調べてみましたがわかりませんでした。
ぐすん。

その橋のたもとの屋根に、
「ピーヒャラコッコ」
(個人の感想です)
と啼く鳥がとまっていました。



腹の色、鳴き声、海辺というロケーションから
「イソヒヨドリ」と思われます。



これも海岸沿いには普通にいる鳥だそうですが、
doiron的には珍しい鳥です。

そういえば、鬼瓦の上の
この鳥がとまっている場所を
鳥衾(とりぶすま)と言いますねえ。

昔の家にはそこにまたちょっと突き出た形の
瓦をつけていることがよくあります。
屋根の上に、まるで鍾馗さんのように
ちょこんとこんな鳥がとまる家には
きっと幸せが訪れるだろうと
昔の人は考えたのかもしれません。

道は42号線と平行に
一本山側に続いています。





普通に42号を車で走っていたら、
全然気づかないでしょう。
こんな道があることを知っていれば、
かつて渋滞時の抜け道で走れたのになあ
と思いながら南下していきます。

42号に最接近したあたりで、
こんな看板が立っているということは



まもなく南部ともさようならです。
南国みなべを後にして
いよいよ中辺路の入口、田辺に突入です。

みなべでは熊野古道のことだけでなく、
梅、ウミガメ、歴史等たくさんのことを
学ばせていただき感謝です。

え~っと、このお店は何の店かなあ、
と思って看板を見たら・・・、

ドヒャー。

「紀伊国屋文左衛門屋さん」でした。



何を売ってるのかなあ。
みかんかなあ。
意表をついて本屋やったりして。

しょうもないこと言ってないで
先に進みましょう。

お、やや後方の海に鹿島が見えてきました。
う~ん、ここから見れば「二鍋」ですねえ。



そんな海を背景に、
アケビの花が咲いています。



ビッグでたいそうな実が成るわりには、
小さくてかわいい花でしょ。

そうそう、アケビの新芽は食べられます。
早春の山里の御馳走ですね~。

doironも帰ったらノビル、ウドやワラビなど
山菜狩りに行かなくてはなりませんな。

この日はポカポカ陽気の絶好の歩行日和でした。
道端では猫が昼寝をしています。
猫が・・・

あれ?

猫ではなくてただの石でした。



見ようによっては、
石の模様が猫に見えますよね。

国道42号は海に突き出た
小さな半島を回っていきますが、
古道はまっすぐわずかにアップダウンしながら
住宅が立ち並ぶ街道筋を抜け、
漁港に出ていきます。

続く


熊野古道 南部と田辺で学べ 1

2015年04月16日 21時26分54秒 | ウォーキング

房総半島の記事はもう少し先になります。
まずは熊野古道のお話を
読んでいただいている間に
記事作成をしましょう。

みなべは梅の花の季節には
大混雑になります。
幹線国道が1本と高速道路が1本のみなので
車も渋滞することが予想され
あまり近寄りたくありません。
でも、ようやく
梅の花の季節もそろそろ終わったようなので、
静かになっているはずです。

なので二月に歩いたきり中断していた熊野古道歩きを
ぼちぼち再開しようということで、
3月末に
みなべに向かいました。



前回の歩行で駅前に無料駐車場があることは確認しています。

梅の季節なら到底停められないでしょうが、
もう大丈夫なはずです。
機は熟しただろうということで
朝7時前に家を出て南部駅に向かいますと・・・

むむむ。予想に反して
なんと駐車場は満車でした。

それどころか区画ではないところまで
無理やり停めてあるような有様です。

これはもうコインPに入れるしかないなあと思い、
グルグルと探し回りましたがこれもありません。

駅前に結構大きな無料Pがあるのですから、
無理もありませんねえ。

どうしようかと途方にくれながら、
駅前で尋ねてみると
某小学校の駐車場ならオープンで
一般の人も停めてるよとのことだったので向かってみると、
おあつらえ向きに春休み期間で学校も休みだったものですから、
近隣の施設を利用する人の車だけでガラガラでした。
ナイスアドバイスでした。

いなみ駅でも加茂郷駅でも
地域の人に駐車場の有無を尋ねると、
こともなげに「駅前広場に停めといたらええよ」
とまるでJR関係者の人のように言ってくれました。

いくら寛容とはいえさすがにそれはアカンかなと思い、
無理やり普通の駐車場に車を停められるように
これまで計画をしたきたわけですが、
まあ、ここでも駐車に関しては寛容でした。

