元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

NHKドラマ10『宙わたる教室』6・7話「この実験はいつか何か役立つかも」=知的好奇心を刺激

2024-11-17 18:30:30 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 学校は、あきらめたものを取り戻す場所(=「知的好奇心」を呼び起こす)・計画と目的・目標とは

 学会発表する研究テーマを「火星クレーターの再現」にした科学部メンバー。再現実験は校内で最も天井の高いコンピューター準備室が適当と思われたが、全日制コンピューター部長・要はこの部屋を使うのを承諾しない。岳人のコンピュータ部長・要への接触により、どうにかこの実験の理由等を説明・承諾してもらうことに成功した。要は、顧問の藤竹(窪田正孝)に、一つ聞いてもいいですかと尋ねる。「この実験は何の役に立つのでしょうか」と。藤竹は「分からない」と答えて続けた。「でもいつかは何かの役に立つかもしれない。今は彼らはそういうことは気にも留めていないでしょう。」

 学校で学ぶとは、純粋にいうとこういうことかも知れない。なんの役に立つかは今は関係ないのだ。一言でいえば、それは「知的好奇心」である。もちろん学校での学びには人間的成長というのもあるが、学校で学ぶ勉強というのは、知的好奇心を刺激して、それを満たすことにあり、それが根本的にあるのではなかろうか。それが、あいつより成績が上とか、さらには中学・高校や大学の受験勉強のためとか、別の目的が介在してくるのだ。社会に出るとさらに複雑な動機が存在して来る。相手企業に勝つためには、より高い技術を獲得する必要から、いつまでにこういった技術が必要ということで、一定の計画の下に技術開発することになる。開発がうまくいかなかった、そのもっともたるものは、自動車の排ガス規制ではなかろうか。外からの必要性で、いつまでにこういう程度の排ガス規制をしなければということで、無理をしてしまっ結果、データの不正が起きてしまったのではなかろうか。ここでは、経営者が現場の意見を聴きながら、目標や技術過程を決めていかなければなかったのではないか。ここで、必要な投資や必要な人材等を投入しなければならなかったのではないかと思う。

 学校で学ぶ研究や特に基礎研究には、藤竹の言うように、純粋に何の役に立つかは関係ないところがあろう。ただし、例えば親がある病気で死亡したので、その研究をしたいというのもあるだろう(目的)が、外からいつまでにこういうことをしないといけないというような外から与えられる制限的な目標(時には計画性も必要なのかもしれないがその調整が必要)ではないだろう。あまりにも厳格な目標値を決めるのは、実験が失敗と思われるようなものでも、失敗かもと思われる中に優良なデータを見過ごしてしまうこともある。社会的に必要な現実の技術のように、会社内での開発においては、目的・目標等の計画性はしかたがないのかもしれないが、現場の声との調整を図らないとせっかくの知的好奇心をなくしてしまうことになりかねないのだ。会社での開発は、うまくこの知的好奇心を制限しないようなところで、目標も決めていかなければならないので難しいのだが・・・・。

 藤竹先生の科学部の指導には、メンバーの一人ひとりに適切な指導をしていく。ある者には理論的支柱になるように、記述に長けた者には記録係に、またある者には実験素材の加工など、その人に合わせた非常に的確な指導を、この知的好奇心を刺激しながら、指導をしていく。あれていた岳人の科学部への誘いをしたときの藤竹のことばには、興味深いものがある。

 「ここ学校は、あきらめたものを取り戻す場所ですよ」、藤竹の一人ひとりの指導には、この知的好奇心を刺激する何かがあるのだ。そして、次のようにつぶやいた。「なければ、自分で作ればいい」と。

 この学園ものが従来の学園ものと違って引き付けるのは、藤竹先生がこの知的好奇心を科学部部員に何らかの形で刺激する過程で、我々見ている者にも、すでに忘れていた好奇心(私は還暦を過ぎているがまだまだ)をまた思い出させ、ワクワクさせるからではないだろうか。

  <追伸> 7話で石神教授が相澤主任に「火星探査でより高度なサンプル回収装置にどの形状を採用するか、5か月で結論を出すこと」という厳命をくだした。これは先述の厳格な目標値である。計画性のためには、目標は必要なことではあるのだが・・・時には「知的好奇心」に水をさすことになりかねないので、うまく突き合わせることが必要である。なお、目的というのは、より抽象的で「火星探査をする」というのであろう。すなわち「目的」というのは、抽象的なものであってそれをどうしたいかであって、これと区別したい「目標」というのは、いつまでにどれだけのものをするかという具体的な到達点であって、時には「目標値」で示されるものである。

 

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NHKドラマ10『宙わたる教室』4話・人生の課題はその人に対応した問題が易しい順に出される!!

