元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

NHKドラマ10『宙わたる教室』地方に優れた教師を望む!石破首相の地方創生のカギは教育だ!!

2024-10-14 10:02:17 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 藤竹叶のような生徒にやる気を起こさせる(生徒の眠る探究心を呼び起こす)先生を!!

 藤竹叶は惑星科学の研究者で大学の助教授にまでなっていたが突然渡米し、帰国してしばらくしてから、やりたい実験があってと拠点に選んだのは、なぜか新宿の繁華街にある定時制高校。そこに理科教師として赴任した藤竹が、年齢も国籍も異なる生徒たちの中で最初に接点を持ったのが廃棄物回収会社で働きながら学校に通う柳田だった。柳田は知能は良かったがディスレクシアのため(文章の読み書きに困難な学習障害の一種)漢字がうまく読めなかったが、その自覚が彼自身全くなかったのである。そのため、彼が藤竹と出会った頃は、自暴自棄になっていたのである。そのことを藤竹が彼に指摘するとやっと原因が分かった柳田。そして、勉強の仕方は今ではそれなりにあると藤竹は促す。しかし、今までの努力はなんだったのかと悔しがる柳田。ある日、藤竹は英語の教師からWHYの授業で柳田は「なぜ青空は青いのか」と問うたと聞いた。先生らしからむ先生である藤竹であるが、心奥深くに眠る小さな探究心に気づき、知りたい答えを導き出すという点では優れていたのだ。藤竹はプリズムを透して別れた青色の部分のみが見える「青空」を実験的に教室に作り出した。そして、藤竹は柳田に科学クラブを作るからその一号の部員にならないかと誘うのである。 

 多分、私たちが学んだ教科から言えば、主人公藤竹の教えていた教科としては、「地学」だったのだろう。私は地方の高校出身であるが、地学の専門の先生はいなかったので、物理や生物の先生が教えていたようだ。だから、本格的な、本当のというか?「地学」の授業としては習わなかった気がするのである。当時の地学の教科書が手元にあるので、それを紹介すると地球の内部から地殻変動、そして気象。さらには、宇宙に目を向けて太陽や惑星、恒星の動きやこれらの宇宙空間について説明している。

 今から考えると、自分としては、これは身近な題材をとらえたワクワクするような教科であったであろうが、なぜか当時心がときめいたことはないのである。確かにこれらの説明を科学的に説明するのは、物理的、化学的な知識や生物学的な知識を必要として、さらにはその基礎的な部分として、数学的な素養が必要と考える。しかし、私は今はバリバリの文科系の大学に通ったのであるのだが、当時は理科系の大学に通うか迷ったほどの者であると自負している。だから、やはりこれはひとえに先生の教え方がうまくなかったのではないか。こういうと先生を批判しているように思えるのだが、むしろ、当時の地方の高校に地学の教師(しかも付け加えるなら藤竹先生のような優秀な)がいなかったのが原因であると考えている。その頃、地方の高校、ありていにいえば田舎の高校には、良き教師というか、それ以前に専門の教師を派遣していなかったからではないかと思う。

 また、中学時代、歴史の授業では、黒板に教科書にある「固有名詞」や「地名」などの羅列を行い、それを書き取りするのが歴史の授業だったような気がする。歴史上の人がこうしたからこうなったとか重要な出来度の詳細な説明は一切なかったのである。教師になりたての先生だったので仕方はないのかもしれないが、歴史の事実の原因・結果や歴史に興味を持つようなエピソードの話をしていただけたら、もっと歴史に興味をもって聞けたのかもしれない。

 今は公立学校においては、教師を地方と都会で回す異動を行っているため、そうではないのかもしれない。(当時も配置基準に基づき適正に配置していたといわれるかもしれないが、当時、地方で勉強していたものにとっては、そうではないと肌で感じていたものである。ひがみかもしれないが・・・) しかし、現在においても、塾や家庭教師、また私立学校など都会と地域との教育の格差は歴然としている。

