元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

ヨーロッパの国々の国民性=ステレオタイプの見方ではあるが歴史・気候・文化等により考えられること

2024-08-17 16:37:16 | 経済・歴史

 ヨーロッパの土産品の絵葉書に書かれた「完璧な欧州人とは」

 今でこそ外国人を町でよく見かけるようになったとはいえ、私のように田舎育ちでの人間にとって、外国人とあまり話したこともない人間にとっては、ヨーロッパの人々について、ドイツ人もイギリス人もフランス人も全く分からないというのが実情だ。池上彰さんが「世界情勢のきほん」(歴史で読み解く!p193)の中で、それぞれの国民性について、ヨーロッパの土産品として「完璧な欧州人とは・・・」と書かれた絵葉書を紹介しています。

〇 イギリス人のように料理上手で           〇 フランス人のように運転マナーがよく                  〇 べルギー人のようにいつでも対応可能で       〇 フィンランド人のようにおしゃべりで            〇 ドイツ人のようにユーモアがあって         〇 ポルトガル人のように技術が得意で            〇 スウェーデン人のように柔軟性があって       〇 ルクセンブルグ人のように有名で                 〇 オーストラリア人のように我慢強くて        〇 イタリア人のように落ち着いていて               〇 アイルランド人のようにしらふで          〇 スペイン人のように謙虚で                 〇 オランダ人のように気前が良くて          〇 ギリシャ人のように片付け上手で              〇 デンマーク人のように慎重で

 絵葉書で売られているということは、一般に知られているようにその国民こくみんにはそういった「国民性」が見られるということだろう。ただ、そういったステレオタイプの見方をする時には、特定の、その一人ひとりの国民については、その人それぞれの独自の性格等がみられるということを考えておかなければならないのは言うまでもない。

 しかし、それでも、こういった国民性が見られるということの背景には、それぞれの国民には、その国々の歴史とか気候とか、それによって出来上がった文化とかによって、培われたものがあると言えるのだろう。

 ここまで、何となく読んでこられた方は、例えば「イタリア人は落ち着いているの」と思った方もいらしゃると思うが、これは絵葉書の題目にあるように「完璧な欧州人とは」ということで、実際の国民性は、反対のものだということ、イタリア人は、逆に概して落ち着きがないことを皮肉っているのです。ということは、フィンランド人は実際は「無口」(おしゃべりの記述)、ドイツ人は実際はユーモアを解しない(ユーモアがあるとの記述) オランダ人は実際はしまり屋(気前がよいとの記述)ということになるのです。

 同じヨーロッパの中で、これらの国々が相互理解することは必要なことだと思いますが、多分絵葉書に書かれているようですから、多分、それぞれの国民はあの国民はこうだということを十分知ったうえで、付き合っているのだと考えます。

 最後は、引用した本の紹介(世界情勢のきほん)になりますが、これらのヨーロッパの国々だけでなく、アメリカ、中国、ロシアそしてグローバルサウスの国について、池上彰流に分かり安く、地政学の観点だけでなく、歴史的視点からどういうふうに国が出来上がったのかを明らかにしています。私みたいに、外国オンチに進める一冊です。これを読んで、ロシアのプーチン政権がなぜ疑い深いのか、なぜ好戦的なのかが分かったような気がします。  

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兵庫県知事パワハラ・おねだり疑惑にからむ懲戒と公益者通報制度の周知徹底について

2024-07-17 18:51:25 | 社会保険労務士

 兵庫県は外部弁護士への告発制度が用意されていなかった・・・・・・

 兵庫県斎藤知事のパワハラやおねだり体質等疑惑が問題となっているが、告発した元県播磨県民局長は、百条委員会に出席するはずだったにも関わらず、自殺(抗議の覚悟の自殺か)していたことが明らかになった。この職員に知事は嘘八百の事実無根だとして、局長本人に停職3か月の懲戒処分をしていたのである。