2024-11-03 18:19:29 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

  この世の問題を解いて人は成長していく!!

 ある定時制高校の理科教師である藤竹(窪田正孝)は、部活の科学部を作ろうと参加を呼び掛けていく。一番手になったのは、いわゆる不良の柳田岳人。ディスレクシアのため(文章の読み書きに困難な学習障害の一種)に文字の理解が不十分だったが、藤竹の指導により立ち直りを見せていく。家庭の事情や学校のでの誤解が原因で、授業についていくことを一反諦めかけた、フィリピン人の母と日本人の父を持つ越川アンジェラ。起立性調節障害を抱え、保健室登校を続ける名取佳純(伊東蒼)。そして、第4話では、長嶺省造(イッセー尾形)が登場。長は70代・現在は町工場の社長であるが、夫婦ともども金の卵と言われた集団就職で上京し勉強したくても勉強できない身の上。それでもがんばって成功した、そんな時代の寵児だったのである。年齢もバックグラウンドもバラバラな者どうしが同じ学校の勉強をしているのであるが、それぞれに問題(勉強をするための困難さ・支障の程度)を抱え、その問題もそれぞれに異なり(自身が抱える障害、家庭内の問題、断ち切れない人間関係など)、支障・困難さの大小もひとことではいえないものであった。 

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NHKドラマ10『宙わたる教室』地方に優れた教師を望む!石破首相の地方創生のカギは教育だ!!

2024-10-14 10:02:17 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 藤竹叶のような生徒にやる気を起こさせる(生徒の眠る探究心を呼び起こす)先生を!!

 藤竹叶は惑星科学の研究者で大学の助教授にまでなっていたが突然渡米し、帰国してしばらくしてから、やりたい実験があってと拠点に選んだのは、なぜか新宿の繁華街にある定時制高校。そこに理科教師として赴任した藤竹が、年齢も国籍も異なる生徒たちの中で最初に接点を持ったのが廃棄物回収会社で働きながら学校に通う柳田だった。柳田は知能は良かったがディスレクシアのため(文章の読み書きに困難な学習障害の一種)漢字がうまく読めなかったが、その自覚が彼自身全くなかったのである。そのため、彼が藤竹と出会った頃は、自暴自棄になっていたのである。そのことを藤竹が彼に指摘するとやっと原因が分かった柳田。そして、勉強の仕方は今ではそれなりにあると藤竹は促す。しかし、今までの努力はなんだったのかと悔しがる柳田。ある日、藤竹は英語の教師からWHYの授業で柳田は「なぜ青空は青いのか」と問うたと聞いた。先生らしからむ先生である藤竹であるが、心奥深くに眠る小さな探究心に気づき、知りたい答えを導き出すという点では優れていたのだ。藤竹はプリズムを透して別れた青色の部分のみが見える「青空」を実験的に教室に作り出した。そして、藤竹は柳田に科学クラブを作るからその一号の部員にならないかと誘うのである。 

 多分、私たちが学んだ教科から言えば、主人公藤竹の教えていた教科としては、「地学」だったのだろう。私は地方の高校出身であるが、地学の専門の先生はいなかったので、物理や生物の先生が教えていたようだ。だから、本格的な、本当のというか?「地学」の授業としては習わなかった気がするのである。当時の地学の教科書が手元にあるので、それを紹介すると地球の内部から地殻変動、そして気象。さらには、宇宙に目を向けて太陽や惑星、恒星の動きやこれらの宇宙空間について説明している。

 今から考えると、自分としては、これは身近な題材をとらえたワクワクするような教科であったであろうが、なぜか当時心がときめいたことはないのである。確かにこれらの説明を科学的に説明するのは、物理的、化学的な知識や生物学的な知識を必要として、さらにはその基礎的な部分として、数学的な素養が必要と考える。しかし、私は今はバリバリの文科系の大学に通ったのであるのだが、当時は理科系の大学に通うか迷ったほどの者であると自負している。だから、やはりこれはひとえに先生の教え方がうまくなかったのではないか。こういうと先生を批判しているように思えるのだが、むしろ、当時の地方の高校に地学の教師(しかも付け加えるなら藤竹先生のような優秀な)がいなかったのが原因であると考えている。その頃、地方の高校、ありていにいえば田舎の高校には、良き教師というか、それ以前に専門の教師を派遣していなかったからではないかと思う。

 また、中学時代、歴史の授業では、黒板に教科書にある「固有名詞」や「地名」などの羅列を行い、それを書き取りするのが歴史の授業だったような気がする。歴史上の人がこうしたからこうなったとか重要な出来度の詳細な説明は一切なかったのである。教師になりたての先生だったので仕方はないのかもしれないが、歴史の事実の原因・結果や歴史に興味を持つようなエピソードの話をしていただけたら、もっと歴史に興味をもって聞けたのかもしれない。