 石破首相が地方創生を公約に掲げた。地方創生は教育が充実してこそのものである。地方で育った人材が都会に出ていくのを防ぐのは、その基礎的な部分である教育であるような気がしてならない。そのためには、熟練しかも優秀な教師の地方への配置を望むものである。「藤竹先生」のような生徒に興味を持たせるような課題を示してくれる先生を是非派遣してもらいたい。地方の方が「青空」は青く見えるし、星空は宝石をちりばめたような夜空が見える。興味を持つ題材としては、日常で都会以上に、大自然があるのである。興味を持たせる授業をすれば、地方でも生徒は伸びる。そこで育った者こそが地方の良さが本当によく分かるはずである。現状では「人材」が都会に吸い寄せられている。教育の格差がなくならない限り、地方と都会とのあらゆる格差の根本的な解消にはならないと思う。

 

 

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朝ドラ・寅に翼=こだわり「夫婦同姓(選択的夫婦別姓)」「あんこの味」⇒この世で生じた感情は神の記録帳に記録

2024-09-18 14:39:49 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

記録された同様の感情はその集合意識が働く

 航一との結婚に際し、なじんできた「佐田」姓を変えることに悩む寅子。結婚後も仕事上では「佐田」を使いたいと桂場に申し出る。しかし当時は絶対的に認められないのだ、桂場は、即脚下。さらに、「なぜそんなにくだらんことにこだわるんだ」と言う桂場に、寅子は「桂場さんにもこだわられるものがありますよね。司法の独立、裁判官の資質、あんこの味。どうしてもこだわりたいことが人にはそれぞれあるんです」と反論。桂場はすぐに「失言だった」とし、「要望は認められんが、今のは君の言うとおりだ」と謝罪した。(あんこの味と夫婦同姓を同一に扱う寅子。このやり取りには、おもしろい。)

 一言で「こだわり」といっても、私の個人的な見解かもしれないが、「こだわり」が歴史を動かしてきたといえると思うのである。一万円札の肖像画に採用された渋沢栄一にしても、彼の「私」ではなく「公益性」というのを常にこだわってきたのであり、フランスの信用の資本主義をモデルに日本独特の公益を重視した資本主義を発展させたともいえる。5千円札、千円札のモデルだけでなく他の歴史上の人物にしてもしかりであり、何らかのこだわりをもって歴史を生きてきたのではないか。

 あんこのこだわりというのは、竹もとの身代を梅子に引き継がせる際の「同じあんこの味が出せるか」という合否の問題であるが、その判定員として裁判所長官にもなった桂場等一郎の合格を得るまでに、梅子がいかに努力を重ねるかということである。そのため、いずれにしても店を引き継ぐのは目に見えている。そう時間はかからないのであり、番組後半ではすし屋を引き継いだ道夫と同じ店を開くという設定になっている。

 しかし、夫婦同姓(夫婦はどちらかの姓をなのる)でなければならないということについては、寅子にとって新しい苗字を名乗るかという選択を迫ることでもあり、寅子は前の自分の人生の生きた証がなくなってしまうと感じる。特に寅子のように裁判官をしていると(その時代は)判決文は新しい苗字で書かなければならず、大問題のように映ったに違いない。このように、寅子夫婦にとって、夫婦のいずれかの姓を名乗るということにいたっては、この寅子の時代だけでは解決できない法改正を伴う問題でもあったのだ。そして、今現在の非常にホットな問題でもある。(⇒夫婦別姓) 実務的には、世論の後押しがあり、国会で議論の上決議を得て法律(案) が承認されて、初めて認められる問題でもあったのである。

 これを魂の次元で考えてみよう。人々の行動、言葉、そしてその時どんな感情をもったかは、神の下にある記録帳に記録されるという。どんな感情も記録されるというのが重要で、その時のプラスの感情だけでなくマイナスの感情も記録されるのである。こだわりの感情は、特に強い感情であるので、特に強調され、例えばゴチック体ような形で記録されるのではないか。そして、あの世に行ったときに、すべてがその人の前で再生され、後悔・反省、いきる勇気が与えられるのです。夫婦の同姓について、実に「悔しい」という寅子の感情が生じたのも、この再生の途中で感じ取られるはずです。

