学校は、あきらめたものを取り戻す場所(=「知的好奇心」を呼び起こす)・計画と目的・目標とは
学会発表する研究テーマを「火星クレーターの再現」にした科学部メンバー。再現実験は校内で最も天井の高いコンピューター準備室が適当と思われたが、全日制コンピューター部長・要はこの部屋を使うのを承諾しない。岳人のコンピュータ部長・要への接触により、どうにかこの実験の理由等を説明・承諾してもらうことに成功した。要は、顧問の藤竹(窪田正孝)に、一つ聞いてもいいですかと尋ねる。「この実験は何の役に立つのでしょうか」と。藤竹は「分からない」と答えて続けた。「でもいつかは何かの役に立つかもしれない。今は彼らはそういうことは気にも留めていないでしょう。」
学校で学ぶとは、純粋にいうとこういうことかも知れない。なんの役に立つかは今は関係ないのだ。一言でいえば、それは「知的好奇心」である。もちろん学校での学びには人間的成長というのもあるが、学校で学ぶ勉強というのは、知的好奇心を刺激して、それを満たすことにあり、それが根本的にあるのではなかろうか。それが、あいつより成績が上とか、さらには中学・高校や大学の受験勉強のためとか、別の目的が介在してくるのだ。社会に出るとさらに複雑な動機が存在して来る。相手企業に勝つためには、より高い技術を獲得する必要から、いつまでにこういった技術が必要ということで、一定の計画の下に技術開発することになる。開発がうまくいかなかった、そのもっともたるものは、自動車の排ガス規制ではなかろうか。外からの必要性で、いつまでにこういう程度の排ガス規制をしなければということで、無理をしてしまっ結果、データの不正が起きてしまったのではなかろうか。ここでは、経営者が現場の意見を聴きながら、目標や技術過程を決めていかなければなかったのではないか。ここで、必要な投資や必要な人材等を投入しなければならなかったのではないかと思う。
学校で学ぶ研究や特に基礎研究には、藤竹の言うように、純粋に何の役に立つかは関係ないところがあろう。ただし、例えば親がある病気で死亡したので、その研究をしたいというのもあるだろう(目的)が、外からいつまでにこういうことをしないといけないというような外から与えられる制限的な目標(時には計画性も必要なのかもしれないがその調整が必要)ではないだろう。あまりにも厳格な目標値を決めるのは、実験が失敗と思われるようなものでも、失敗かもと思われる中に優良なデータを見過ごしてしまうこともある。社会的に必要な現実の技術のように、会社内での開発においては、目的・目標等の計画性はしかたがないのかもしれないが、現場の声との調整を図らないとせっかくの知的好奇心をなくしてしまうことになりかねないのだ。会社での開発は、うまくこの知的好奇心を制限しないようなところで、目標も決めていかなければならないので難しいのだが・・・・。
藤竹先生の科学部の指導には、メンバーの一人ひとりに適切な指導をしていく。ある者には理論的支柱になるように、記述に長けた者には記録係に、またある者には実験素材の加工など、その人に合わせた非常に的確な指導を、この知的好奇心を刺激しながら、指導をしていく。あれていた岳人の科学部への誘いをしたときの藤竹のことばには、興味深いものがある。
「ここ学校は、あきらめたものを取り戻す場所ですよ」、藤竹の一人ひとりの指導には、この知的好奇心を刺激する何かがあるのだ。そして、次のようにつぶやいた。「なければ、自分で作ればいい」と。
この学園ものが従来の学園ものと違って引き付けるのは、藤竹先生がこの知的好奇心を科学部部員に何らかの形で刺激する過程で、我々見ている者にも、すでに忘れていた好奇心(私は還暦を過ぎているがまだまだ)をまた思い出させ、ワクワクさせるからではないだろうか。
<追伸> 7話で石神教授が相澤主任に「火星探査でより高度なサンプル回収装置にどの形状を採用するか、5か月で結論を出すこと」という厳命をくだした。これは先述の厳格な目標値である。計画性のためには、目標は必要なことではあるのだが・・・時には「知的好奇心」に水をさすことになりかねないので、うまく突き合わせることが必要である。なお、目的というのは、より抽象的で「火星探査をする」というのであろう。すなわち「目的」というのは、抽象的なものであってそれをどうしたいかであって、これと区別したい「目標」というのは、いつまでにどれだけのものをするかという具体的な到達点であって、時には「目標値」で示されるものである。