 公益通報者保護法は、いわゆる内部告発した労働者(ここでは県民局長)に対し、事業者(ここでは知事である)は、解雇のみならず不利益になるような取り扱いは禁止されているところである。兵庫県の公益通報制度が、残念なのは、人事課等の内部機関への通報制度はあったが、外部の弁護士への通報が用意されていなかったところにある。だからといっては、なんなんだが、元局長は初めから県議・報道機関への告発へ動いたのではないか。外部弁護士への介在があったら、この制度はうまく機能できたかは結果をみなければ分からないが、少なくとも、今の混乱した状況にはならなかったのではないかとも思える。(実は県民局長は、報道機関等の告発の後に、内部通報制度により再告発。)。

 私は同じ県組織に勤めていた元宮崎県職員である。宮崎県の公益通報制度は私の職員時代に出来たもので、記憶をたどれば、人事課への内部通報と外部の弁護士への通報があった。そして、現在の発表されている宮崎県職員公益通報制度実施要綱をみれば、弁護士への通報は、実名は弁護士のみで人事課へは匿名扱いできるとなっている。そうでなければ、弁護士への告発であっても、告発者本人の名前が知られることになり、握りつぶされかねない懸念もあって、弁護士告発制度のない兵庫県のように告発者は頭から報道機関への発表となってしまうのはないか。兵庫県という大きな組織において、外部の弁護士への告発が用意されていなかったところに大きな問題がある。(⇒このような場合にあっては、直接、報道機関への告発となっても、公益通報者保護法で、告発者は守られるものと考えられる。)

 この公益通報者保護法が、残念なのは、実際のところ機能していないのが実態であるように思う。地方公共団体においても、民間においても、告発をする労働者が、事業者の監督下にあり、事業者は強力な解雇などの懲戒処分をもって対応できるからである。そのためこの法律が出来たといってもいいのだが、実態はまだまだこの法律自体が周知徹底されていないところにあるように思う。告発した労働者が最後に泣きを見るような結果になるのでは、この法律の意義がないのである。単なる解雇の無効、降格、減給などの不利益の禁止に加えて、法改正により事業者は通報によって受けた損害賠償も請求できないとなった。しかし、法律そのものがちゃんと履行・徹底されない以上、すなわち「解雇等の労働者の不利益そのものがなくならない限り」問題はなにも解決されないのである。

    この記事を書いた翌日、テレビのひるおびを見ていたら、元鳥取県知事の片山善博氏が出演していたが、この公益通報者保護法は商品欠陥等の消費者保護から発展したので、「公益通報者の保護」というのが一般化してないこともあるのではと話されていた。また、片山氏や同時出演の佐藤みのり弁護士は、告発者に事業者がこの不利益を与えた場合は、罰則を設けることも必要なのではと話されていた。いずれにしても、もっとこの法律を強化し認識してもらう必要があるのではと思う。(24.7.18追記)

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朝ドラ「虎に翼」 寅子の衝撃~幸福追求など個人の尊重や性別ゆえに差別されずという法の平等(憲法の公布)

2024-06-09 13:17:15 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 自分だけでない他人の魂もこの世に生がある間はお互い自由に生きる・生きさせること=この世に生きる我々の使命!!

 昭和21年11月3日に日本国憲法が公布された。その記事が掲載された新聞を見ながら寅子は、河原で人知れず涙を浮かべていた。そして、家族会議を開き、これからは女性でも平等であって差別されない自由な世の中になるんだと告げる。戦中の動乱や挫折などから、いったん法曹界からドロップアウトした寅子。戦前は女性ゆえに弁護士しかなれなかった寅子であったが、戦後女性にも開かれた裁判官の道に進むことにしたのである。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

<第13条> すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

<第14条> すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 この朝ドラ「寅に翼」の主人公である寅子のモデルである三淵嘉子氏は、この日本国憲法を見たときに、男女で今まで同じ司法試験に受かっても、弁護士しかなれなかった女性が裁判官への道が開けたんだというという喜びを隠すことが出来なかったと本人が述べている。※※※ 第14条の性別等の差別を謳った法の下の平等 第13条の寅子が家族会議で各人に聞いた幸福追求等の個人としての尊重 そして11条の国民に保障するとした基本的人権 昭和からの時代を過ごしてきた私たちの世代、平成からの時代を生きてきた世代や今の令和の時代を生きている世代 どの世代の人々もこの日本憲法の基本的人権を基本とする第11条から第14条までのこの条文をもう一度読み返してみませんか。朝ドラの中で河原で涙を流した寅子のように、私、高齢者になった今だからこそ、本当に胸にくるものがあります。