 夫婦同姓の問題は、寅子だけではなく他の人にも、この世で同じ感情をもったものがあるとすると、その感情も記録され、たくさんの同様の感情が記録されることになります。神自体はこの世での行動・言葉や感情に対して、決して良い・悪いの判断・ましては罰は加えないとされていますが(神との対話)、これらの同様の感情の記録がたくさんになると、その集合した意識が働くことになり、この集合意識がなんらかの働きを起こすことになると思われます。それもある場合には、進行方向の後ろにバックすることもありますが、人々の「この世の動き」では、魂が生まれ変りこの世に生を受けた者が、また試行錯誤の上で、必ず前に進んでいくと思われます。その意味では、この世とあの世は、つながっており、いい方向に動いていくことは間違いありません。夫婦同姓の問題も、いずれは別姓も認められることになるはずです。

 前にも申し上げましたが、この世の課題は、この世に生まれ出る前に、自分で自分の人生設計をして、しかもその試練が自分に分からないようにして(忘却)、うまくその人生を解いていくことであるとのことです。このときに、ある人は、神の使命のようなものを与えられてくるものもあるようです。夫婦の同姓・選択的別姓・さらには(完全)別姓の問題も、それを解決してくれる、そんな人物があらわれるかもしれませんね。 

 

 <参考>神との対話(Nウォルシュ著) 生きがいの創造(飯田史彦)

 これらの著書は参考であり、アレンジ等を行ったあくまでも自分の世界観です。

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ヨーロッパの国々の国民性=ステレオタイプの見方ではあるが歴史・気候・文化等により考えられること

2024-08-17 16:37:16 | 経済・歴史

 ヨーロッパの土産品の絵葉書に書かれた「完璧な欧州人とは」

 今でこそ外国人を町でよく見かけるようになったとはいえ、私のように田舎育ちでの人間にとって、外国人とあまり話したこともない人間にとっては、ヨーロッパの人々について、ドイツ人もイギリス人もフランス人も全く分からないというのが実情だ。池上彰さんが「世界情勢のきほん」(歴史で読み解く!p193)の中で、それぞれの国民性について、ヨーロッパの土産品として「完璧な欧州人とは・・・」と書かれた絵葉書を紹介しています。

〇 イギリス人のように料理上手で           〇 フランス人のように運転マナーがよく                  〇 べルギー人のようにいつでも対応可能で       〇 フィンランド人のようにおしゃべりで            〇 ドイツ人のようにユーモアがあって         〇 ポルトガル人のように技術が得意で            〇 スウェーデン人のように柔軟性があって       〇 ルクセンブルグ人のように有名で                 〇 オーストラリア人のように我慢強くて        〇 イタリア人のように落ち着いていて               〇 アイルランド人のようにしらふで          〇 スペイン人のように謙虚で                 〇 オランダ人のように気前が良くて          〇 ギリシャ人のように片付け上手で              〇 デンマーク人のように慎重で

 絵葉書で売られているということは、一般に知られているようにその国民こくみんにはそういった「国民性」が見られるということだろう。ただ、そういったステレオタイプの見方をする時には、特定の、その一人ひとりの国民については、その人それぞれの独自の性格等がみられるということを考えておかなければならないのは言うまでもない。

 しかし、それでも、こういった国民性が見られるということの背景には、それぞれの国民には、その国々の歴史とか気候とか、それによって出来上がった文化とかによって、培われたものがあると言えるのだろう。

 ここまで、何となく読んでこられた方は、例えば「イタリア人は落ち着いているの」と思った方もいらしゃると思うが、これは絵葉書の題目にあるように「完璧な欧州人とは」ということで、実際の国民性は、反対のものだということ、イタリア人は、逆に概して落ち着きがないことを皮肉っているのです。ということは、フィンランド人は実際は「無口」(おしゃべりの記述)、ドイツ人は実際はユーモアを解しない(ユーモアがあるとの記述) オランダ人は実際はしまり屋(気前がよいとの記述)ということになるのです。

 同じヨーロッパの中で、これらの国々が相互理解することは必要なことだと思いますが、多分絵葉書に書かれているようですから、多分、それぞれの国民はあの国民はこうだということを十分知ったうえで、付き合っているのだと考えます。

 最後は、引用した本の紹介(世界情勢のきほん)になりますが、これらのヨーロッパの国々だけでなく、アメリカ、中国、ロシアそしてグローバルサウスの国について、池上彰流に分かり安く、地政学の観点だけでなく、歴史的視点からどういうふうに国が出来上がったのかを明らかにしています。私みたいに、外国オンチに進める一冊です。これを読んで、ロシアのプーチン政権がなぜ疑い深いのか、なぜ好戦的なのかが分かったような気がします。  

