DonkeyMの部屋

Donkeyはロバ。格好良くなく、足も遅い。「のろま」とか「馬鹿」といった意味。日々の感動、怒り、愚痴等を記事にしたい。

TOTO補高便座を注文したよ!

2017-11-17 23:09:12 | 雑感

 便器への着座や立ち上がりを楽にするために、発砲スチロールを加工して、便座を高くしていたのだが、作り方が甘く、ウォシュレットの水が撥ねてしまい、それが外に漏れて床を濡らしてしまうという不具合があること、ウォシュレットの便座に、妻が嵌ってしまい、上手にウォシュレットを使うためには、着座位置の調整が大変だったことなどの不都合があったので、補高便座を検索していたところ、TOTOから既製品で補高便座が販売されていることが分ったので、注文することにした。宣伝文句によれば、座面が3センチアップできること、座面がソフトで座りやすく、かつ、穴が少し小さくなっているので、お尻の小さい人に向いているとのこと。もし、これが使えれば、床が濡れることもなくなり、かつ、座る位置を調整することも簡単になることだろう。

 トイレの問題は非常に深刻で、毎日、夫婦喧嘩が耐えないところなので、これがうまく行くと、我が家は相当ハッピーになると期待している。使用結果については、また、記事にします。

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トイレに嵌ってしまう妻?

2017-11-15 10:51:05 | 雑感

 妻は、63歳、体重35キロ。今は、筋肉も落ちてしまい、贅肉も減ってしまったので、かなり小さくなっているが、この年齢の女性の平均からすると、やや小柄な方だが、取りたてて小さいというほどではないと思う。体力が減って姿勢維持が難しくなってきたためか、しばしばトイレにお尻が嵌ってしまい、用便するときに不都合が生じている。

 ウォシュレットの便座の大きさが合わないためだろうが、このような事例は他にもたくさんあるのではないだろうか?まあ、元気で体力のあるうちは、多少、合わなくても、適当に調整して済ませているのではないだろうか?まあ、子どもなどは完全に合っていないわけで、それでもそういうもんだと思っているのだろうか?ちょっと調べてみると、便座は二種類あるようだ。少し丸みが帯びているものと、少し細長いもの。ただ、大きな差異はないようだ。お尻が大きい人、小さい人、太っている人、痩せている人、それぞれなので、細かく対応していくのは難しいと思うが、せめて普通サイズと少し小さめのサイズくらいは作って欲しいと思う。

 小学校のトイレも、洋式化が進んでいるようで、いずれウォシュレットが整備されるということにもなろう。そうした場合、小学生の体格に合わせて、便座の小さいものを取り付けるようにしたら、どれだけ楽になることか?また、高速道路のパーキングなど、男子用、女子用と別れており、女子用には小さめサイズを用意するというのも、心遣いとしては大事ではないのかと思う。

 TOTOのホームページを見ると、福祉用品の中に、座面を高くする品物が掲載されており、そこには「ソフトな素材で、小さい人でお尻が落ちてしまう人にも対応できる。」といった内容が書かれている。これを試してみようかと思うのだが、我が家のウォシュレットはかなり古く、位置調整の機能が付いていないので、うまく使えるかものなのか、気になっているところだ。いずれにしても、毎日なので、早めに解決して置きたいと思っている。

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野菜の急騰で、我が家の食卓はピンチに!