 この基本的人権たるものは、学校で習っている間は、あまり分かっていなくて、社会に出てから物事を経験して、初めて分かる、私の場合はそうだった。世界人権宣言で言う「生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利において平等」の概念も、またしかりで、生まれながらにして平等ってなんだろうと学生の頃は疑問であった。具体的に自分のものとして考えられなかったのだ。白状すれば、本当に遅いのだが、高齢者になって初めて、この生まれながらにしての概念がやっと分かりかけた気がするのだ。誤解されるかもしれないので言っておくが、頭の中では分かっていたつもりではいたのだが、本当に自分のものとして考えていたかは疑問であるということなのである。

 人間の歴史をさかのぼってみれば、奴隷制の中で虐げられた人、そして身分制のあった時代の人々 現代においても身分制がなくなったといっても、いまだに差別される側に立つ人々がいることだろう。「神との対話」における神は、そんな時代における差別に対しては、神は善悪の判断をしないという、それゆえ差別する人間に処罰もしないという。ただ、時代の移り変わりの中で、「良く」なっていっているのは、事実だろう。それは、この世で死んだら、魂は神のもとに往き神に「包含」されるものであるので、差別の概念として、人間の私が考える事は、神も同様に考え至るところであるという。そして、どうも神の「時間」感覚は、私たち人間の時間と違って、一(いち)時代が一瞬のうちに過ぎていくようなのだ。だから、私たち人間からすれば、現象面からすれば、歴史的には少しずつ、本当に少しずつ差別もなくなっていくのだろう。

 さて、戦後の日本に生まれ、日本国憲法の中で育ってきた。せっかく憲法のなかで差別禁止を謳い、基本的人権を守ることをここに宣言したのだから、もう一度、その意義を考えてみよう。「憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」(憲法11条)としている。人間が人間として生まれた以上、侵すことができないのが、この基本的人権なのだ。今は奴隷制や身分制度のある時代ではない。今の時代に、人間として生まれたということは、この時代では自由に生きれるということ(=権利)なのだ。もっというならば、自分という「魂」を自由に生きさせるということ それは、他人に干渉して他人の自由の道を閉ざすことをしてはならない=他人の「魂」にも自由に生きさせるということにもなる。 そして、その各人の寿命がつきるまで、その人の人生を、自由に生きながらえさせることなのだ この世に生を受け寿命により死亡するまで、自由に生きることができる世界を実現することが、現実に生きる私たちに与えられた課題なのだ。その人なりに困難な人生の中で、お互いに、その人に沿った人生を精いっぱい生き切るように出来るような世の中になればいい。 

 今以上に、戦後間もない時期を生きる寅子にとって、女性としての「裁判官」へ至る現実は、まだまだ厳しいものがあった。

 「自分を取り巻く環境は、今までと何ら変わらない。でも憲法がある。好きで戻ってきた以上、私が私でいるために、やれるだけ努力してみるか」・・・・と思い直す寅子 (6月7日放送)

 ※※※ 三淵氏は女子部卒業での最初の裁判官であって、男女共に卒業した第1号の裁判官及び検察官は別途おり、三淵氏は2番目に当たる。

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「アキラとあきら」の「運」=選択結果として出来事は変えらず⇒受止め方を変えること<神との対話>

2024-05-21 16:21:59 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 人生は情報を駆使しても最後に動かせない「運」がある?!<神との対話・生きがいの創造・斎藤一人から>