 今は公立学校においては、教師を地方と都会で回す異動を行っているため、そうではないのかもしれない。(当時も配置基準に基づき適正に配置していたといわれるかもしれないが、当時、地方で勉強していたものにとっては、そうではないと肌で感じていたものである。ひがみかもしれないが・・・) しかし、現在においても、塾や家庭教師、また私立学校など都会と地域との教育の格差は歴然としている。

 石破首相が地方創生を公約に掲げた。地方創生は教育が充実してこそのものである。地方で育った人材が都会に出ていくのを防ぐのは、その基礎的な部分である教育であるような気がしてならない。そのためには、熟練しかも優秀な教師の地方への配置を望むものである。「藤竹先生」のような生徒に興味を持たせるような課題を示してくれる先生を是非派遣してもらいたい。地方の方が「青空」は青く見えるし、星空は宝石をちりばめたような夜空が見える。興味を持つ題材としては、日常で都会以上に、大自然があるのである。興味を持たせる授業をすれば、地方でも生徒は伸びる。そこで育った者こそが地方の良さが本当によく分かるはずである。現状では「人材」が都会に吸い寄せられている。教育の格差がなくならない限り、地方と都会とのあらゆる格差の根本的な解消にはならないと思う。

 

 

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朝ドラ・寅に翼=こだわり「夫婦同姓(選択的夫婦別姓)」「あんこの味」⇒この世で生じた感情は神の記録帳に記録

2024-09-18 14:39:49 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

記録された同様の感情はその集合意識が働く

 航一との結婚に際し、なじんできた「佐田」姓を変えることに悩む寅子。結婚後も仕事上では「佐田」を使いたいと桂場に申し出る。しかし当時は絶対的に認められないのだ、桂場は、即脚下。さらに、「なぜそんなにくだらんことにこだわるんだ」と言う桂場に、寅子は「桂場さんにもこだわられるものがありますよね。司法の独立、裁判官の資質、あんこの味。どうしてもこだわりたいことが人にはそれぞれあるんです」と反論。桂場はすぐに「失言だった」とし、「要望は認められんが、今のは君の言うとおりだ」と謝罪した。(あんこの味と夫婦同姓を同一に扱う寅子。このやり取りには、おもしろい。)

 一言で「こだわり」といっても、私の個人的な見解かもしれないが、「こだわり」が歴史を動かしてきたといえると思うのである。一万円札の肖像画に採用された渋沢栄一にしても、彼の「私」ではなく「公益性」というのを常にこだわってきたのであり、フランスの信用の資本主義をモデルに日本独特の公益を重視した資本主義を発展させたともいえる。5千円札、千円札のモデルだけでなく他の歴史上の人物にしてもしかりであり、何らかのこだわりをもって歴史を生きてきたのではないか。

 あんこのこだわりというのは、竹もとの身代を梅子に引き継がせる際の「同じあんこの味が出せるか」という合否の問題であるが、その判定員として裁判所長官にもなった桂場等一郎の合格を得るまでに、梅子がいかに努力を重ねるかということである。そのため、いずれにしても店を引き継ぐのは目に見えている。そう時間はかからないのであり、番組後半ではすし屋を引き継いだ道夫と同じ店を開くという設定になっている。

 しかし、夫婦同姓(夫婦はどちらかの姓をなのる)でなければならないということについては、寅子にとって新しい苗字を名乗るかという選択を迫ることでもあり、寅子は前の自分の人生の生きた証がなくなってしまうと感じる。特に寅子のように裁判官をしていると(その時代は)判決文は新しい苗字で書かなければならず、大問題のように映ったに違いない。このように、寅子夫婦にとって、夫婦のいずれかの姓を名乗るということにいたっては、この寅子の時代だけでは解決できない法改正を伴う問題でもあったのだ。そして、今現在の非常にホットな問題でもある。(⇒夫婦別姓) 実務的には、世論の後押しがあり、国会で議論の上決議を得て法律(案) が承認されて、初めて認められる問題でもあったのである。

 これを魂の次元で考えてみよう。人々の行動、言葉、そしてその時どんな感情をもったかは、神の下にある記録帳に記録されるという。どんな感情も記録されるというのが重要で、その時のプラスの感情だけでなくマイナスの感情も記録されるのである。こだわりの感情は、特に強い感情であるので、特に強調され、例えばゴチック体ような形で記録されるのではないか。そして、あの世に行ったときに、すべてがその人の前で再生され、後悔・反省、いきる勇気が与えられるのです。夫婦の同姓について、実に「悔しい」という寅子の感情が生じたのも、この再生の途中で感じ取られるはずです。