2017-11-12 21:54:45 | 雑感

 ここのところ野菜の急騰が目立っている。ほうれん草が一束280円とか、ナスが390円とか、べらぼうな値上がりだ。お陰で、食材の買出しに行っても、なかなか食材が確保できない。まあ、金を払えばあるにはあるのだが、買うのを躊躇していると、あれもこれもと諦めるのが続いて、メニューもなかなか決まらずに、時間ばかりが過ぎていく。これじゃ、夕飯に間に合わないと、肉を買って変えると、もっと野菜物が食べたいと妻がクレームを付ける。まあ、買って変えないような金額ではないのだが、家計を預かる主夫としては少しでも安く済ませようと考えるため、頭が痛い。

 我が家の出費の大半は食材と光熱水料で、特に居間は位置年中のほとんどエアコンが動いているし、先月、オイルヒーターを購入して、夜中に、寝室を23℃に設定して、温かくし、かつ、加湿器も動かすことにしたので、更に出費が増えている。まあ、私のタバコ代が馬鹿にならない、やめれば良いのだろうが、そこまで切り詰めても人生楽しくなくなるので、それはしたくない。他の出費はあまりない。車を手放したので、毎月2万円の駐車料金が浮いているので、最近は黒字に転じつつあるものの、気を緩めてしまうと、また、赤字に転落する羽目になるので、ここは我慢のしどころだと思う。暮れから正月に掛けて、物の値段が上がる時期でもあるので、少し気分が憂鬱になってきた。

 そんな私の憂鬱を、全く意に介さず、「この肉硬いよ!」とのたまう。「肉と言うものは硬いものだろうが!!」と内心叫んでいる私がいる。

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座間9遺体発見事件に関連して(2)

2017-11-11 13:56:13 | 雑感

 前回の同タイトル記事の続編です。今回は、将来に希望を持てず、彷徨い、自殺願望を抱く若者と教育について書きます。

 教育の無償化について、今、政府が取り組んでいるようだが、無償化を云々する前に、きちんと教育できる教員の養成や教育環境を整える方がずっと大切なのではないでしょうか?

 極く一部の優秀な生徒を除いて、ほとんどの生徒は優秀な生徒と比較され、やれ「努力が足りない」とか、「もっと勉強しろ」と尻を叩かれ、挙句の果てに、「何て馬鹿なんだ」、「そんな生徒は邪魔だ」とか公然と蔑まれ、地獄のような日々を送っているのが現状だ。それでいて、表向きだけ相対評価ではなく、絶対評価だ、個人の能力や志向に応じて教育していると教育関係者は言う。小学校の教科をきちんと理解できているのは恐らく生徒の半数に満たないだろうし、中学校ではせいぜい三分の一程度、高校に至っては、一割いるかいないかだろう。残りの生徒は、分ろうとして必至に頑張っているか、その努力も諦め、漫然と学校に通っているだけなのだ。そんな状態で、将来に希望を持てと言ってもそれは空論に過ぎないように思う。義務教育の9年間、そして、高校の3年間、人によっては大学の4年間の人生の基礎を築く大事な時期を「失敗体験」の連続で終わらせているのが現状なのではないだろうか?

 確かに、その9年間、12年間全てが辛い体験だったというつもりはないが、大筋では周囲から認められることがない生活を送ってきて、やっと社会に出て自由になれるかと思いきや、非正規労働者として、将来に見通しが持てない立場に追いやられ、人生に絶望するなと言うこと自体に無理があるのではないかと思う。

 まあ、義務教育の9年間、同じ内容を教えるということはしょうがないことなのだろうが、児童生徒の能力に応じ、分かりやすい教え方、身に付く教え方というものがあるだろう。優秀な成績を収めている生徒は、努力をしているから優秀なのではなく、さして努力をしていなくても、分ってしまうから優秀なのだということをもっと教育関係者は認識するべきだろう。高校に至っては、理解できるはずもないことを教えるのではなく、もっと現実に即して、日常生活や仕事をしていく上で必要な知識や技能を教えるべきだと思う。そうすれが、もっと自分を前向きに、肯定的に捉えることができる生徒が増えて、人生の始まりにおいて自殺願望を持つような生徒はずっと減ってくるだろう。

 日本の教育は、戦後、教育は一本化され、誰しもが大学を進学するという方向を転換した。それ以前は、複線教育で、尋常高等小学校から旧制中学から旧制高校、大学へと進むコースと、尋常高等小学校高等科へ進み、そこから各種の専門学校へ進むというコースがあったように思う。人の潜在能力の差は非常に大きく、これを一本の路線に従って教育を進めていくには相当無理があり、どうしても「落ちこぼれ組」を生んでしまい、結果的に若者を蝕んでしまうのだと思う。そろそろ能力に見合った教育内容の充実を図っていくように教育制度を見直す時期が来ているのではないかと思うのだが、いかがなものだろうか?