 池井戸潤原作の小説をドラマ化した「アキラとあきら」。大手海運会社東海郵船の創業家の長男である階堂彬(あきら)は一家を背負う期待を一身に受けながら育ち、一方の山崎あきら(「あきら」は「王」編に「英」と漢字で書く)は、倒産した零細企業の元社長の息子として全く違う生まれと育ち方をするが、彼らはメガバンクの産業中央銀行の実務を想定した初任者研修で出会い、そこで伝説ともいえる成績を残した両名である。そして、日々の銀行業務の中で苦労しながらも業績を上げていく2人。銀行の本命ともいえるのは、融資相手の会社の将来性を見抜くことに尽きるのだが、その中でどうしてもその会社の資産や経営能力だけでない、どうしようもないところのもの「運」を取りあげている。彼の作品は、実社会の中で「情報」を十分に見極めていくタイプのものが多いが、それをもってしても動かせないものを、彼はそれを「運」と言っているようなのだ。それもこのドラマでは、よく出てくる言葉なのだ。池井戸氏が実際の世界において、努力だけでない運が作用することを見てきたからなのだろう。

 この「運がいい」とか「運が悪い」とかいうが、この「運」って何だろう。「神との対話」(Nウォルッシュ著、主にp69~)における神は言う。あなた方からすれば、出来事等としての「結果」はあなた方が意識的に選んだわけではないと思っているかもしれないが、すべてあなた方の意識の選択の結果として起こっているという。しかし、世界には、どう考えてもあなた方が引き起こしたと言えない事案も起こっているが、これは、人々の意識の総体・集合体(=集合意識)として創造されるものなのだ。あなた方は、集団として、また個人として、魂の発達という目的に向かって、自分たちの人生と時を創造しているのだ。

 ここで自分が「悪い」と思える結果(出来事)も、しかりである。あなた方が 間違っているのは、そのことを選んだことではなくて、それを「悪」と呼ぶことであるという。運が悪いとはこのことであろう。そこで、その出来事から生じる苦痛を減らすことは出来るのか。出来事やそれからもたらされるあなたの経験は、どうあがいても結果は同じであり、結果そのものは変えられない。これらから感じる苦痛を減らすには、結果としての出来事の「受け止め方」を変えるしかない、内的な「経験」を変えるしかないという。これが生きることの王道であるとする。

 「完全版生きがいの創造」(飯田史彦著、主にp377~p666~)では次のように言う。常識的に分かるのは、人生において「常に、より愛のある、創造的な選択をしていくこと」こそが、最も理想的な選択肢を選ぶ続ける鉄則であろうと説いている。そして、選択の結果、自分の思ったような展開ではなくても、「あせらないで、起きたことを受け入れること」が人生を順調に生きていくうえで、必要なテクニックであるというのだ。実は、事故、病気、又は挫折等(運がないと思えるようなこと)であっても、それは自分を成長させる修業課題としての順調な試練であって、あらゆる出来事や人間関係に深い意味付けをそれに感じて、それを乗り越えていくことが自分(の魂)を成長させることにつながるのだという。しかも、その時々のその人の成長に応じて、試練が生じるため、乗り越えられない壁はないのだともいう。

 齋藤一人氏(ツキを呼ぶセラピーp96・97)は、根本的にはその意味は同じであろうが、以上述べたことを簡単に分かりやすいく日常生活に沿った形で述べている。「どんなに実力をつけても、努力しても、運に勝つことはできません。運は天が与えてくれるものだから。天とケンカしても、人は天に勝つことはできないでしょ。」 そして、「人間だれでも平等に今日から明日へとは運ばれているのですから、運がないというのは違います。運ばれているということ自体、運があるんですから。ただ、運に勢いをつけることができるか、できないだけ。運がないと嘆く前に、人の倍ぐらい働いてごらん。いま、やっている勉強でも仕事でも、これまでよりスピードをアップしてみるの。・・・難しいことを考えないで、自分がすぐできることから始めてみればいいんです。」と言う。

   注意:「ツキを呼ぶセラピー」(斎藤一人著)は、そのまま引用している。「神との対話1」(Nウォルッシュ著)、「完全版生きがいの創造」(飯田史彦著)においては、私なりの解釈で要約しているため、原文とは違っているかもしれないので悪しからず。(「神との対話」においては、日本語訳が分かりにくいのはわたしだけであろうか?)

