矢部顕さんから送られてきた1通のメールにある衝撃を受けました。それは上の新聞記事と講演会の案内でした。講演者の名前は徳永進さん。私にとってはおなじみの方で、彼の2冊の著書を愛読しています。『死の中の微笑み』、『隔離 らいを病んだ故郷の人たち』(いずれも、ゆるみ出版)でした。1982年の出版当時は鳥取赤十字病院内科医となっていますが、ウィキペディアを見ると〈鳥取市内にホスピスケアのある「野の花診療所」を開設〉とあります。
■ウィキペディアより
徳永 進(とくなが すすむ、1948年 - )は、日本の医師、ノンフィクション作家。 鳥取県生まれ。京都大学医学部卒業。鳥取赤十字病院の内科医。1982年、『死の中の笑み』で講談社ノンフィクション賞受賞。83年同作品はNHKドラマ人間模様で「愛と砂丘の町」として放送された。2001年、鳥取市内にホスピスケアのある「野の花診療所」を開設。
著書は膨大な数ですが、興味ある方はウィキペディアなどで調べてください。
徳永さんの名前を知ったのは、菅龍一さんの著作を通してでした。
菅龍一さんについてもウィキペディアを覗いてみましょう。
■ウィキペディアより
菅 龍一(すが りゅういち、1933年 - )は、日本の劇作家、児童文学作家、教育評論家。香川県高松市生まれ。少年時代を山陰の禅寺で過ごす。京都大学理学部物理学科卒業。32年間神奈川県立高校教諭を務め退職。和光大学講師[1]。1964年『女の勤行』で第10回岸田國士戯曲賞受賞。1982年『善財童子ものがたり』で第29回産経児童出版文化賞受賞。
著書[編集]
『教育の原型を求めて』朝日新聞社 1973
『生徒とともに能力主義をこえて』昌平社 1975
『親であることの意味』文化出版局 よつば新書 1980
『善財童子ものがたり』全3巻 偕成社 1981
『こどもの心が見えるとき 親と教師の存在証明』柏書房 1984
『親とたたかう』筑摩書房 ちくま少年図書館 1985
『おじいさんの手』鈴木恵子さし絵 太郎次郎社 1986
『父親40歳からの出発 子とともに成長する』ダイヤモンド社 1987
『子どもが心を開くとき 私の体験的教育実践論』一ツ橋書房 1993
『子どもの愛し方』教育史料出版会 1994
『若者たちの居場所 創作戯曲にみる現代青年像』晩成書房 1995
共著[編集]
『教師ひとりひとりの生きざまを』共著 昌平社 1976
このサイトには菅さんの数冊の著書が漏れています。
教師をスタートさせたときから大変お世話になっていた先輩教師は、遠藤豊吉さん、村田栄一さん、鈴木孝雄さん、そして菅さんといったところです。
菅さんには我々夫婦のミニコミ「啓」を送るとすぐにはがき一枚の感想が届きました。そして、ミニコミのお礼だと言って多くの著書を送っていただきました。
その中の一冊が『おじいさんの手』でした。そのオビは、「少女の熱意が、ハンセン病者と故郷とのあいだに心のかけ橋をつなぐ」となっていて、児童文学としては珍しいハンセン病をテーマにした物語でした。その本の「解説にかえて」(島比呂志)の中で、菅さんがハンセン病に目を向けさせてくれたのは徳永進さんだと書いているのです。
その徳永さんがハンセン病に出合うのが、矢部さんとの出会いによってだったというのです。彼の新聞コラムは匿名で書かれているのですが、「先輩」は矢部顕さんその人に間違いありません。矢部さんから徳永さん、徳永さんから菅さん、菅さんから私たちへと、人の命の尊厳さのバトンが伝わってきたのを思うと、感慨深いものがあります。
矢部さんについては以前にブログに書かせていただいたことがあります。〔ブログ104〕
1998年夏にラボ・テューターに出会うことによってラボ教育センターを知ることになるのです。2006年からラボ付属の言語教育総合研究所員に迎えられることになり、その事務局長をしていたのが矢部さんでした。拙著『地域演劇教育論 ラボ教育センターのテーマ活動』(晩成書房)の巻頭を飾っていただいたのが、元会長の松本輝夫さんと矢部さんでした。
矢部さんは、現在は農業にいそしむ傍ら、求めに応じて、子どもたちに米作り、糸紡ぎや地域の歴史を教えたり、高校生や大学生にも話をしに出かけているようです。
菅さんがなくなられて、野川清さんとご自宅にお線香をあげにいきました。その前後に、お連れ合いさんからいただいた本があります。谷川俊太郎さんと徳永進さんの対談集でした。
*『詩と死をむすぶもの ー 詩人と医師の往復書簡』谷川俊太郎・徳永進著 2008 朝日新書
彼女はこの新書を数冊買って、心ある方々に送っていたようでした。
さまざまな邂逅の不思議さに思いを馳せる今日この頃です。