松山櫨(はぜ)復活奮闘日記

失われてしまった松山櫨の景観を復活させようと奮闘していく日々の記録。

復活への第一歩

2007-01-31 19:18:10 | 復活奮闘日記
田主丸町の耳納山付近では、現在紅葉が少なく、
地元の人は紅葉が見たければどこかほかの地方へ行ってる様子です。
なんとかもう一度、「松山櫨」で紅く染まった耳納山を見ることができないだろうか。
そんな願いが通じたのか、山苞の道から、
やや山奥に入った森部地域に土地を持つアレックスから
「櫨の木?ちょっとだけなら、うちの山にも自然に生えてるよ。」との一言が。
実際に行ってみると、確かにわずか数本だけ櫨の木が自生しています。
ひょっとしたら、これこそ江戸時代に竹下武兵衛が出会った
「松山櫨」の生き残りかもしれません。
たとえそうでなくても、「松山櫨」の苗を探してここに植えることができれば、
松山櫨の復活が可能になるのではないでしょうか。
期待はみるみる大きく膨らむばかりです。
幸いにもアレックスから全面協力を惜しまないとの申し出があり、
いよいよ武兵衛の発見した地にて
「松山櫨」復活への第一歩を踏み出すことになりました。

田主丸町で発見された松山櫨

2007-01-31 16:45:17 | 松山櫨とは
たまたま私が久留米藩における櫨について調べていたところ、
地元田主丸町で発見された「松山櫨」という品種に出会いました。
「松山櫨」とは、田主丸町(当時竹野郡)亀王村の大庄屋であった
竹下周直武兵衛が発見した櫨の品種です。
この品種は、同時代の農学者大蔵永常の大著「農家益」において、
7種の銘柄のうち「松山種を最上とする」と賞された程の逸品で、
他の品種の数倍の値で取引され、筑後全域に広まりました。
「松山櫨」の「松山」とは現在の田主丸町森部地域を指す
場所の名前だと考えられています。