南国和歌山の暖かい気候が作り出す
大らかさというのでしょうかねえ。
ありがたいことです。

きっと熊野の御加護があるように祈っておいてあげましょう。

では、ナビをセットして歩行開始です。



今回は比較的短い約7キロのこんなコースです。



行き帰りの移動に時間がかかるので、
夕方までに帰宅しようとすると、
どうしても歩く距離が短くなってしまいます。

もう少し先に進めば、
宿泊ということも考えなくてはならない
かもしれません。

駅前の郵便局から南下してきますと、
すぐに左手に「南部高校」が見えてきます。
ここは「南高梅(なんこううめ)」の
「南」の文字に関係のある学校です。

1950年に、梅の最優良品種を決める選定会で
「高田貞楠」という人の「高田梅」が最優秀となったそうです。
その時に調査に尽力したのが
南部高校の竹中教諭
(選定委員長で後の南部川村教育長)
であったことから南部高校の「南」と
「高田梅」の「高」をとって
その最優良品種を「南高梅」と名付けたんだそうです。

今や和歌山を代表する梅のひとつです。

その南部高校がここ。



プロ野球選手を10人以上輩出している
野球の名門校でもあります。

このあたりの古道は結構道が細く、
軒下をかすめるように通っています。



ところどころに梅畑があるのは



さすがに全国の梅の生産の6割以上を出荷している
地域だけのことはありますねえ。

その先にあるのが「鹿島神社」です。



おお~神社の樹に「やどりぎ」がいっぱいついてます。



この神社はもともとみなべの沖に浮かぶ

「鹿島」

という島に鎮座していた神社を、
明治42年にこの地に移してきたものだそうです。

本殿も、元々旧三鍋王子社の社殿を移築したものらしく、



ということは熊野詣の際の王子社として
昔の人も拝礼していた建物なのです。

ところで、その南部の沖に浮かぶ
「鹿島」とはどんな島なんでしょう。

実は南部の沖にこの島があることで、
度重なる大津波のときも
南部の里は軽い被害で済んだそうです。
神社の由緒には約300年前の大津波の時に、
沖の鹿島に怪火が現れ
津波を鎮めたと書かれてあります。

4年前の東北大震災の後に
かの地を訪れ、歌にもある「松島」へ行ったときに、
お土産屋さんの人が、
「ここは沖に島があるから被害が少なかった」
と言ってたのを思い出しました。

ポツポツと点在する島でも
津波の防波堤になるのですから、
沖にある島というのはそういう意味では
ありがたい存在なわけですね。

ではその鹿島とはどんな島なんでしょう。

確認するため、少し海の方に向かってみました。

続く。


ぶらりオジチャリ2号2 安産祈願編

2015年04月13日 21時32分13秒 | 最近の出来事

泉州地方で、「大野の阿弥陀さん」というと、
和泉市は大野町にある阿弥陀寺のことを指します。



泉州地方の人の多くが
この寺に安産祈願または子授け祈願に訪れます。

この寺には、かの僧行基が
光明皇后の安産を祈願して彫った
阿弥陀如来が女人安産の守り仏として
祀られているからです。

この寺に自分の母、つまりスーちゃんも
この寺にdoironが生まれるときに
安産祈願に訪れたと
生前に言ってたのを覚えています。

ん?でもdoironが生まれる頃って
どうやって行ったのでしょう。
そこまでは聞いておりませんでした。

当時、自家用車など我が家にはなかったし、
第一両親ともは免許を持っていなかったので、
考えられる交通機関といえば
多分バスを乗り継いで行ったとしか考えられません。