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転職を考える!!ー会社の中という制限・労働生産性から・一人生一職場か

2024-04-27 16:41:10 | 職場・組織等

 就職してもすぐに辞めるのにはワケがある場合も・・・

 3月末のサンデーモーニングに出演していた元村由希子氏(元毎日新聞解説委員、科学技術の分かり安い解説に定評があり)が自分が転職したからではないが・・・として、一般的な「転職の理由」として、次の3つを挙げた。

 ① 自分の価値を高めること

 ② 自分の時間を持てること

 ③ 起業化・独立化の方向性その可能性                                          

 私、昭和時代の社員にとっては、会社と向き合う場合に、会社の中でという形で、自分の価値を高め、会社の中で自分の時間を持ちということを考え、最後の独立化など考えようがなかった。それは「会社に縛られていること」からの発想で、しかしながら、会社に縛られないとした場合には、もっともっと自分の価値を高められるかも、自分の時間を持てるかも、自分なりの発想で自由に動けるかも(独立)と思えたところでもある。これらの理由は、会社の中にいる限り、会社に縛られ自由に動けないことの裏返しでもある。そうはいうものの、会社の中にいる限りは、その個人の生活を含めて、会社が守ってくれるのである。だからこそ、会社というものが、言い方は悪いが「自由の足かせ」になろうとも、会社の中にいるのであろう。特に、昭和の時代にあっては、各社員が会社を守り会社に忠誠を誓い、共に会社ともに歩むことが、会社の成長を支え、それが経済の発展、もっと言うなら高度経済成長につながって来た。

 しかし、今はそういう時代(高度の成長期)ではない。能力のある者は、その能力に応じて、その能力をもっともっと会社の外に伸ばして欲しい。元村氏のように、能力のある者は、もっともっとその価値を高めて欲しいものである。

 転職が普通に行われる欧米においては、転職を契機に給料が上がっていくことがよくあることだという。日本の給料の低い原因になっているのは、日常茶飯事的な転職が行われないことにあるともいう。会社が会社員を生活を支え、会社員も会社に忠誠を誓うという日本的経営の形態は、日本が持つ強みでもある。しかし、極端に言えば、皆が残業するからといって、皆が残るというような「なれ合い」的な仕事の仕方はやめて、今からは、どうしたら「労働生産的」なのかを考えながら仕事をしていくのを基本としなければならない。会社という枠に縛られず、時には、他の職場で、転職を含めて、仕事をするというのも、必要なのかもしれない。

 経済学で言う「労働」というのは、特に会社間の労働の自由な移動というのは、当然出来るというのが原則である。それだからこそ、最大の結果(生産量)をもたらすと考えるのである。それを会社間で限定的にしか移動できないというのは、現実の日本の経済であろうが、それは経済学が考えるものとは、相違があることになる。現実の日本経済においても、変数的に扱える経済であってほしい。

 一方、出口が「転職等」であるとすれば、入り口は「就職」である。最近では就職してもすぐに辞めるケースもめずらしくなく、辞める側の辛抱の欠如に求めることも多い。そのため、退職を肩代わりするサービスもあるという。しかし、その辞める理由として、中には合理的な理由もあるという。自由な職場だといわれたのに、会社に入ったら服装はこれこれでという強制されたとか、自分はこれこれの職種ということで了解してもらっていたのに全く別の職場になったとか、それなりに納得できる理由もある。これは、最初の会社の説明等が不十分さからくるところもあろうが、お互いに不幸である。就職活動でやっとつかんだ「会社」は、居心地のいい会社であってほしい。就職活動において、どうしたら「公平さ」「納得性」が保てるかの問題でもあって、十分な分かり合える就職システムが出来ることを望むものである。

 入り口の就職から、出口の転職まで、その人にとって、人生の大きな転機である。言い換えれば、それは、その人の「価値」・「時間」・「独立化」という点から、かけがえのない大切な転換点であろう。就職において、自分が納得できない状況にならないようなシステム、転職においては、一生をその会社に尽くすということだけでなく、より自分を高める・より自分の時間を持つといった転職や独立化の動きにもっていくことが、日本経済がうまく動き出すことになるのだと思う。経済学的には、そのようなことが実現するシステムが、最大の利益や生産等をもたらすことになるのだと思う。その人なりの全身全霊を打ち込めるような仕事に就いて欲しいということでもある。そのためには、的確な就職・転職が、必要ということであり、昔のように「一人生・一職場」ということに限らないということでもあろう。

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