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兵庫県知事パワハラ・おねだり疑惑にからむ懲戒と公益者通報制度の周知徹底について

2024-07-17 18:51:25 | 社会保険労務士

 兵庫県は外部弁護士への告発制度が用意されていなかった・・・・・・

 兵庫県斎藤知事のパワハラやおねだり体質等疑惑が問題となっているが、告発した元県播磨県民局長は、百条委員会に出席するはずだったにも関わらず、自殺(抗議の覚悟の自殺か)していたことが明らかになった。この職員に知事は嘘八百の事実無根だとして、局長本人に停職3か月の懲戒処分をしていたのである。

 公益通報者保護法は、いわゆる内部告発した労働者(ここでは県民局長)に対し、事業者(ここでは知事である)は、解雇のみならず不利益になるような取り扱いは禁止されているところである。兵庫県の公益通報制度が、残念なのは、人事課等の内部機関への通報制度はあったが、外部の弁護士への通報が用意されていなかったところにある。だからといっては、なんなんだが、元局長は初めから県議・報道機関への告発へ動いたのではないか。外部弁護士への介在があったら、この制度はうまく機能できたかは結果をみなければ分からないが、少なくとも、今の混乱した状況にはならなかったのではないかとも思える。(実は県民局長は、報道機関等の告発の後に、内部通報制度により再告発。)。

 私は同じ県組織に勤めていた元宮崎県職員である。宮崎県の公益通報制度は私の職員時代に出来たもので、記憶をたどれば、人事課への内部通報と外部の弁護士への通報があった。そして、現在の発表されている宮崎県職員公益通報制度実施要綱をみれば、弁護士への通報は、実名は弁護士のみで人事課へは匿名扱いできるとなっている。そうでなければ、弁護士への告発であっても、告発者本人の名前が知られることになり、握りつぶされかねない懸念もあって、弁護士告発制度のない兵庫県のように告発者は頭から報道機関への発表となってしまうのはないか。兵庫県という大きな組織において、外部の弁護士への告発が用意されていなかったところに大きな問題がある。(⇒このような場合にあっては、直接、報道機関への告発となっても、公益通報者保護法で、告発者は守られるものと考えられる。)

 この公益通報者保護法が、残念なのは、実際のところ機能していないのが実態であるように思う。地方公共団体においても、民間においても、告発をする労働者が、事業者の監督下にあり、事業者は強力な解雇などの懲戒処分をもって対応できるからである。そのためこの法律が出来たといってもいいのだが、実態はまだまだこの法律自体が周知徹底されていないところにあるように思う。告発した労働者が最後に泣きを見るような結果になるのでは、この法律の意義がないのである。単なる解雇の無効、降格、減給などの不利益の禁止に加えて、法改正により事業者は通報によって受けた損害賠償も請求できないとなった。しかし、法律そのものがちゃんと履行・徹底されない以上、すなわち「解雇等の労働者の不利益そのものがなくならない限り」問題はなにも解決されないのである。

    この記事を書いた翌日、テレビのひるおびを見ていたら、元鳥取県知事の片山善博氏が出演していたが、この公益通報者保護法は商品欠陥等の消費者保護から発展したので、「公益通報者の保護」というのが一般化してないこともあるのではと話されていた。また、片山氏や同時出演の佐藤みのり弁護士は、告発者に事業者がこの不利益を与えた場合は、罰則を設けることも必要なのではと話されていた。いずれにしても、もっとこの法律を強化し認識してもらう必要があるのではと思う。(24.7.18追記)

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朝ドラ「虎に翼」 寅子の衝撃~幸福追求など個人の尊重や性別ゆえに差別されずという法の平等(憲法の公布)

2024-06-09 13:17:15 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 自分だけでない他人の魂もこの世に生がある間はお互い自由に生きる・生きさせること=この世に生きる我々の使命!!