だとしたら大きなおなかを抱えて
ガタゴトと山道を揺られていくのは
さぞや大変だったことでしょう。

そしてまたそのとき生まれた
doironも自分の息子が生まれるときに
この寺に詣でました。

つまりまあ、親子三代にわたって
お世話になっているというわけです。

おかげでdoironも息子も
いたって安産で生まれてきたそうです。

そんなありがたいこのお寺に先日、
もうすぐ子どもが生まれるという
友達の安産祈願にオジチャリ2号で行ってきました。



母はバスで、doironは車で、
そして今度は自転車です。

もう次は歩いていくしかありませんな。
息子が結婚して子供ができたら
そうして行きましょう。

その日は桜には少し早い季節でしたが、
天気はまずまずで
絶好のオジチャリ日和でした。

出来るだけ登りの坂道を避けるために外環経由。
でも坂道は避けられず
「ウリャー」と駆け上りました。

途中、いつもの不動さんにもお参りをして、
ほんのりつぼみの膨らんだ
百滝桜を眺めながら向かいます。

何とかたどり着いたお寺は
平日とあって閑散としていました。

途中にあった野菜の直売所は
大混雑してたけどね。

オジチャリを置いて階段を登って行く途中に



こんな由緒書きがありましたのでパチリ。



わお~、石も立っています。



本堂の前で線香をたてて、
煙をデコチンと左胸に摺りこみます。
理由はわかりますよね。
まあ、これは自分の祈願です。

本殿の横で御守りを探していると、
中からお寺の人が
「安産ですか子授け」ですか。
と聞いてきました。

「安産」ですと応えて
効きそうなのを選んでいただきました。

そのお寺の人はやっぱり
孫のために祈願に来てると思ったでしょうねえ。

ロングチャリパンにウインドブレーカー姿の
不審なおじいちゃんですが・・・。

送ってあげるお守りをビニール袋に大切にしまい、
帰りは概ね下りで「ウリャー」と叫ぶこともなく
ルンルンと帰宅したのでありました。


アンモナイトとたわむれた 2

2015年04月12日 22時32分39秒 | ウォーキング

ふたつ目のアンモナイト発掘現場に
選んだのは阪Q百貨店でした。

しかしなんですな、阪Q百貨店といいますと、
中にいてはるお客さんの層も
だいぶ違てるような気がせんでもおまへん。
みなハイソそうな人が多くて、
あべののK鉄とはなんとはなしに景色が違いまんな。

そんな阪Qの7階には特別室がおます。

あれ?言葉が変でんな。
もどしまひょ。

フロアの案内図をじっくり見て、
化石の見られるのは、高級な大理石だったりしますので、
高級そうな「特別室」に目をつけたのですが・・・
7回まで上って行きますと
フロアの片隅に
「貧乏人は近寄るなオーラ」を放っている
特別室の入口が見えました。

やはり「鉄爺」風のいでたちのdoironには近寄りがたく、
遠目に入り口付近を眺めただけで
すごすごと引き下がってきました。

阪Q百貨店の内装は
ざっと見たところ、おおむねが花崗岩が主流のようでした。
2012年に開業した新店舗は、
化石発掘の観点からは期待外れの場所でしたね。

そして次に向かったのが「ナビオ阪Q」です。

この日はあいにくの雨でした。
実は、最寄りの和泉F中駅まで車で行ったものですから、
傘を持ってくるのを忘れていました。

なので、地下道つながりで行けないか
大探検をしてみたのです。

しかし、歩いても歩いてもたどり着きません。



いやそれどころが同じところを
何度も通っているような気がします。

あれ?このパン屋さんはさっきも見たぞ、みたいなね。

これがいわゆる、「ホワイトアウト」ですか。

違います。

単に「ホワイティ梅田」あたりで
迷子になっているだけです。

結局、アフリカの蟻塚に見られるような
複雑怪奇な地下道を通って
目的地に行くことはきっぱりとあきらめ、
再度地上に舞い降りてみました。

そしたら雨が小降りになっているではありませんか。

これならいけるぞと、フードを目深にかぶり
「負けるもんか」と涙をこらえてつぶやきながら、
ナビオ阪Qに向かったのでありました。

最初に行ったフロアーは何と木の床張りでした。
これでは発掘は出来ません。

ファッション雑誌から抜け出てきたような
イカレタ、じゃなかったイカシタおねいさんたちの
視線を浴びているぞ、
とおもったらマネキンでした。

壁の状況を見るとボードのようなものが貼られています。

これもどうも目的の発掘現場ではなさそうです。

マネキンに「あばよ」と言いながら、
進んでいきますと、
階段部屋に目が止まりました。

赤っぽい石が貼られてあります。

見てみますと・・・いました



らせん状の渦巻体型が懐かしい~
まぎれもなくアンモナイトです。
3億5千万年ぶりです。

雨にも負けず、ホワイトアウトにも負けずに
やってきた甲斐があるってものです。

人のあまり通らない階段部屋なので、
人目も気にせず撮影ができます。

夢中で撮影しておりますと・・・

おお~、床にもアンモナイトがいっぱいいるではないですか。







足下に転がるアンモナイト、
壁から飛び出してきそうなアンモナイト。
まさしくここはアンモナイトの海でした。

巻貝のような形の口からヒゲをいっぱい出したのが
あちこち水中を漂っています。

海底にはウミユリや



古代サンゴが・・・う~ん、まるで
三葉虫になったような気分で、



しばしたわむれておりました。

しかしそれにしてもここでこんな光景を
目の当たりにしたからには、
もう大理石と思われる資材を使った建築物に行ったら、
ついつい壁をしげしげ眺め、
化石を見つけたら思わず