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座間9遺体発見事件に関連して

2017-11-10 10:00:42 | 雑感

 座間で9遺体が発見された事件。連日、新聞を賑わしている。被害者がようやく特定された。若い男女、自殺サイトで加害者と接触したようで、いずれも会って間もなく殺され、遺体が解体され、肉や内臓は燃えるゴミとして捨てられ、骨だけがクーラーボックスに入れられ、部屋に置かれていたという。何とも凄惨な事件だ。

 人誰しも、長い人生の中、一度や二度、死んでしまいたいと思うことはあるだろう。特に、思春期のころなどはもともと様々なことに過敏になりやすい時期であるし、子どものころと違った対人関係を構築していく必要も出てきて、孤立感や疎外感に悩みやすく、かつ、将来への方向性を見出せないことへの焦り等、悩むことが多い。そんな心の隙間に入り込み、誘い出して、次から次へと殺人、遺体解体を続けていたというのだから、前代未聞の事件であり、かつ、どの動機も不可解だ。加害者の心は病んでいた、確かに病んでいたには違いないだろうが、そう言ったところで、何も分ったことにはならない。

 この事件、鍵となるのはやはりSNS(ソーシャルネットワークサービス)だろう。SNSでは、通常ならば出会わないであろう人たちが出会い、様々なドラマを生み出す。面前での話では決して口には出さない内容も、SNSでは相手が見えないし、相手からも見られていないという安心感から、気軽に言葉として出てしまう。そして、相手が見えないから、相手のいう事を何の警戒心も持たずに、信じ込んでしまう。そして、自分の中に、相手像を描き出して、それがあたかも実際であるかのように信じ込んでしまう。今回の被害者について、事件に合う数日前には見違えるように明るくなっていたと証言している友達の言葉が新聞に載っていた。死にたいという自分の気持ちが共感してもらえたと勝手に思い込んで、加害者に好意を持ったためではないだろうか?その数日後には加害者によって殺されてしまうのだから、全く、皮肉なもんだ。

 無名社会、隣に誰が住んでいるか分らないし、何をしている人かも分らない。私の田舎では、昔、どこどこの嫁さんはどこから来た人で、親は何をしている人で、その親はどこどこの出身だなど、全てが知られていたし、自分のことも同様に周りに知られていた。そんな社会では、下手なことはできない。まさに、何かへまをすると、それが即、家の恥になるし、周りの人に長い間記憶され、語り草になってしまう。そういった窮屈感がそこにはあった。そういった窮屈感から、都会へあこがれ、東京に出てきた人も多いのではないだろうか?

 一方、都会は都会で、隣の人のことは分らない。全く、孤独感に苛まれることになる。どちらを選ぶかは個人の自由だが、都会には田舎と違って、セキュリティーが働いていないということをしっかりと認識しておくことが大事だと思う。SNSの世界はまさに、この「都会」と同じで、セキュリティーが働かないということを分っておく必要がある。会って話しをするのであれば、経験的に相手が確かな人なのか、危ない人なのか、ある程度分かるものだ。しかし、相手が見えないSNSではその経験的な能力も働きにくく、自分自身で、勝手にイメージを作り上げ、いざ会うときには、そのイメージ(先入観)というフィルターを通してしか相手を見れなくなっている。アバタも笑窪状態になっているのだ。もし、ネットで知り合って会うことになったときにはこのことを肝に銘じておいて欲しいもんだ。

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