 昭和21年11月3日に日本国憲法が公布された。その記事が掲載された新聞を見ながら寅子は、河原で人知れず涙を浮かべていた。そして、家族会議を開き、これからは女性でも平等であって差別されない自由な世の中になるんだと告げる。戦中の動乱や挫折などから、いったん法曹界からドロップアウトした寅子。戦前は女性ゆえに弁護士しかなれなかった寅子であったが、戦後女性にも開かれた裁判官の道に進むことにしたのである。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

<第13条> すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

<第14条> すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 この朝ドラ「寅に翼」の主人公である寅子のモデルである三淵嘉子氏は、この日本国憲法を見たときに、男女で今まで同じ司法試験に受かっても、弁護士しかなれなかった女性が裁判官への道が開けたんだというという喜びを隠すことが出来なかったと本人が述べている。※※※ 第14条の性別等の差別を謳った法の下の平等 第13条の寅子が家族会議で各人に聞いた幸福追求等の個人としての尊重 そして11条の国民に保障するとした基本的人権 昭和からの時代を過ごしてきた私たちの世代、平成からの時代を生きてきた世代や今の令和の時代を生きている世代 どの世代の人々もこの日本憲法の基本的人権を基本とする第11条から第14条までのこの条文をもう一度読み返してみませんか。朝ドラの中で河原で涙を流した寅子のように、私、高齢者になった今だからこそ、本当に胸にくるものがあります。

 この基本的人権たるものは、学校で習っている間は、あまり分かっていなくて、社会に出てから物事を経験して、初めて分かる、私の場合はそうだった。世界人権宣言で言う「生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利において平等」の概念も、またしかりで、生まれながらにして平等ってなんだろうと学生の頃は疑問であった。具体的に自分のものとして考えられなかったのだ。白状すれば、本当に遅いのだが、高齢者になって初めて、この生まれながらにしての概念がやっと分かりかけた気がするのだ。誤解されるかもしれないので言っておくが、頭の中では分かっていたつもりではいたのだが、本当に自分のものとして考えていたかは疑問であるということなのである。

 人間の歴史をさかのぼってみれば、奴隷制の中で虐げられた人、そして身分制のあった時代の人々 現代においても身分制がなくなったといっても、いまだに差別される側に立つ人々がいることだろう。「神との対話」における神は、そんな時代における差別に対しては、神は善悪の判断をしないという、それゆえ差別する人間に処罰もしないという。ただ、時代の移り変わりの中で、「良く」なっていっているのは、事実だろう。それは、この世で死んだら、魂は神のもとに往き神に「包含」されるものであるので、差別の概念として、人間の私が考える事は、神も同様に考え至るところであるという。そして、どうも神の「時間」感覚は、私たち人間の時間と違って、一(いち)時代が一瞬のうちに過ぎていくようなのだ。だから、私たち人間からすれば、現象面からすれば、歴史的には少しずつ、本当に少しずつ差別もなくなっていくのだろう。

 さて、戦後の日本に生まれ、日本国憲法の中で育ってきた。せっかく憲法のなかで差別禁止を謳い、基本的人権を守ることをここに宣言したのだから、もう一度、その意義を考えてみよう。「憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」(憲法11条)としている。人間が人間として生まれた以上、侵すことができないのが、この基本的人権なのだ。今は奴隷制や身分制度のある時代ではない。今の時代に、人間として生まれたということは、この時代では自由に生きれるということ(=権利)なのだ。もっというならば、自分という「魂」を自由に生きさせるということ それは、他人に干渉して他人の自由の道を閉ざすことをしてはならない=他人の「魂」にも自由に生きさせるということにもなる。 そして、その各人の寿命がつきるまで、その人の人生を、自由に生きながらえさせることなのだ この世に生を受け寿命により死亡するまで、自由に生きることができる世界を実現することが、現実に生きる私たちに与えられた課題なのだ。その人なりに困難な人生の中で、お互いに、その人に沿った人生を精いっぱい生き切るように出来るような世の中になればいい。 

 今以上に、戦後間もない時期を生きる寅子にとって、女性としての「裁判官」へ至る現実は、まだまだ厳しいものがあった。

 「自分を取り巻く環境は、今までと何ら変わらない。でも憲法がある。好きで戻ってきた以上、私が私でいるために、やれるだけ努力してみるか」・・・・と思い直す寅子 (6月7日放送)

 ※※※ 三淵氏は女子部卒業での最初の裁判官であって、男女共に卒業した第1号の裁判官及び検察官は別途おり、三淵氏は2番目に当たる。

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