ひとり「壁ドン」

をしてしまいそうです。


とまあ以上が、
梅田へ画材を買いに行ったついでにおこなった
アンモナイトの発掘調査の報告です。

この日はその他にも大阪駅に残る、
かつての地盤沈下の痕跡も訪ねてみたのですが、

その話はまたいずれ。

今夜はきっと、
アンモナイトとたわむれる夢を見るでしょう。


アンモナイトとたわむれた 1

2015年04月11日 21時31分09秒 | ウォーキング

ドーナッツはおいしいけどなあ、
クリームだけじゃなあ。
やっぱり「餡もないと」

ということで、今日は
3億5千万年前の
「アンモナイト」に会う旅をしてみましょう。

アンモナイトは年代を示す示準化石として
重要な役割を担っています。



日本では北海道が世界的にも有名な産地になっていますが、
兵庫県淡路島南部や
萩往還レースでおなじみの
「美祢市」でも産出されます。

石灰岩の産地だからね。
そうです、化石は石灰岩の産地で
見られることが多いのです。

よく外壁や内壁に使われる
大理石や石灰岩ですが、その中には
化石が紛れ込んでいることがあります。

それがフズリナや単純な藻類だったりすると
ただの模様に見えたりするのですが、
アンモナイトは違います。

大きならせん状の渦巻を作り、
その中が小さな隔壁で区切られて
小部屋がたくさんあるような構造になっているから、
化石になって残っていたりすると
一目瞭然でそれとわかります。

で、その化石を淡路島まで見に行った
かというとそうではなくて、
都会のど真ん中の建物の壁に潜んでいるのを見に行ったのです。

行ったのは2箇所。

ひとつは大阪駅です。

大阪駅というと、
電車の発着本数が新宿駅に次いで
全国で2番目に多いという巨大駅です。

最近はルクアやグランフロントなどの商業施設とくっついて、
どこまでが駅なのか商業施設なのか
わからないような巨大迷路的施設になっています。

中央コンコースの床に施されてある
こんな迷路どころではありません。



さすがに混雑したコンコースで
これを歩くのははばかられます。
オツムの性能を疑われるでしょう。

そんな大阪駅の化石注目ポイントが、
中央コンコースの中央から北口寄りにある
茶色っぽい石で飾られた柱です。

わかりやすいと思います。

ところが、わかった、じゃあ見てみよう。
とそうは簡単にいきません。
そのあたりの柱には、
たいてい待ち合わせをしている人が
もたれかかっていたりするのです。
そのような人々を避けて発掘をしないといけません。
どうしても排除しないといけない場合も
ありますが、なかなかテクニックを要します。

例えばそこに立っている人が、
清楚な感じのあまり人擦れしていない
お嬢様風の女性だったりすると

「ごめんな、待たせたね

と言いながら近づいていきましょう。

さっと素早くどいてくれます。

化粧濃いめの派手派手系で
まつ毛ぱさぱさのおねいさんには、
すぐ横に壁ドンし、
「君の美しさに目が回りそうだよ、愛しのアンモナイトちゃん
と優しくいってやればいいのです。

きっと睨みつけて去っていくでしょう。

しかし、賢明なdoironはそんなことはしません。

人のいない壁につかつかと歩み寄って、
上から下までなめまわすように調べます。
そして発見したらおもむろにカメラを取出し、
脇を閉めてカメラマン風に撮影するのです。
この時コソコソするのは厳禁です。
堂々とやりましょう。
おれは「撮り鉄」ではなくて「撮り柱」なんだと
誇りを持って、今話題の「粛々と」取り組みましょう。

ただし「いいよ、いいよ、その巻き具合」
なんて言ったりはせず、あくまで無言です。

駅の場合、思わぬところを撮影している
鉄道ファン、いわゆる鉄男クンが散見されます。
鉄男クンといっても、
実は電車だけでなく、
非常に細部にこだわるマニアも
おられるようなので、駅構内で
壁に向かってシャッターを切ってても
意外に世間の目は寛容なように思います。

トライアスロンやウルトラマラソンをしていた昔は
よく「鉄人」といわれましたが、
ここでは「鉄男」ならぬ「鉄爺」と化すのでありました。

そうして撮った写真がこれ。



直径は10cm位でしょうか。

そしてこれは小さなもので直径3cm位。



あ、あんな高い所にも大きなやつが潜んで
駅を行き交う人々を見下ろしています。



そしてこれは化石化するときに
いろんな苦労をしたんでしょうねえ。



外形がギザギザです。

あっ、こんな子持ち?のアンモナイトも潜んでおりました。



リクルートファッションに身を包む人々が
多く行き交う4月初めの大阪駅の昼日なか、
ヒマなおっさんが柱から柱へと
キャピキャピ渡り歩いている姿を
客観的に想像してみると、
ある意味なかなか怖いものがあります。

精神が崩壊しないように気をつけましょう。

と、まあ自分の心が折れないように気をつけつつ、
次の場所にアンモナイトの発掘に向かうdoironなのでした。

続く