 夫婦同姓の問題は、寅子だけではなく他の人にも、この世で同じ感情をもったものがあるとすると、その感情も記録され、たくさんの同様の感情が記録されることになります。神自体はこの世での行動・言葉や感情に対して、決して良い・悪いの判断・ましては罰は加えないとされていますが(神との対話)、これらの同様の感情の記録がたくさんになると、その集合した意識が働くことになり、この集合意識がなんらかの働きを起こすことになると思われます。それもある場合には、進行方向の後ろにバックすることもありますが、人々の「この世の動き」では、魂が生まれ変りこの世に生を受けた者が、また試行錯誤の上で、必ず前に進んでいくと思われます。その意味では、この世とあの世は、つながっており、いい方向に動いていくことは間違いありません。夫婦同姓の問題も、いずれは別姓も認められることになるはずです。

 前にも申し上げましたが、この世の課題は、この世に生まれ出る前に、自分で自分の人生設計をして、しかもその試練が自分に分からないようにして(忘却)、うまくその人生を解いていくことであるとのことです。このときに、ある人は、神の使命のようなものを与えられてくるものもあるようです。夫婦の同姓・選択的別姓・さらには(完全)別姓の問題も、それを解決してくれる、そんな人物があらわれるかもしれませんね。 

 

 <参考>神との対話(Nウォルシュ著) 生きがいの創造(飯田史彦)

 これらの著書は参考であり、アレンジ等を行ったあくまでも自分の世界観です。

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ヨーロッパの国々の国民性=ステレオタイプの見方ではあるが歴史・気候・文化等により考えられること

2024-08-17 16:37:16 | 経済・歴史

 ヨーロッパの土産品の絵葉書に書かれた「完璧な欧州人とは」

 今でこそ外国人を町でよく見かけるようになったとはいえ、私のように田舎育ちでの人間にとって、外国人とあまり話したこともない人間にとっては、ヨーロッパの人々について、ドイツ人もイギリス人もフランス人も全く分からないというのが実情だ。池上彰さんが「世界情勢のきほん」(歴史で読み解く!p193)の中で、それぞれの国民性について、ヨーロッパの土産品として「完璧な欧州人とは・・・」と書かれた絵葉書を紹介しています。

〇 イギリス人のように料理上手で           〇 フランス人のように運転マナーがよく                  〇 べルギー人のようにいつでも対応可能で       〇 フィンランド人のようにおしゃべりで            〇 ドイツ人のようにユーモアがあって         〇 ポルトガル人のように技術が得意で            〇 スウェーデン人のように柔軟性があって       〇 ルクセンブルグ人のように有名で                 〇 オーストラリア人のように我慢強くて        〇 イタリア人のように落ち着いていて               〇 アイルランド人のようにしらふで          〇 スペイン人のように謙虚で                 〇 オランダ人のように気前が良くて          〇 ギリシャ人のように片付け上手で              〇 デンマーク人のように慎重で

 絵葉書で売られているということは、一般に知られているようにその国民こくみんにはそういった「国民性」が見られるということだろう。ただ、そういったステレオタイプの見方をする時には、特定の、その一人ひとりの国民については、その人それぞれの独自の性格等がみられるということを考えておかなければならないのは言うまでもない。

 しかし、それでも、こういった国民性が見られるということの背景には、それぞれの国民には、その国々の歴史とか気候とか、それによって出来上がった文化とかによって、培われたものがあると言えるのだろう。

 ここまで、何となく読んでこられた方は、例えば「イタリア人は落ち着いているの」と思った方もいらしゃると思うが、これは絵葉書の題目にあるように「完璧な欧州人とは」ということで、実際の国民性は、反対のものだということ、イタリア人は、逆に概して落ち着きがないことを皮肉っているのです。ということは、フィンランド人は実際は「無口」(おしゃべりの記述)、ドイツ人は実際はユーモアを解しない(ユーモアがあるとの記述) オランダ人は実際はしまり屋(気前がよいとの記述)ということになるのです。

 同じヨーロッパの中で、これらの国々が相互理解することは必要なことだと思いますが、多分絵葉書に書かれているようですから、多分、それぞれの国民はあの国民はこうだということを十分知ったうえで、付き合っているのだと考えます。

 最後は、引用した本の紹介(世界情勢のきほん)になりますが、これらのヨーロッパの国々だけでなく、アメリカ、中国、ロシアそしてグローバルサウスの国について、池上彰流に分かり安く、地政学の観点だけでなく、歴史的視点からどういうふうに国が出来上がったのかを明らかにしています。私みたいに、外国オンチに進める一冊です。これを読んで、ロシアのプーチン政権がなぜ疑い深いのか、なぜ好戦的なのかが分かったような気がします。  

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