人生を壮大な実験と捉えると「失敗」と言う言葉はないはず・長い目で見れば人生には無駄がない
「科学の前では皆平等」との信念をもった藤竹は、権威的なアカデミー体質をもった石神教授に反発し、名京大を去り、アメリカに渡ったが、そこでは誰もが対等な立場で研究に没頭する日本では考えられない光景だった。日本に戻り、藤竹の指導の下、定時制高校の科学部で学会発表を行うため実験に取り組み始めて部員たち。順調な滑り出しを見せていたが、部長の岳人の昔の悪仲間・孔太が実験装置を破壊、それが原因で岳人部長と他の部員との衝突を招き、科学部は崩壊してしまったのである。「どんな境遇の者にも科学の興味を持たせる」という藤竹の考え、この科学部の試みが「失敗に終わった」のかという判断を藤竹は抱くのだが・・・。かっての恩師の伊之瀬を尋ね、科学や教師の世界から身を引くという。伊之瀬は、それでいいのかと尋ね「実験は想定外の結果(失敗!?)が出てからが本番だよ」といった。
本田技研の創始者・本田総一郎は「長い目で見れば人生には無駄がない」という。「私の現在が成功というなら、それは過去の失敗が全部土台作りをしていたのである。仕事は押しなべて失敗の連続である。99%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%が現在の私である」。
スピチュアルな世界から言えば、この世に生まれたら「何にも思い通りにならない現実」に直面します。あの世では、なに不自由ない空間で、こうなったらこうなるという観念的な教育を受けられます。しかし、現実に、ここでの観念的な教育をこの実践し体験できるのは、この世だけなのです。そして「思いどうりにならないこと」という現実(失敗)の中で、いかに正しく苦悩し生きて、たまに出会える「願いがかなう(成功)という喜び」を味わい、それに「感謝する」という大切さを、日々の生活の中で学んでいるのでしょう。だから、あの世で学んで、この世に降り立ち、思いどうりのできないという状況を体験し、この物質世界で人間として生きる・人生を味わうため、自分の意思でこの世に生まれることを選択したのです。そして、あの世で自分自身で用意した「人生という名の問題集」を解いて、自分の魂の向上を図っているのが、今の私たちなのです。(参考 飯田史彦著 完全版生きがいの創造 P790~791)
ディスレクシアのため漢字の読み書きが困難だったが科学への興味がそれに打ち勝った岳人、家庭の事情で夫婦ともども進学できなかった町工場の社長の長嶺だが手に技術を持つ身、フィリピンの母を持ち良いことばかりでなかったが、常に持前の前向きの性格のアンジェラ、起立性調節障害ながら一人SFの世界で生きてきた創造性豊かな佳純。みんなそれぞれ思いどおりならない、困難な状況の中で生きてきて、やっと科学部で共同し科学の面白さを知った面々である。
9話の最後では、再び始動した科学部のみんなが一斉に実験結果をのぞき込むシーン。
人生を壮大な実験と捉えると「失敗」と言う言葉はないはず。またこの世で良い結果が出なくても、次の人生だってありうる。予想外の結果が出たとしても恩師伊之瀬がいうように、それからが本番なのだ。予想外の結果だったとしても、それは、いつか次の役にたつのだ。
追伸 最近コスパとかタイパというのが主流になっているようですが、確かに目標に対する手段としては必要でしょう。ただ、人生という目的を考えたときは、無駄という時間は全くないということなんです。また、思いどうりになる人生というのは、ほとんどないというのが本当の所でしょう。
*** 私、後期高齢者になって思うところは、例えば学生時代のテストの点数が悪かったとき、隣のやつが素行が悪くて気になったのでとか、前日・家の状況がテスト勉強が出来る状況ではなかったとか 阻害する原因を挙げていたように思います。しかし、今思えば、人生とは、思いどうりのことができないのが人生であって、そこからの脱却が出来なかった自分に腹が立ちます。今 やっと思いきることが出来るようになったのですが・・・本当に、本当にできたの??? ***